174.いつか、この空の下。
――感覚が溶けていくのが分かる。
どこまでも、自分というものが失くなっていくのが分かる。
消えていく。すべてが無へと帰っていくのだ。可能性の消失。この世界から、僕という痕跡がいっぺん残らず消え去って。僕という存在は役目を終える。
これが最後なのだろう。ここが終点なのだろう。そう、理解してしまえるほどに、僕の身体は虚無に近かった。
三重スクエアの代償だ。
これが自然なことなのだ。無理には手痛いしっぺ返しが待っている。無茶では道理は動かせない。蛮勇とは、愚かであるから蛮勇なのだ。
であれば僕は、間違っていただろうか。
愚かだと、そう言ってしまっていいのだろうか。
確かに、多くの者はそれを愚かと言うだろう。そりゃそうだ、感情だけで突っ走り、最後には自分の命すら投げ出して、あとに残ったのは、ただ救ったという事実。
それすらも――本当に救えたのか確かめることもかなわない。
僕は、それでも構わないとすら思って、あの時踏み込んだ。
だから、後悔はない。これで良かったのだと、心の底から思うことはできる。納得することはできる。ただ、そうやって踏ん切りをつけてしまった後に、
ふと、思ったのだ。
――ああ、また。
彼女たちに怒られてしまうのだろうな、と。
そう思った時、少しだけ、後ろを振り向いた時。いつも側にいた――けれどもどうしてか懐かしく感じる彼女たちの顔を思い出し、僕は。
そちらを向いた。
◆
――ふと、感覚が戻る。
意識が覚醒するのだと、そう感じる。
僕は、どこにいるのだろう。――意識に連続性がない。少しの間、どこか遠くへ行っていたような、不思議な浮遊感がある。
そして最初に感じたのは――柔らかさ、だった。
「ここ、は――」
「――――起きた」
少女の声だった。
視界が開く。
ぽつり、となにかが頬を伝った。それがすぐに雫――涙だと気がついて、その少女の声で、僕がどうなっているのかを理解した。
「マキ――ナ――」
見上げる先に、マキナの顔があった。
泣き出して、くしゃくしゃになった顔で笑みを浮かべて、とてもではないが、人に見せられない顔をしていた。けど、しかし――
――笑顔のマキナは、とても幸せそうだった。
「……よかった」
僕を膝枕して、涙をぽろぽろ零しながら、少女が泣いている。それを、少しの間眺めて僕は――手を伸ばした。
「なぁ、マキナ――」
「……うん」
「――もう、泣かなくてもいいんだぞ」
その涙をそっと拭って、
「――――うん」
マキナの顔には、笑顔だけが残った。
しばらく、そうしてから起き上がる。マキナがさせてくれなかったのもあるし、僕もどこか身体が重い自覚があった。ほんの少しの間、身体から魂が離れていたせいで、身体の使い方を忘れてしまったかのような。
「君は――可能性を急速に失っていたんだ」
「……無茶をしたから?」
「三つも概念を重ねた上に、概念起源まで三つ重ねてしまったんだ。前者だけならともかく、後者はあまりにも致命的だった」
マキナや世界が僕に手を出していないにも関わらず、僕から可能性が失われていったらしい。たった一瞬、限界を越えた極限にまで手を伸ばしただけだというのに。
「そもそも、至宝回路自体が非常に無茶な衣物なんだよ。寿命という代償なしでは維持できないくらい。……寿命のない生物が使用することは、想定されていない」
「まぁ、そうだろうね」
あまりの無謀に、マキナは起きた瞬間絶句したそうだ。無理もない、自分が救われたと思ったその瞬間に、救った相手が消えようとしていたのだから。
「でも――ある時、急にそれが止まった」
「……皆のことを、思い出したときかな」
「それだけで可能性の消失が収まるもんか! 何か――そうだな。敗因、嫉妬龍と何かこう、特別なことをした覚えは?」
――とても、失礼なことをマキナは聞いてきた。
「あまり」
「――あの関係でしてないの!?」
更に失礼なことをのたまい始めた。
いい加減なにかこう、頬でも引っ張ってやろうかと思ったが――ともかく、少し思い返すと、一つだけ。
