107.色欲から、何よりも大切な人達へ
――その日、快楽都市は晴れ渡っていた。
人々は変わらずに街を行き交い、絶えることなく街のあちこちで喧騒が響く。
見れば店の目の前の通路が狭いからと向かいの店を破壊しようとしている概念使いがいる。その最中にこそこそと火事場泥棒をする概念使いがいれば、争う概念使いの戦闘でトトカルチョをするものもいる。
どこまでも、快楽都市は動じない。彼らは混沌としていて、救いようがないほどに自分勝手ではあるけれど、彼らなりの、他人には理解できない日常が広がっているのだ。
そして同時に、そんな日常の中では、多少の混乱も想定のうち。いきなり道の真ん中で脱ぎ出しても、迷惑ならば排除され、そうでもなければ無視されるだろう。
ただ、その日の異常は普通ではなかった。
『聞こえているかしら』
騒がしい街並みの中にあってなおよく通る、快楽都市の主人の声が、街中に広がったのだ。
そこからの反応は劇的だった。その時、活動していたあらゆる人間がその活動を一旦止めた。この声は衣物を通して街中に届くようになっており、これが聞こえないものはほとんどいない。だからといってそれで手を止めるのは個人の自由なのだが、
だからこそ、彼らは自分たちの自由で色欲龍の声に耳を傾けたのだ。中には話が聞こえるように音を小さくしながらすぐに作業に戻るものもいたが、手の空いていたもの、ただ乱痴気騒ぎに興じていたものは、今も変わらず話を聞いていた。
快楽都市において色欲龍の言葉は大きな意味を持つ。彼女が行動を制限することはない。彼女が何かを押し付けることはない。しかし彼女の存在は快楽都市においては絶対的だ。それはあるものにとって色欲龍こそが最も敬愛、親愛すべき相手であるからで、あるものにとっては彼女とこの快楽都市に、救われたものがあるからだ。
彼らは一人一人が自分の事情で色欲龍に心酔し、彼女の存在を心の一部に置いているのだ。
そんな彼女が今、話を聞いてほしいと呼びかけてきた。答えない快楽都市の住人は、いなかった。
『少し前から、男性が搾り取られる事件が起きていることは、みんな知っていると思うわ』
話の内容は、多くの住人が想像した通りのものだった。
『その犯人が、もうひとりの私、影欲龍であるということも。そんな影欲龍にルクスという名がついたことも、知っている人は知っているのでしょうね』
ここは快楽都市、人の口に戸は立てられない。情報収集能力の高い概念使いなら、どこまでも事情を知っていることがある。不思議と、知られているのだ。この街では。
だからこそ、
『今日、私がする話は、そんな彼女を助けて欲しいという話』
――それも、知っている者は少なからずいた。
あるものが、屋台の店じまいを始め、あるものは自身の装備を確認し始める。知らないものはそれを見て、周囲の者に話を聞きに行く。
『影欲龍ルクスリア、彼女は他人の生命を奪わないと生きていけないの。これは、分けてあげることができないという意味よ。人の生命が危うくなるところまで吸わないと、彼女は存在を保てないの』
それを、知っている者がすでにいる。
それ故に、これから色欲龍が語ることも、彼らは知っているのだ。
その上で、彼らはすでに行動を決めていたようで、準備に入っている。
この街は、そういう場所だ。
『どころか、今の彼女は奪った生命をタメておくこともできなくなってる。もう、長くは持たないと思う。だからなのだけど』
――だからそれは、ある意味問う意味のない問いだった。
『ルクスを、助けたいの。手を貸してくれないかしら』
その言葉で、しかし知らないものも動き出す。
――一つになり始めた個人主義の都市で、その主は、けれども人々を一つにするために語りだす。その言葉に、足を止める者はいない。
『――私、人間が好きよ』
けれども、耳を貸さない者はいない。
『私は大罪龍としては失格で、人とは違う時間を生きる存在で。そのどちらにもなれないの。神にもなれないし、天使にもなれなければ、大罪にすらなれない。それが私、色欲龍エクスタシアは半端者よ』
生まれたときから、それを定められた者たちがいた。
その中に色欲龍は存在していて、けれども、その中にすら、エクスタシアは含まれていなかった。
『私があなた達に命を与えるのは、言ってしまえば、それが決まりきった役目だからだけれど。でも、あなた達は私を受け入れてくれたわ』
――彼女が加わる輪は。人の輪の中だった。
人でないのに、人と同じ世界で生きようとして、受け入れられた事は奇跡だっただろうか。神の采配だっただろうか。
『――嬉しかった』
でも、
それに対して、色欲龍の言葉は、決まりきっていた。
『当たり前の世界に、私の姿があることが。楽しいを共に分かち合う場で、私が笑っていられることが。幸せを探すために、寄り集まって前にすすめることが』
言葉を受け取る側は、それに何も答えない。
『私はどうしようもなく淫蕩で、誰からも否定できないほどに淫猥で、そんな私は、誰からも好かれているわけではないと思うの』
――ただ、この場にそんな人間はいない。
ここは、エクスタシアの箱庭だ。だから、その箱庭には、彼女が求めて、彼女が作り上げたものが収まっている。
『私は自分に自信が持てない。私という存在が誇りに思えない。でも、私に付いてきてくれる人達を否定したくはない』
だから、
『私の誇りは、あなた達よ』
彼らは、その言葉が聞きたかったのだ。
『ルクスリアは、私から生まれた、私と同じ思いを持つ私じゃない誰か』
ルクスは楽しいが羨ましくて、それを傷つけたくなくて心を壊した。終わりという救いを願った。それは、エクスタシアが抱いてきたものだ。
この街には、抱えきれないほどの楽しいと、自由と、そして退廃が満ちている。そんな中で、人々は好き勝手に生命を謳歌して、決して胸を張れるような場所ではないけれど、たしかに在ると心の底から宣言できて。
そんな街に、ルクスは憧れた。
だったら、そんな街の住人が、するべきことはなんだ?
