ものまる(2)

 目覚めるとそこは小春子の部屋だった。

 あれは夢だった。

 ボクは生きている。

 安心した。

 

 いつものように小春子の布団に登って、寝ている彼女の顔を触った。だけど触っているのに小春子は何も感じてなかった。

 お母さんが小春子を起こしに来た。

 ボクはお母さんにすり寄って鳴いた。

 だけど……

 ボクの姿は誰にも見えていなかった。

 当然、鳴き声も聞こえはしなかった。

 

 小春子が目覚めて体を起こす。

 ボクは何度も何度も鳴いて主人を呼んだ。

 この手で何度も何度も主人を触った。

 なのに小春子がボクに気付いてくれることはなかった。

 

 ボクは死んだんだ。そう分かるまで時間が掛かった。

 

 ボクが死んでから、小春子は誰とも何も話さなくなった。

 表情も変えず、怪我を負った足は長い間、引きずっていた。

 それから猫たちの観察はやらなくなった。

 そして小春子は笑わなくなった。

 

 ボクは何のためにこの世に戻されたのか理解できなかった。

 神様が憎たらしかった。

 この苦しみが一体何なのか猫のボクが教わる事も、知る事もなかった。

 

 けれど、それでもよかった。

 こうして小春子のそばにいられるなら、それで……。

 

 小春子が猫たちの観察をしなくなったのは、ボクを思い出すから……。蘭ちゃんにはそう話していた。

「蘭ちゃんは何も聞かんがやね」

「知っとるよ」

「私、寂しいよ」

「うん」

「今でも、ものまるが横にいるみたいな気がするん」

「そっか」

「あいだいよ、ぼのばるにあいだいよ、抱っごじだいよ」

 

 横にいるのに伝えられない事が一番辛かった。こんなにも愛される事が苦しいなんて初めて知った。

 いつも夜になると小春子はひとり泣いていた。

 泣きながらいつも胸に抱き締めているのは、ボクの赤い首輪だった。

 

 時が経ち、そのボクの首輪を小春子はブレスレットにして左の手首にはめてくれた。そして、その首輪に話し掛けてくれるようになった。それはボクと会話してるみたいだった。

 嬉しかった。こうしてそばにいられる意味がやっと理解できた時だった。

 

 

 

 

 あれから一年が経った。

「商業科一年、呉羽小春子です!」

 彼女は高校生になり、秋ごろには商業実技部にスカウトされた。

 小春子はやっと笑ってくれるようになった。ボクの大好きな笑顔で。

 彼女が猫たちの観察を再開した頃、アイツら三匹の小猫たちは立派な大人になっていた。どの子も雰囲気は母親そっくりだった。

 

 ボクの姿が誰にも見えなくて、良い事もたくさんあった。

 学校に行けること。

 飲食店に入れること。

 限りなくどこへでも付いて行けること。

 四六時中ひと時も離れず小春子といられること。

 見えないって最高だった。

 あ、でも一人だけボクが見えた人がいた……写真家の女性、東坂下さこぎまどかさんに話し掛けられた時はマジでビビった。そのとき彼女は確かこう言った。「君の主人は魔法が使えるんだな」だったかな。あれはきっと、ボクを自分のそばに召喚してるのが小春子の魔法だとでも思ったのかも知れない。

 不思議な人だった。

 

 そして今、狎鷗亭が猫カフェになってボクは気付いたことがあった。

 

 ずっと小春子は、はるみの三匹の子どもたちが心配で目を離せなかったのだと。

 そしてアイツらが大人になって、三匹とも母親になって、そして安心して暮らせる場所が今こうして与えられてホッとしているんだと。

 それはどこか、死んだはるみやボクが命懸けで救った命を守り抜くという、彼女の使命だとでも示唆するように、これまで小春子はその事に必死に力を尽くしていたんだと気付いた。その理由がやっと理解できた気がした。

 

 そしてもうひとつ、気付いた。

 そろそろボクは旅立たなければならないみたいだった。

 

 狎鷗亭の前庭で、青柳は小春子に話した。

「呉羽、手首のブレスレット……。あれからずっと、ものまると一緒にいるみたいだな」

「そうだよ。私はずっとものまると一緒だよ」

「よく話し掛けてるもんな、ものまるの首輪に……」

「知ってたんだ……」

「あのね、最近になって僕の夢に、ものまるが来るんだ」

「青柳の夢に?」

「うん」

「ものまるは……元気?」

「うん、元気や。夢の中のものまるは、いつも僕をどこかに案内するんよ」

「どこに?」

「場所は分からんけど……、その先にはいつも呉羽が待ってる」

「なにけーそれー」

「呉羽さ」

「うん?」

 

「僕の彼女になってください」

 

「うん、いいよ」

 

 よかった……。

 ボクは涙が止まらなかった。

 猫も泣くんだな。

 もうボクは旅立たなければならないと、自分で分かるようになっていた。

 小春子が心配だった。

 ボクがいなくなっても一人で生きていけるか心配だった。

 小春子の事を命懸けで守ってくれる人が必要だった。

 青柳に、そうなってほしかった。

 だから、これで良かった。

 

 青柳、小春子をよろしくね。

 小春子を守ってね。

 

 小春子、ずっと楽しかった。

 すごく幸せだった。

 けれど、ずっと君のそばにいたかった。

 もう一度、一緒に布団に入りたかった。

 もう一度、肉球でポンポンしたかった。

 もう一度、一緒に走りたかった。

 もう一度、君の頭の上で海を見たかった。

 もう一度、君の歌を聴きたかった。

 

 もう一度、君の手に抱かれたかった。

 魔法の手でわしゃわしゃされたかった。

 

 ものまる、って呼んでほしかった。

 

 生まれ変わったら、また君の相棒になりたい。その時は、また捕まえてね。

 

 バイバイ小春子。大好き。

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