「君の概念起源の中――つまり、可能性の世界の中でキスをしたな」
「それだ」
ぽん、と両手を叩いてマキナが納得した。いや、まぁ何かあるとすればそれくらいだろうが、だからといって何があったのかは、僕にはさっぱりなのだけど。
「あそこは可能性の箱庭で、可能性の塊だ。そんな場所で可能性の龍とキスをすれば、君の中には可能性が宿るだろう」
「可能性の龍?」
――初耳の単語だ。
「考えてもみなよ、嫉妬龍の権能は、本来ならありえない可能性を生み出す能力だ。概念使いの可能性は、生まれた時にすべて決まっているのだから」
それは、つまり。
大罪龍の中で、他者に力を与える龍は嫉妬龍だけだ。色欲龍は生まれた時に力を与えるが、これは生まれたときからその可能性が決定しているため、突然与えられるわけではない。
だから、それは、つまり。
フィーだけが他者の可能性を変えられる龍だったのだ。
「ボクは彼女を生み出したとき、彼女の破滅を願って力を削いだ――けど、それだけじゃない。力を与えた場合、どうなるかわからないから、削いだんだ」
「今のフィーは大丈夫なのか?」
「今の彼女の力は大半が色欲龍のものじゃないか、これとはなんの関係もないよ」
なるほど、とうなずいて。僕はフィーの顔を思い出す。僕に三重概念の可能性を与える時、フィーは僕に言った。少しでも、帰って来れる可能性になるために怒るのだ、と。
――本当に彼女の言う通りになった。
思わず苦笑してしまうほど、彼女は僕の福音だったのだ。
「むぅ……」
それを見て、マキナが僕にぽすんぽすんと拳を入れる。じゃれつくような猫パンチといった感じで、どこか可愛らしいが、なんというか、すねているのだろうか。
「今くらいは、ボクだけを見ておくれよ」
「あはは……」
嫉妬龍を思い浮かべて、それのせいで嫉妬されてしまった。――嫉妬龍とは、他人を嫉妬させる能力もあるのだろうか。
「――ぷ、あはは!」
「……マキナ?」
と、思えば今度は笑いだす。とても愉快そうに、楽しげに。――これまでにないくらい、彼女は幸福に満ちていた。
「久しぶりに、楽しいと思ったよ。いや、そもそも、はじめて楽しいということを、ボクは知ったのかもしれないな」
そうして、天を仰いで、
「ああ――こんな簡単なことだったのか」
そう、つぶやいた。
「――それで、敗因。ボクはこれからどうすればいいのかな?」
そして、意識を切り替えてマキナは問いかける。
――そう、世界との戦いはすべて終わったが、マキナとのことは、何もかもが落着したわけではない。これから、マキナは選ばなくてはならないのだ。
このまま、世界の外にとらわれるのか。僕を殺して、器としての立場を乗っ取るのか。
もしくは――別の方法を探すのか。
「それに関しては考えてある。君はこれから、ある可能性を選ぶんだ」
「――? どういうことだい?」
「別の可能性への移動。世界が今までは行っていたけど、君もそれはできるだろ?」
なにせ、可能性という力の根源はマキナなのだから。世界に出来た可能性の操作が、彼女に出来ないはずがない。
であれば――
「意味がないよ。ボクはどの世界へ移動しても、籠の中の鳥なんだから」
「違う」
僕は否定した。
そう、違うのだ。マキナは世界を移動しても、変化しない。だが、一つだけ、マキナにすら変化を与える可能性が存在する。
「何を――」
訝しむマキナに、僕は語る。高らかに、朗々と。
「この世界には一つだけ、あらゆる概念を、可能性を無視して、存在するものがある」
「……」
「それは、その可能性に選ばれた存在の概念すら書き換えてしまう可能性」
「概念すら!? ――ありえない、たしかにそれが可能なら、ボクも可能性を書き換えて、この世界から――ボクという立場から逃げることもできるだろうが」
「あるだろ、その実例が、直ぐ側に」
――その言葉に、
「――僕がここに、いるだろう」
マキナは、大きく目を見開いた。
そう、概念すら別のものに変質し、間違いなく存在する一つの可能性。
マキナが行き着く、唯一の救い。
それが、
