地獄の8丁目 メリークルシミマス②

 退勤ボタンを押した後の記憶はあまりない。気が付くと俺は家に辿り着き、スマホに向かってニヤニヤしていたのだ。バックライトが消え、画面が暗くなった瞬間に現れた魔物を一度は箱庭に移そうかと考えたぐらいだ。


 なぜニヤニヤしていたかと言うと、そう。俺は広瀬さんの家の住所を手に入れたのだ。この文明の利器の中には今、夢と希望が詰まっている。


**********************

【広瀬さん】


広:〔地図〕


広:うちはここだよ! 待ってるね!


喜:明日が楽しみです(^O^)/


広:先に帰って部屋の掃除しとかなきゃ(^^;


**********************


 最近ひどい夢を見ていた気がするからなぁ。これも夢の続きなんじゃないだろうか。月並みな表現だが、夢なら覚めないで!




 ――夢なら覚めないでと言ったが、早く寝たい。もう午前三時だ。ドキドキして眠れない。お泊りセットなんて持っていったらさすがに下心丸出しだよな。明日はそんな軽い男じゃない路線でいこう。もちろんお誘いがあれば断る理由はないが。



 ――結局二時間ほどしか寝れなかった。デートまでに仕事があるというのに。というかどんな顔をして今日一日を過ごしたらいいのだろう。横の席にいるんだぞ。今日デートの約束した人が。ああ、会社の人間にバレたらどんな目に合うかわからない。その辺もケアしていかないと。


 なんてことを考えてる間にあっという間に会社についてしまいました。いつもどうやって自分の机に辿り着いていたっけ。足元がフワフワしてマシュマロの上を歩いているようだ。


 席に着いた。まだ広瀬さんは来ていないようだ。今日は定時に上がるための仕事するんだ。幸い厄介な上司はいない。今日やらなくていいことを16時までに決め今日やることを終わらせればいいだけだ。


 あ、広瀬さんが来た。なんで女性ってこんないい香りがするんだ。俺は他の連中に悟られぬよう、極めて普通に接した。もはやという意識が異常なのだが。


 そして、俺はついに成し遂げた。休憩を含む8時間の激闘に耐え、感情を殺し、ついに成し遂げたのだ! さすがに二人で一緒に出るわけには行かないので、部屋の用意をするため広瀬さんが先に出た。俺は30分後に会社を出る予定だ。この30分に厄介な依頼が来ないことを祈るのみだ。特に、滝沢パイセン。こいつは要注意だ。


 と思ったが面子のためか、はたまた真実か。用があるといって先に帰ってしまった。これで俺の邪魔をするものはいない。皆川さんも子供のためにケーキを買って帰るとか何とかですでに帰り支度をしている。勝った。勝ち確だ。秒針よ、後はお前の働きに掛かっている。一秒でも早く動け。


 ありがとう。人類。俺は今日まで俺を生かしてくれた全てに感謝したい。ありがとう。では、退勤! ポチッ! 俺はもう退勤済みですよオーラを出して足早に会社を去った。


 着いた。ここが俺の天竺、エメラルドの都、ブレーメン、旅路の果て。いざ参る! 二人を分かつオートロックの壁を越え、エレベーターに乗り、インターフォンを押す。震える指に力を込めて。


 ドアを開けると部屋着だろうか、ラフな姿で出迎えてくれる広瀬さん。なんで初回のデートでここまで心の扉を開け放っているんだ。というか部屋デートって何すればいいんだろうか。食事? 飲み?


「いらっしゃい、安楽君!」

「お、女の子の部屋って緊張するんですけど……」

「なーに言ってんの、リラックスしてよね。早速だけどご飯にしよっか!」

「て、手料理ですか?」

「ゴメン! 今日は時間がなかったから買ってきちゃった!」


 いいんですよ。いいんですとも。二人の時間が何より大切なんですから。ええ。ナンコツの唐揚げでも、シーザーサラダでも。それがコンビニのモノでさえも!


「お酒って飲める……よね?」

「たしなむ程度に!」

「じゃあ、カンパーイ!」

「か、カンパーイ!」

「あれ? 広瀬さんは食べないの?」


 瞬間、俺は目を疑った。というか目の前の現実を直視できなかった。


 どこかで見たことのある黒いオーラ。


「私? 私は大丈夫! 安楽君の食べてる姿、好きだから見てたいな!」


 俺の目に見えているものさえなければ、最高のセリフだ。だがきっと俺の人生最高の日はさっき終わった。ここからは人生で二番目に最悪な日が始まる。


「どうしたの? 食べないの?」

「ちょっとここに来るまでに緊張して水を飲みすぎたみたいだ。……です。トイレをお借りできませんか?」

「いいよ! そこの扉出て左!」


 …………。乾杯と同時に黒いオーラが出たということは彼女は悪魔で俺を肴にするおつもりだろうか。まだ、俺がオーラが見えていることには気づかれていない様だ。地獄の関係者かな。魔王様かベルを呼ばないと。あれ? 俺泣いてるのか? スマホ(魔)の画面が滲んで見えない。


 ま・お・う・さ・ま・た・す・け・て


 これが俺に入力できる精一杯の文字だった。今日一日のテンション急上昇からの垂直落下、フリーフォールは下っ腹どころか全身から力という力を奪っていた。


 だが、入力が終わって送信するやいなや目の前に魔王、デボラ様が現れた。俺は泣いている姿を見られてしまい動揺したが、心の底から安心し、またひとすじ涙を流してしまった。


「一体何事だ。キーチロー。慌てて飛んで来たらなんだこの状況は」

「か……会社の先輩……悪魔……。俺……食われる……うぅ」

「ん?」


 すると扉の向こうから声がした。


「なんだぁ!? この異常な気配は!!」


 広瀬さんがドタドタとこちらへ向かってくる音がする。いったい今から何が始まるんだ。俺は不謹慎ながらある意味どこかで少しワクワクしていた。


 ガチャリとトイレのドアを開いた広瀬さんが目にしたものは、トイレに立っている変なコスプレをした女と座って泣いている女々しい男だ。さあ。なんと発する。


「で、デボラ……様」


 どうやら確定だ。人間が発するはずのない黒いオーラを見た時からもう詰んでいたが今度こそ完全におしまい。ジ・エンド。Fin.


「お前……なぜキーチローとここにおる」

「まさか、こいつデボラ様の獲物だったのですか!?」

「獲物? そうか……そういう事か!」


 俺はもう考えることをやめ、事の成り行きを見守ることにした。そう、やはり地獄になんて関わるんじゃなかったんだ――

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