なにもない場所

紫月ルイカ

なんにも持ってない私

四人の女の子たちが、列をなして川を目指す。

「トトロの森探検隊、しゅっぱーつ!」

 東村山の巨大なマンションが建ち並ぶ敷地を抜け、小さな橋を渡り短い坂を下ると、緑への入口がひっそりと現れる。その先に広がるのは、外界から切り離された自然の世界、淵の森だ。

「きゃーっ前が見えないよ」

「もうすぐだよ、がんばろ!」

 立ちはだかる草木に阻まれ歩みを止める私を、後ろの女の子が励ます。

 無尽蔵に生い茂る緑をかき分けながら進むと、出口はすぐに現れる。太陽の光を全面で受け止めきらめきながらゆったり流れる川の水と、砂利だらけの川辺。

「とうちゃーくっ」

「気をつけて降りよー!」

 砂の斜面で手を取り合い、滑らないよう慎重に降りた先は特別な遊び場だ。コンクリートに囲まれた東京と埼玉の地にぽつぽつと点在するこの武蔵野の緑は、まるで異空間のようだった。

 夕方五時半、陽が落ちても暑さの残る町に『椰子の実』のチャイムが鳴り響くと、祖母が冷たい梅のジュースを作って待つ家に帰る。


 ある日の帰り際、森の入口で白髪に白いひげ姿のおじいさんが佇んでいたことがあった。

 その白ひげおじいさんにどこか不思議な感覚を覚えた私だったが、先を走る友人の後を追い足早に森を出た。

 振り返ると、おじいさんは静かに木々を見上げていた。その姿はまるで森の一部のようだった。


 それから二〇年の月日が経った。友人たちは地元を離れ散り散りになり、私は都心の職場でパソコンに向かう日々を送ることとなった。

 清潔だけれども無機質なオフィスで、岩のように固まった肩を強くつまむ。いくら揉んでも取れない疲労と、終わらない仕事に追われる。

 二五歳頃から、友人の結婚が相次いだ。

『入籍しました♡』

『名字が変わりました!』

 そんな知らせを目にするたび、心の穴が広がってゆく。家庭を持った友人と会う頻度は激減した。

 三一歳を過ぎた今、出産報告が一気に押し寄せると、私の心は次第に恐怖に支配されていった。

 みんな、いつの間に大人になったの? 置いていかないで……。

 同じ速度で歩いていたはずが、気づくと私だけ追いつけずにはみ出していた。このままだとひとりぼっちになる。そんな焦りが日に日に増す。

 仕事に明け暮れ心身を消耗するうち時間は無情に過ぎてゆき、三五歳の出産タイムリミットがどんどん近づく。それなのに私は一歩を踏み出せないでいる。

『だからお前は駄目なんだよ。いつも悪い方悪い方に悩んでばっかりで』

 二年前、私の元を去っていったレイジの言葉が脳内にこだます。

 やっぱり私は駄目なんだ。あれから何も変われていない。

 いつも何かが不安で、良くない妄想ばかり膨らむ。ネットを開けば、暗いニュースに苛まれる。


「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

 勢いのある筆文字で『武蔵野うどん』と書かれたのれんをくぐり、なじみの笑顔に迎えられると、つま先から喉元辺りまで蓄積していたどす黒い膿が三割ほど流出して消えた。

 味噌煮込みうどんの食券を店員に渡すと、グツグツ煮立つ土鍋がやってくる。ふうふう冷ましながら、底に沈んだ太い麺と白菜やネギなどの野菜を黙々と咀嚼する。都心の職場だが、このうどんを昼休みに食べられることは唯一の特権だ。

 祖母が作る武蔵野うどんは、ざるに盛ったうどんを豚肉とネギ入りのかつおだしのつゆに浸して食べる昔ながらのものだ。ここでは味噌やカレーの武蔵野うどんも食べられる。

 飽きのこないとてつもない弾力の麺。味が染みた食べ応えたっぷりのうどんを食すときは、噛むことだけに集中し、無になれる。


 店を出た途端、けたたましく震えるSNSの新着通知を開いた。

『リツカの結婚祝い飲みやります! みんな来られるよね?』

『もちろん♪超楽しみ、お祝いさせてね!』

『皆ありがとう! うれしい!』

 おめでとう、楽しみにしてるね。

 素早く打ち込み、最大級に笑った絵文字で飾る。予定はなく断る理由もない。

 来月なんか来ないでほしい。気がつけばそんな思いで一杯になっている。見えない手が私の首を柔らかに締めつける。


 土曜日の正午、渋谷の繁華街。めかしこんだワンピースの下で膿がぐるぐると渦を巻きシェイクまでされている。

「シノは、彼氏できた?」

「私はまだ……レイジのことが、トラウマみたいになってるっていうか……」

「ああー、酷かったよねー。けどさ、もう二年も前のことだよね?」

「二年も経ったんだ。シノも、もうそろそろ忘れてもいいんじゃない?」

 妊娠中のミサに合わせてチョイスされた四千円もするオーガニック料理のコースをつまんでいるというのに、私の心は醜く燃えていた。


 旦那、子供、マイホーム。全部持ってるキヨに、私の何がわかるっていうの。

 婚約直後で頭の中ハッピーしかないリツカも、私の気持ちも知らずに勝手なこと言わないで。


 青春時代を過ごした友への言葉をぐっと飲み込む。

「ミサは、いつ生まれるんだっけ?」

「今四ヶ月だから、予定日は一月かな!」

「ホント、楽しみだよね~。エコー写真ある? 見せて見せてー!」

 キヨが身を乗り出して聞く。同じママになる者同士、二人は密に連絡を取り合っているらしい。

 ミサがグッチのバッグから取り出した写真をちらりと見ると、ノイズだらけの画面に、ヴィレッジヴァンガードの片隅で売っている宇宙人フィギュアのような物体が映っていた。

「あっこれこれ、懐かしい~私も撮った撮った。これからどんどん大きくなるんだもん、すっごいよねぇ子供って。ホント、母親になったら世界が二倍も三倍も広がって見えるんだよね」

