98.真夜中に軋ませたい。
その夜は、驚くほど静かな夜だった。
ここは快楽都市の宿の一室。悦楽教団が経営する宿で、僕たちはそこに格安(無料ではないところが実に快楽都市)で泊まらせてもらっている。かれこれこの宿に泊まりはじめて、既にそこそこの時間が経った。位階が60前後だった時から、現在は80強、随分と上がったものだ。
ただ、ここからもう少し位階を上げておく必要は間違いなくある。
当たり前といえば当たり前の話だが、次の相手は影欲龍。これを色欲龍の犠牲なしに攻略しようとする場合、その難易度は傲慢龍並だ。なにせ、影欲龍はインフレ極まったドメインシリーズ最終作の敵であるのだから。
人手がある分、傲慢龍よりは攻略難易度は低いだろうが、逆に被害の心配をする必要が出てくる。
とはいえ、そもそもそれをどうにかしようにも、色欲龍の説得は必須。この間はうまくはぐらかされてしまったけれど、なんとか説得して、事件を解決する必要があった。
もちろんそれについては多少の考えはあるのだけど、でも、彼女の言葉は最もだ。
つまり、現状影欲龍は男を干からびさせる以外のことはしていないのだから、多少は放っておいても問題はない。命まで取られているわけでもないのだから。
そのため、僕たちは一度、位階上げを完了させることに決めた。
とりあえずの目標は90レベル。そこまで上げれば、カンストとのステータス差は、十分誤差と言っていい程度になる。そして、それを終えるまでに必要な期間はだいたい一週間ほど。それが終わったら、事件に本格的に介入開始だ。
まぁ、その前に事前準備は、人を雇って進めているのだけど。
やっていることは主に二つ。憤怒龍の塔の監視と、とある遺跡の調査だ。憤怒龍に関してはもし戻ってきたら即逃げて報告してくれればそれでいい、というモノ。
遺跡の調査は、文字通りだ。
――というわけで、色欲龍の説得に失敗した僕たちは、一度回り道をすることにした。それが、この調査と位階上げである。まぁ、調査に関しては既に行っていたことではあるのだけど。
さて、色欲龍の説得だ。彼女は人類の味方であり、また彼女を中心に秩序が作られることを許容する存在である。そしてそれが故に、自身により集まることで作られた共同体を、守護する責任が彼女にはある。
実を言うと、色欲龍の情緒はまだまだ未熟だ。
快楽都市は色欲龍の体現である、彼女のあり方、彼女の生き方に感化された者がこの場所には集まっている。結果、出来上がったのは完全個人主義であるにも関わらず排他的ではない、そんな街。
秩序も、治安も、全ては個人が管理する街。それでも、間違いなくこの世界における人類の生存圏の一つ。歪んではいないが、尖っていた。
どうしようもなく、尖りまくっていたのだ。
というわけで、そんな尖りまくった色欲龍には、何とか丸くなって貰わなくてはならない。そのために、この位階上げが終わったら行動を起こさなくてはならないのだけど。
僕たちはまだ、答えが出ていなかった。そんな夜のことだった。
静かな夜、
僕は、自身の上に、なにか重みと温かみを感じた。
「ん――」
それに気付いたがゆえに、僕は目を覚ます。寝ぼけ眼で、時刻はわからないが、おそらく日をまたぐかまたがないかというところだろう。
そんな時間に起こされる身にもなってほしいが、ともかく。
見る。そこには、
――扇情的な姿の、色欲龍の姿があった。
いや、これは――
「――ねぇ」
僕が違和感を――寝ぼけた頭で――覚えながら、ぼーっと彼女の姿を眺めていると、彼女はゆっくりと僕に体重をあずけて、倒れ込んでくる。
柔らかな肌の感触が、布団越しに僕へ伝わった。
「私と、一つになりましょう?」
甘ったるい、声と香り。鼻をくすぐるその感覚は、人の思考を麻痺させる。正常な判断をつかなくさせるような、そんな危険性をはらんでいるように思えた。
事実、僕の頭は、ぼうっとなって、今にも溶けてしまいそうだ。
故に僕は問い返す。
「どうして……?」
「理由なんて、いらないわ? 貴方が男で、そして私は色欲龍。であるなら、そのあり方は、これが一番正しいのよ」