『――言ってしまえば、彼女は私の妹よ。娘、というには私に近すぎる。そんな――あなた達の新しい家族。おばさんって呼ぶと、あの子は拗ねてしまうでしょうけれど』
そうやって苦笑して、そして続ける。
『だから、私の大切な子どもたち。私を好きと言ってくれる人達』
――それは、
『色欲より、何よりも大切な人達へ』
彼女の嘘偽りない、本当の言葉。
『――――ルクスちゃんを、助けて』
その言葉を待っていた。
誰からともなく、歓声が上がり、そして快楽都市は動き出す。
◆
「――ごめんなさい、なの」
支度を始めるリリスが、僕たちにそう断った。
「今回、リリスはあなた達とは戦えません。リリスは、色欲龍様の信徒として戦いますの」
「解ってるさ」
――色欲龍を祀る悦楽教団の信徒、シスター・リリスは今回、色欲龍の元へと馳せ参じる。今回ばかりは、彼女は僕たちではなく、色欲龍と共に戦うことを選ぶのだ。
「リリス達の一生に、色欲龍様から頼られるなんてこと、一度あればいい方で。こんな機会、滅多に無いし、何よりリリスが色欲龍様の言葉に、答えたいと思ってしまったの」
対ルクスリア救済戦。とでも呼ぶべき今回の戦闘では、僕たち紫電一行と、快楽都市の軍勢は別れて戦うことになる。というよりも、前段に快楽都市。後段に僕たちという編成だ。
理由としては、今回の戦闘は一度目も二度目も、対大罪龍だ。基本的に、大罪龍と戦う場合、どうしても必要になるものがある。切り札、というやつだ。
僕たちで言えばスクエア・スクランブル。つまり概念起源。
二度の戦闘が必要になる上に、連続戦闘。僕たちだけでは勝負の土台に立てない。いや、僕はそれでも構わないのだけど。
今回は僕の戦闘じゃない。だから、僕はあくまでこの戦いに挑む一人の概念使いでしかない。
「それに、二戦目に突入した直後は危険だ。そのときに、概念崩壊した人を逃がすために、百夜の力は必要不可欠で」
「ねむい」
「この調子の百夜に呼びかけるには、リリスの存在が必要だろ?」
布団を被って丸まった少女を指差しながら、僕は言う。それにリリスも苦笑して、
「何より――一戦目を君が生き残れば、二戦目にも君は加わってくれるだろ?」
「信頼しすぎなの。買いかぶりはらしくないの」
「事実じゃないか」
話を横で聞いていた師匠が茶々をいれる。僕たちはそれに可笑しくなって笑って、しばらく笑い声だけが響いた後。
「……ねぇ、どうしてリリスたちはこの街に集まって、色欲龍様のためなら何も言わずに動けると思うの?」
「…………なんでだろうな」
師匠は身体、と言おうとして止めたようだ。
「――色欲龍様は、自分に自信がない。だからその分、リリス達を誇りに思ってくれている」
リリスは子供だ。色欲龍の身体を目当てにここにいない。色欲龍の美貌はたしかに魅力的ではあるけれど、それではこの街にいる女性の存在に説明がつかない。
この街の男女比は、意外なことに半々なのだ。
誰もが、色欲龍のために生命を投げ出す覚悟があるが。
「それが嬉しいから、リリスたちはここにいるの」
理由は、頼られるから。
「あの人って、可愛い人なのね? 人懐っこくて、誰のことでも大好きで、死んでしまった人のことをキにしないって言うけれど」
語るリリスは、どこか楽しげで、嬉しげで。
「あの人、絶対に人の名前を忘れないの。自分の子供なら、なおさらなの」
――色欲龍を愛するということは、色欲龍に愛されるということは、
「だから、色欲龍様と一緒にいるってことは。色欲龍様と永遠に一つになるってことなの」
「――それは、なんというか」
「……羨ましいですね」
僕と師匠が顔を見合わせて。
リリスが、ウィンプルの中の髪をかきあげて、僕たちに背を向けた。
「行ってくるの!」
「ああ、行ってらっしゃい」
布団から百夜を連れ出して、頭に乗せると、リリスは飛び出していった。
「――なんというか」
「はい」
僕は、町の外を見る。師匠もその隣に並んで、見下ろして。
――全員が同じ場所へ向けて歩き出す光景を眺めて、
「――ここは、すごい場所だな」
そう、僕たちは思うのだった。
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