第3話
廊下では逃げ惑う生徒の怒号と悲鳴が絶え間なく響いている。破裂音は聞こえないが、依然、地獄は続いている。
「開けよおっ!!」
扉の向こうで誰かが叫び、引き戸が大きく揺れた。しかし、杉石君は小窓からは見えない角度で全身を突っ張り、引き戸を完全に押さえ込む。何度かがたつかせるうちに波に飲み込まれたのか、向こうの誰かの声は喧騒に掻き消えた。
杉石君は、これ以上の人を招き入れるつもりはないらしい。扉に張り付き小窓を窺う表情には一切の油断がない。
ならば何故、僕はここに引き込まれたのだろう。群衆に踏み潰されて死ぬはずが、突如として救い出された状況を未だに理解できない。空の頭でぼうっと辺りを見回していると一人の女生徒が足音を殺して躙り寄ってきた。
生徒会の文字が刺繍された腕章をつけている。彼女はたしか、生徒会長を務めていたのだったか。壇上に上がり弁舌を振るう姿を見かけた覚えがある。
「貴方、誰?」
「二年の瑪瑙です」
「メノウ? 知らないわね」
知っているわけがない。彼女のような立派な役職を与えられた者からすれば、僕はその他大勢の一生徒にすぎない。
「……まあいいわ。杉石君のことだから、きっと意味があるんでしょう」
彼女は小声でひとりごち、疑いを払うように頭を振った。目にかかった長い黒髪を鬱陶しげに除ける。
「私のことは知ってるわね? 生徒会長の
玻璃さんに指でさされた金剛さんは控え目に頭を下げる。何度か教室で見かけた気がするので、もしかするとクラスメイトなのかもしれない。
「外はまだ危険だ。自己紹介もいいが、しばらくは静かにしておこう」
横目でこちらに気を払っていたのだろう、杉石君が小さく、けれどはっきりとした口調で言う。玻璃さんが無言で頷き、混乱と騒音が聞こえなくなるまでのおよそ一時間、僕達は息を殺して縮こまっていた。
「……ようやく人がいなくなったな」
杉石君は額に浮いた汗を拭い、慎重に引き戸から体を離した。
小窓から窺える廊下には先までの荒波のような人混みは姿を消し、不気味なほどの静けさが漂っている。
全員が無事に脱出できた、などという幸福な結果があるはずもない。押し潰されて生き絶えたか、破裂して美少女と化したか、どちらにせよ尋常でない光景が広がっているのは明らかで、僕に戸を開ける勇気はなかった。
「状況を整理しましょう」
よく通る声で玻璃さんが言うと、金剛さんが備え付けのホワイトボードの前に立ち、マジックペンの蓋を外す。
「まずはあれが何なのか、情報が必要だな」
顎を撫でながら呟く杉石君に向かって、金剛さんが手を挙げた。
「回線はまだ繋がるから、色々調べてみた。正確かどうか分からないけど、それでもいい?」
「ああ、頼む」
まず、と金剛さんは前置きしたうえで、ホワイトボードに『感染方法』と書きつける。この異常事態がウィルスによるものかは定かではないが、殺し、増える過程はゾンビ映画に似ていて、感染と称することに違和感はない。
「破裂の原因だけど、やっぱりあの裸の女の子との接触が引き鉄。情報は色々あったけど、可能性が高いのは粘膜接触」
皮膚や粘膜の直接的な接触による感染。空気感染や飛沫感染と比べ、感染拡大の危険は少ないように思えるが、今回は感染源に問題がある。
見え麗しい裸の少女。考えたくはないが、進んで接触しようとする連中もいるだろう。
「……破裂した時に飛び散る血液にも感染力はあるのか?」
「ある。人混みの中で一人が破裂して、次々に連鎖する動画もあった。でも、血っていうには水みたいにさらさらしてるから、多分、別の液体なんだと思う」
血液が置き換えられるのだろうか。人間を作り変える液体なぞ聞いたことはないが、状況はすでに人智を超えている。情報を精査するよりも、多くを集める方が重要だ。
「外の状況は?」
「今日の十一時、東京を含む世界中の主要都市で突然発生した。地方の状況までは分からないけど、他人事でお祭り騒ぎしてる人も多いから、全世界で一斉に、ってわけじゃないみたい」
主要都市だけに発生したと捉えれば、世界規模のテロ行為のようにも聞こえる。しかし、観光名所があるわけでも、特産品があるわけでもないこの町にもほぼ同時刻に発生したということは、誰かが狙って起こした災害ではないのだろう。全裸の美少女が自然発生したというのも、信じられない話ではあるが。