――僕、なのだ。
「――あ、はは」
マキナは、今度は、
「あははははは!! あははははははははははは!!」
――とても、とても愉快そうに笑い始めた。僕も、つられて笑い出す。ああそうだ、これこそが僕のたどり着いた最後の結論。
救われない邪悪だった無垢なる赤子に、救いという名の旅を与える。
そう、つまり――
「――敗因!」
その時、マキナが叫んだ。
笑みを浮かべたまま、僕に飛びついて、そして見上げる。
「ありがとう! やっと、見つけたよ! たしかにそれなら、ボクはやり直すことができる。自分の不始末に、自分で決着をつけることができる! ああでも! なんて茨の道なのだろう!」
「……そうだな」
「君は酷いやつだ。ボクにこんな可能性を押し付けて! ボクをこの世界から追い出すんだろう!!」
「ああ」
「――必ず、戻ってきて復讐してやる!」
そう言って、今度は僕から離れて、くるくると回る。少女には、未来が見えていた。輝かしいかどうかはわからない。その可能性に足を運んだ時点で、彼女から可能性を視る力は失われるのだから。
「だから、敗因」
――そして、止まった。
「――いつか、この空の下」
笑みと、そして覚悟を瞳に秘めて。
「また、ボクたちが出会ったらその時は」
少女にとって、それははじめての勇気。最初の一歩。長い長い旅路への、始まりに過ぎない第一歩。けれども絶対に、踏み出さなくては始まらない一歩だった。
「――ボクと、友だちになって欲しいんだ」
ふと、僕自身がそれに笑みを浮かべていることが分かる。
「よろこんで」
快諾する。――少しだけ、心が幸せになった。そんな気がした。
「だから、その……敗因……いや、えっと」
そうして、もじもじとマキナは少し、ためらいがちに、何かを僕から聞き出そうとしている。なんだというのだろう――さすがに、想像がつかない。
僕はマキナのことを、何も知らないのだから。
「敗因って――白光と同じ名前だよね。あれって、どうして?」
想定外の問いかけだった。
しかし、問われてみれば、どうしてそう問いかけたのか、彼女の態度から推測はできる。つまるところ――
「偶然だよ。いや、僕と白光は可能性がつながっているから、ある意味では必然なのかもしれないけれど――つけた理由が違うんだ」
……そう、僕と白光――フィナーレドメイン主人公のデフォルトネームは、同じものだった。ネットの世界にはじめて足を踏み入れた時、その名前を決めて、以降ずっとそれで通してきて。
不意に、思わぬところで被りを起こした。
だから、僕はその名前に苦手意識があった。何かあるごとに友人から弄られるのだ。当然といえば当然である。そもそも、名前の意味も全く違うというのに。
「――白光の場合は、人間を意味する言葉を、名前としてつけるときに、自然なように言い換えたんだ」
「じゃあ、敗因は?」
「勝利して、飛躍せよ」
だから、僕の名は――そして、白光の名は――
「君らしいね」
マキナはそう言って、足元に光を生み出す。可能性の光だと、これまでの戦闘で得た経験から推測できた。――あの中に、マキナは消えていくことだろう。
自由を――生命を勝ち取るために。
だから、コレが別れだ。マキナは僕に手を振って、そして背を向ける。
「――それじゃあ」
長い――長い旅が終わりを告げる。理不尽をひっくり返すという理由で始まったこの旅は、少女を救うという決着に落ち着いた。
そして、これから、少女の旅が始まるのだ。
それは僕と同様に、無数の理不尽と困難が待ち受けていることだろう。だが、少女はそれにくじけない。何故なら、やり遂げたのを見てきたからだ。
自分がこれから歩む旅路を、観客として。
ああ、だから――僕は彼女にこう呼びかけるんだ。いってきます、と。再開を祈って告げる少女に、そして――
「――またね、ヒューリ」
「ああ――勝ってこい、マキナ」
初めて僕の名を呼んだ少女に、
負けイベントをひっくり返せ、と。
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