「いいなぁ、私も早く赤ちゃん欲しい」

「旦那さん協力的って言ってたし、リツカもすぐできるよ~」

「妊娠したら絶対すぐ教えてよねー!」

 話題はすぐに移り変わる。せっかく話を振られても、私には報告できるイベントも見せられる写真も無いため話は続かず、あっという間に過ぎ去る。


 帰宅すると、リツカを囲んで撮った写真と共に、キヨのメッセージが入った。

『なんか、息子が保育園でインフルエンザもらってきちゃって、帰った途端私も熱出てきた。。バッチリ移ってたみたい』

『大丈夫? 大変……』

『息子くんもお大事にね』

 嘘……。思考が止まり愕然とする。

 来週は、残業しながら準備してきた大事な打ち合わせがあるのに。

 私はオーガニックレストランでキヨの真正面に座り、子どもの動画を見せられた際に彼女のスマホを触るなど感染リスクの高い行為もしていた。

 楽しみだった翌日夜の作家トークショーをキャンセルし、インフルエンザが移っていないように願い、不安を抱えながら早くに寝た。

 しかし翌日、やっぱり私もインフルだったとキヨから連絡があり、その翌日に私も熱を出し、インフルエンザと診断された。


「一週間もお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。あの、打ち合わせの件は……」

「あの案件は後輩の竹川さんに頼んだよ。まったく、体調管理くらいしっかりしてよ」

 ため息をつきながらそう言い放つと課長は足早に去って行った。ナイフを刺されたように心臓が痛み出し、全身の血が逆流しそうになる。

 私じゃ、ない……私は、体調を万全にするために最近は休日も家で静養して、いつも仕事に備えていたんです。それなのに、移されたんです、友人の子どもから……。だから、私のせいじゃないんです。

 頭の中を猛烈な勢いで言葉が巡る。

 結婚祝いなんて、行かなければよかった。

 ああ、またこの言葉が出てしまった。友の幸せを心から喜べない自分を呪う。

 休みの間に山積みとなった仕事に向かうが、釘が刺さったかのように頭がうまく働かない。ランチのパンが喉を通らず、喉が乾いて仕方なかった。


 残業を終え会社を出ると、二三時を過ぎていた。スマホを開き、大学のゼミのグループに来ていた新着通知を押す。

『二人目が産まれました!』

 おめでとうの嵐と共に、横たわる赤黒い新生児の写真が飛び込む。またこの写真。全部同じ、工場出荷されたクローン人形みたい。

 ”お”、”め”、”で”……

 機械的に打つ指が動かなくなる。ガシャン。スマホが手から滑り落ちる。拾おうと屈んだ私を人々がどんどん追い越していく。ドンッ。「邪魔だな、ボーッとしてんなよ」中年男性が呟き去っていく。そう、私はいつもボーッとして流れに乗り遅れ、取り残される。

 ねえおじさん、どうせならいっそ電車通過のタイミングでホーム下まで突き落としてくれないかな。

 自分からこの世にさよならする勇気もない私は、顔も知らない他人の手で葬ってもらえたら楽になれるのだろうか。


『おばあちゃんが入院しました』

 週末、母からの連絡を受け病院へ向かう。

 いつも優しい祖母の笑顔を思い浮かべ、もし悪い状態だったらどうしようと焦りがつのる。忙しさにかまけていないで、もっと実家に帰っていれば……。

 駆けつけた私の顔を見ると、身体に管を繋がれベッドに横たわる祖母は、か細い手で私の手を包み込んだ。

「シノ、元気だった? 急だったから来るのも大変だったでしょう。来てくれてありがとうね」

 祖母の微笑みを見た瞬間、大きな熱い波がどっと押し寄せ、凝り固まっていた何かが一気に溶け崩れていった。

 祖母の手があまりにも温かさに満ちていて、子どものように大粒の涙が流れた。泣くのなんていつぶりだろう。祖母は何も聞かず私の手をいつまでもさすっていた。

 倒れた祖母に元気をもらったのは私のほうだった。


 その日は実家に戻り、あの森に向かった。

 何年ぶりだろう。木々が生い茂っていたはずの川に続く道が整備され歩きやすくなっている。春の終わりの柔らかな風が抜け、懐かしい空気が満ちる。土の斜面を下りて砂利の上にしゃがみ、流れる水を眺める。

 ここには、物事の優劣も警戒すべき感染症も、何もない。ただ緑が生まれたままの姿であるだけだ。

 少し先の上流で子どもたちが水遊びをしている。子どもは常に今だけを見て、明日のことなど考えずひたむきに今を楽しんでいる。

 森は人を選ばない。いつでも帰れるこの場所が自分にはある、それだけで十分な気がした。


「また帰ってきなよ」

 母に見送られ駅へ向かう途中、どこかで見た姿とすれ違う。

 振り向くと、白髪の男性が森の方へと歩いていた。その姿が、あの白ひげおじいさんにぴったり重なった。

 ああ、そうだったんだ。あの日見た白ひげおじいさんは、トトロの物語を世に送り出し、武蔵野に森を残したあの方だったのだ。

 温もりは、どこかで連鎖していく。

 これから出産するミサには何を贈ったら喜ぶだろうか。私は電車でゆっくり考えることにした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なにもない場所 紫月ルイカ @ruiruika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