「あと、破裂したら必ず増えるわけじゃないみたい。確率は五分五分。条件は不明」
金剛さんの言葉を聞いて、少しだけ安堵する。全生徒が変貌していたなら校舎からの脱出は絶望的だが、半数ならまだ可能性はある。
楽観的とも言える感想を抱く僕の前で、金剛さんが深刻な面持ちで話を続ける。
「……あれはネット上だと、JCって呼ばれてる。政府の発表はまだだけど、SNSではもう定着してる」
JCとは、女子中学生の略語だったか。確かにあれは、中学生くらいの年頃に見えた。ほとんど聞くことのない俗語だからこそ、固有名称に使えるかもしれない。
「それで、どうするの? このままここで救助を待つ?」
金剛さんの手が止まるのを見計らって、玻璃さんがよく通る声で言う。杉石君はすぐに首を横に振った。
「いや、期待できないですね。世界が混乱している中、ここみたいな田舎は後回しにされる。腹が減って判断が鈍る前に、とっとと外に出るべきだ」
「どうやって外に出るつもりなの。それに、出られたとしても、その先は──」
「電気や水道は近いうちに止まるな。ネットもいつまで保つか分からない。アウトドア用品でもあれば自活は出来そうだけど……持ってる人いるか?」
杉石君の呼びかけに金剛さんが反応する。
「わたしの家、お父さんが趣味でよくキャンプに行くから一通りは揃ってると思う。発電機もあるよ。使い方は分からないけど、説明書みればなんとかなると思う」
「よし。場所はどの辺だ?」
「ここから四駅くらい、かな」
言いながら、金剛さんがマップアプリで示した住所は偶然にも僕の実家に程近い場所だった。歩くには遠いが、自転車があれば一時間と少しで着く。
「備蓄はそんなにないけど、四人くらいなら泊まれると思う」
「それじゃ、途中で食料を集めながら金剛の家に向かおう。最初は、そうだな……取り敢えず近くのコンビニを目指そうか」
「ちょ、ちょっと。勝手に進めないでよ。外に出る方法も分からないのに」
「視聴覚室の救助袋を使う。それなら、校舎内の移動も最小限に済む。幸い、ヤツらはまだ外には溢れていないようだから、行動は早い方がいい」
杉石君は窓から校庭を見下ろしながら、淡々と玻璃さんを諭す。だが、玻璃さんは納得がいかないようで、眉間に皺を寄せて杉石君を睨め付ける。
「死ぬかもしれないのよ? そんな簡単に決断できないわ。大体、なんで私達だけで行動する前提なの? あなた達は家族が心配じゃないの?」
「この状況じゃ合流したところでどうにもならない。まずは安全を確保して、それから考えるべきだ」
「子供だけで無事でいられるわけないでしょう。大人の力を借りるのが先よ」
「借りるのは政府の力だ。対処が追い付いていない今、子供も大人も同じだろ。素性の知らない奴らと組むよりは、子供だけだろうと見知った何人かで固まった方がマシだ」
同い年とは思えない自立した思考だ。長いものに巻かれる以外の選択肢を持たない僕とは発想が違う。
強力なリーダーシップを目の当たりにしてもなお不安げな表情の玻璃さんを見て、杉石君は溜息を溢した。
「どうしても先に家族を探したいって言うんなら止めませんよ。ただ、一緒には行動できない。学校を出て、そこからは一人で行ってください」
突き放す冷たい響きだが、効果は覿面だった。玻璃さんは一人きりでは先の一時間すら危うい現実を苦々しく噛み潰し、ゆっくりと口を開く。
「……分かった。一緒に行く」
「それじゃ、動こうか」
玻璃さんが頷くのを確認して、杉石君が両膝を叩いて立ち上がる。ぐるりと辺を見回す彼と目が合った。気まずさと嫌な予感から慌てて俯くが時すでに遅く、杉石君は爽やかな微笑を湛えて僕の肩に手を置く。
「俺と瑪瑙くんで用意してくる。準備できたら会長に連絡するから携帯には注意しておいてくれ」
あれだけ自分を蔑みながら、いざ命の危険が迫ると及び腰になるのは何故だろう。矛盾だらけの僕に大役が務まるはずがないと思いながらも断る程の理由はなく、結局は曖昧に頷くことしかできなかった。
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