これ、という言葉の意味がわからない。
彼女の言わんとしていることは、まったくもって遠回しだ。そんなもの、脳がとろけきって、正常に思考が回らない僕には、劇薬以外の何物でもない。
「ああ、それは――確かに魅力的……かも、しれないな……」
「そうでしょう?」
スルスルと、色欲龍が自身の身につけているものを外していく。もはや、完全に一対一で僕とやり合うつもりではないだろうか。
「だからどうか、私に貴方の情けをちょうだい? 心の底から私を包み、私に取り込まれてしまいなさい?」
妖しく笑うもうひとりの色欲龍は、如何にもそういった経験が豊富という様子だった。たしかに、それはとても大事で、いくらやっても足りるという概念がない経験ではあるものの。
その時、僕の中で答えは一つだった。
目の前で淫らに揺れる色欲龍を見上げながら、僕は――
「――――眠いので、失礼します。おやすみなさい」
性欲よりも、睡眠欲を優先した。
◆
目を覚ませば、女性陣が僕を取り囲んでいた。
「おはようございます」
「おはよう」
寝ぼけ眼の僕に、師匠がそれはもういい笑顔で挨拶してくる。一体どうしたというのだろう、僕は首を傾げながら、周囲を見渡す。
師匠も、
フィーも、
あとリリスは正直からかいのニヤケ面がスケているけれど、
それはもう、すごい目で僕を見ていた。怒りとか、驚愕を通り越して、なんていうかもう、自分とは別の生物を見る目で。
「……何があったのか、お聞きしても?」
僕が、これはもうヤバイやつ――シリアスではなく、ギャグ方面で――だと認識し、覚悟を決めて問いかける。ごくり、と喉が鳴る音がした。
一体僕は、何をしたんだ――?
「昨日の夜」
そう、師匠は一拍置いて、
「色欲龍が君の部屋に入っていくのを見たというタレコミがあった」
ああ、それは――
――みれば、すごい目で見ているフィーの眼の端には、涙が溜まっていた。そりゃあそうだろう、嫉妬とか、その他諸々で今、彼女はおかしくなっているはずだ。
でも、僕は昨日何もしていない。途中、一度起きた覚えがあるけれど、眠気に負けてすぐに眠りに落ちたはずだ。
だから、何もしていない。
「しかも、色欲龍が部屋に入ってから、君のベッドが軋み続ける音がしたんだ」
「――あれ?」
何もしてないぞ?
……何もしてないんだけど、でも、そういえば、色欲龍を見た記憶はある。見た記憶だけ。つまりこれは、どういうことだ……?
「しかも」
師匠は続ける。
「一日中、朝まで軋んでいたそうだ」
――それは、理解した。
理解してしまった。
「そして、私達は今朝、泣きながら君の部屋から出ていく色欲龍を見た」
なぁ、と師匠は続ける。
「――君は色欲龍に勝ったのか?」
あ、それは――
僕は、そこでふと気づくものがあったけれど、でもそうか。これでハッキリした。確かに昨日、僕は色欲龍を見た。夜、僕のベッドの上で、なんかこう、僕を誘っていた。気がする。
――良くは覚えていない。眠かったから、意識が覚醒する間もなく、僕はまた寝たから。
そしてそれは色欲龍のプライドを傷つけるには十分だっただろう。彼女は色欲の権化、すべての男性が、そして場合によっては女性すら誘惑し、食い物にする性欲の体現者なのだから。
それが、誘惑できなかった。しかも、ずっとベッドが軋んでいたということは、彼女は僕を起こそうとしたのだろう。毛布の下の自分の様子を見るに、寝ている間に手を出された様子はない。そこは彼女の性行為への誠実さの現れか。
どちらにせよ、彼女は僕を叩き起こそうとして奮闘した挙げ句、失敗した。僕は全く起きなかったのだ。
そりゃあ、泣きながら帰っていくよな。プライドズタズタなんだから。
ああ、でも、けれど。
「違います」
それを口にすると、
「寝てました。色欲龍を見た覚えはありますけど、彼女より睡眠を優先しました」
――師匠たちは、僕を理解できない眼でみた。
特にリリスが酷かった。こいつ人間じゃないな、と言わんばかりにこちらに目線を向けている。悪かったね、いや実際人間じゃないのだけど、精神性という意味だろうこの場合。
