これは誰なんだ?

 そう考えていくと、黒いもやがはれていく。そうして、顔が見えた。三人の女が、じっと俺を見つめている。ひとりは赤い爪、ふたりめも赤い爪。さんにんめは、爪には何も塗っていなかった。だから、途中まで一人だと、同じやつだと思ってしまっていたんだ。

「なんで……俺なんだよ……」

 怒気を含んだ声は、相手には伝わらない。ただじっとこちらを見つめて、にこりと笑いかけてくる。

『忘れたの?』

 女の一人がつぶやいた。ずい、と黒髪の女が近づいてくる。その顔には、見覚えがあった。思い出したくない顔でもあり、懐かしく甘い記憶を呼び戻すような顔でもある。腹をゆっくりと撫でていたのは、きっと、奈緖だ。

 本気で恋をしたのは、後にも先にも奈緖だけだった。そうだ、ぼんやりと思い出してきた。ここにいるのは、過去に付き合った女たちだ。

 するりと、冷たい指が俺の首を滑っていく。赤い爪が、ゆっくりと突き刺さって、ぷつんと薄い皮膚が破れて、爪と同じくらいに赤い血が流れていくような気がした。

『思い出した?』

 いつの間にか、目の前にいるのは奈緖ではなくて、エリだった。ゆるく巻いた髪が鬱陶しい。外見は好みだったけど、肝心の中身が重すぎて無理だった女。このアパートと正反対だな、と思った。

 メンヘラ気味で愛が重くて、他の女に少しでも話しかけると怒り始めて、連絡先を男だけにしたがった。束縛もひどくて、いつなにをしているかを常に知りたがって、電話の通知がエグくて。最終的には「あなたの子どもができたの」なんて言うから、別れたし、スマホも変えた。

『ふふ』

 奈緖が、俺の腹をなぞる。縦に裂こうとしてるんじゃないかと思うぐらいの力で腹をなぞっていく。痛みでうめくが、叫ぶことができない。

 本気で好きだった、奈緖のことが。子どもができたって聞いたときも、エリの時とは違ってあんなに喜んだのに。産むのだって賛成した。俺たちの子どもができるんだって、天にも昇るような気持ちで、うれしかったのを覚えている。だけど。

 だんだん奈緖の腹が大きくなって、腹をドンと蹴るもんだから。ここには俺たちの子どもがいるはずなんだけど、なんだか違うものがいそうで。怖くなった。怖くなって、俺は奈緖をおいて、逃げた。着拒をして、地元へと逃げ帰ったのだ。

『思い出して』

 足をざりざりと爪でなぞる。時々グッと力を込めて、まるで足首を切り取ろうとしているかのようだ。ふふ、と笑い声がもれている。赤い眼鏡に黒のショートヘアー、爪は何も塗っていない地味な女。由希子だ。

 高校時代に付き合っていた彼女で、あの後、地元に戻った時に偶然会って、酒飲んでホテル行ったら、あとはもう成り行きで。気づけば付き合ってるのか付き合ってないのかわからない状態になってた。奈緖を思い出すのが怖くて、ずっと由希子に甘えていた。そんな日々が長く続くわけが無かった。しばらくしたら、こいつも子どもができただなんて言う。逃げようと思った。こいつとは別に付き合ってもない、俺は関係ない。

 逃げようとしていたのがわかったんだろう、由希子は、逃げようとする俺を押し倒す。「逃げないで」、なんて言う。その言葉がなんだか怖くて、逃げようとする。女のこいつじゃ男の俺の力には敵わないはずだ。それでも、由希子は、ガシッと俺の足首を掴む。

「行かないで」、という。掴んでる足を蹴って、逃げた。


『思い出したね』


 女たちは笑っている。

 俺は何も悪いことはしてない。責任を負いたくなかっただけだ。

 女たちは薄気味悪い笑顔を浮かべて、顔を、腹を、足を、撫でる。責めもしなければ、消えもしない。ずっと、そこにいる。


 ”諦めなさい。過去の行いに償いをしなさい”


 ああ、俺は、きっと。女たちとずっと一緒で、逃げられないんだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仄暗いアパート 武田修一 @syu00123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