師匠はなるほどな、と納得したようだった。この人はこの人で、大概どこかズレている。僕が色欲龍に夜這いされたというのに随分と冷静だし、僕が何もしていないといえば、すぐに納得したようだった。
「……全然気にしてませんね、師匠」
「いや、君ならそうだろうなぁ、とは思っていたからな」
――凄まじくズレた信頼故の納得であった。
で、問題は。
「あ、ああああ、あんたはあああああああ!!」
フィーだ。限界だと言わんばかりに僕に詰めより、僕をガンガンと彼女は揺らす。寝起きにこれは結構きつい。いや、フィーの激情はこんなものではないのだろうけど。
「心配させないでよ! 何考えてんのよ! 本当なんでしょうね! 羨ましいのよあいつ!!」
「おちついて、感情が一気に全部まとめて噴出してるから。大丈夫だから、何もされてないから。……色欲龍は香りという奴を随分と気にするから、そういうことがあれば、香りをつけてそれをごまかそうとするだろ」
「……うん」
「そういう香りはするか?」
「しない……」
なら、そういうことだ。
グズグズと鼻を鳴らすフィーを引き剥がしながら、ポンポンと頭をなでてなだめる。ああしかし、今回は完全に冤罪とはいえ、これはデートのときに思いっきり彼女をエスコートしないとな、と思った。
でないと、いっそ彼女に食べられてしまいそうだ。
……まぁ、それも嫌とは言えない僕がいるけど。僕だって男だ。
「――おかしいの」
リリスがつぶやく。
「絶対おかしいの! エクスタシア様がぱくりんちょしようとして、それより睡眠を優先する奴がいるはずねーの! あのむっふーんに耐えれる男はいねーの!! こいつ男じゃねーの!!!」
ビシッと、狂乱したように叫ぶ。
どんだけ衝撃的だったんだよ。
「いやだって、いきなり一番眠い時間に襲いかかられてもなぁ。僕は夜はぐっすり寝たいし、邪魔されるくらいなら、二度寝決め込むよ」
「だとしても男のせーよくってやつはしょーじきなはずなの! エクスタシア様が負けるはずねーの!!」
――これは。
もしやリリスは信仰が揺らいでいるのか? 色欲龍は性欲の絶対強者。男は彼女の手にかかれば誰もが赤子同然で、彼女の性欲に抗えるものはいない。
だから干物になるまで搾り取られても、男たちはちょっと幸せそうだ。まぁ、あまりにも色欲龍がすごすぎて、以降他の女性に興味が持てなくなる副作用はあるが。
ともかく。
「そりゃなぁ、寝る前にノックして夜這いしかけられたら、僕だって無理だと思うよ。雰囲気に流されちゃうしな。でも、真夜中じゃなぁ。わざわざ性欲を優先する理由もないし」
「こ、こいつ――っ」
リリスにぴしゃーんと電流が走る。
「――雰囲気重視なの!?」
「ど、どういうことよ」
「基本的に、だんせーは性欲が煩悩のすべてなの。エロければ他のことはどうでもいいことって結構あるの。でも、女性は雰囲気が大事なの、雰囲気が良くなければどれだけイケメェーーンンな男が相手でも、冷めちゃうの」
「……こいつ、男よね?」
男だけど?
あとイケメェーーンンってなんだよ?
「性欲の強い女の人もいるの。エクスタシア様とか。だったら逆がいてもおかしくないの!」
「な、なるほど……」
「そして、そういう女性のことを、人は時折こう呼ぶの」
それに、フィーが興味深そうに視線を向ける。リリスは間をたっぷり置いてから、
「――おもしれー女、って」
そう、言った。
…………いや、それはどうなんだ?
「な、なるほど!」
「なるほどじゃないが?」
師匠もツッコミを入れた。僕たちが大きく一つため息を吐くが、ともかく。
僕はそろそろ彼女たちに告げなくてはならないことがある。
「――なぁ、ちょっといいか?」
そう。視線を向けた女性陣に、僕は。
「それ、色欲龍じゃなくて、影欲龍だ」
――そう、告げなくてはならなかったのだった。
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