ものまる(1)

「ものまるって、はるみが……好きなんよね?」

 

 カラッと透き通った空気は、数日前までのまだ蒸した残暑のわずらわしさを、高い空の上まで吸い上げて消し去ってくれていた。

 高くなって見える濃い群青色の空には、さっきまで浮かんでたハコヤナギの綿毛みたいな雲はもうなくなって、澄んだ夏の終わりを見せる。

 ボクはあの日、砂浜で中学二年の小春子に袋の鼠にされてから、彼女の相棒としておよそ一年は行動を共にし呉羽家の家族にも、イタズラばかりだけどこの可愛さがたまらないとまで言われるようになっていた。

 でも……、ボクが誰を好きかなんて小春子に教えたつもりはないし、クイズを出題した覚えもない。なのにボクの主人は、ふたりでいつも観察してる中のあるメス猫『はるみ』のことが、ボクは好きなんじゃないかと探っている。

 

「私はそうやと思っとんがよねぇ……。だって、はるみが来たらものまるって、突然起きて背中がピーンって立つねか。そんで目ピカーって開いて瞬きもせんと凝視しとるやん。分かりやす過ぎやちゃ」

 

 その通りです。

 あのきめ細やかな毛並みは、ボクにはない澄んだ白い地毛に、黒の流れるような曲線美を羽織ったようなマント柄と純白の長いソックス。おでこで中分けされた黒毛はシャープに八の字を描いて、鼻の頭にもチョン黒。少し吊り上がった瞳でボクを見て、お尻を高く尖らせるその姿は、まさに同気相求どうきそうきゅうの巡り合わせだと思っている。

 

 ボクの初恋は、小春子中学三年の夏の終わりの出来事だった。

 

「えっ?!マジ?!ものまるが?!」

「そうなんよ」

 小春子……、そりゃないぞ、あんまりだ。コイツにだけはバラして欲しくなかった。青柳にだけは……。

「へぇ~、やるや~ん、も~の~ま~るぅ~」

 なんだこの上から目線は……コイツにはこの先きっと天罰が下るだろう。

 だが猫神様ねこがみさまは、無情にもあっさりとボクを地の底へ突き落すのだった。それは恋に胸を焦がす暇もなくだった。

 

「えっ?!うそっ?!はるみのお腹に赤ちゃんがいる……」

「そんなー!ものまるが可哀相やー!」

 まあ、当然の結果。至極当たり前の自然の摂理だった。負け惜しみなんかじゃない、ボクは飼い猫、あの子は飼い猫じゃない。それだけだ。

 ただ……、母親になってもあの子は綺麗で品があって、いつまでもボクの心を掴んで離さなかった。

「小っちゃくってカワイイ~。はるみの赤ちゃんの名前はね、『ルミ子』『あや子』『よしみ』にしよ。三匹ともメスやったねぇ」

 近所の熊野道やんどさん宅の納屋は、裏口の隙間が広がって猫が出入りするには十分の快適な住処になっていた。

「まっ、ものまる!元気出せよ!失恋なんて誰にでもあるもんやちゃ!」

 ナンデ青柳にボクが慰められなきゃならないんだ、と思いながら遠くからその納屋を出入りする、あの子に見とれていた。ずっとそうしていたかった……。

 

 初秋の台風が日本列島の南の海上で発達して、その日は風が強くなるとテレビが言ってたんだ。立派なお宅の生け垣が波打つように踊っているから言われた通りだったんだ。

 だけど風が強くても、ボクはいつも小春子が学校から帰る通学路の、見晴らしのいい塀の上で待つのが日課だから我慢した。

 遠くの交差点に小春子が見えた。ボクが塀から降りて駆け寄ると、小春子の前方から青柳が走り込んできた。

 

「熊野道さん家が火事だ」

 

 小春子もボクも顔の血の気が引いて、途端に脇目も振らず走り出した。荒れる向かい風の中を、無我夢中で走った。この走りが雲路くもじへ繋がれと願った。

 

「正面は駄目だ!!裏からだ!!」

 見たこともない真っ黒い煙が住宅を覆い尽くしていた。中から溢れて飛び出す炎が生きているみたいに邪魔をする。

「このままじゃ納屋に燃え移る!!」

「猫は?!」

「隙間があった扉が壊れて沈んでる!!潜って入れん!!」

 

 ボクは知ってた。

 横に立つ栃の木の上から屋根裏に入る隙間があることを。

 体は勝手に動いていた。

 

「ものまるううう!!!行っちゃだめえええええ!!!」

 

 住居の燃えた瓦礫が納屋の方へ崩れてきた。

 だけどボクは三匹の小猫を何とか納屋の外へ連れ出した。

 

「戻って!!!ものまる戻って!!!お願いだから戻って!!!」

 

 はるみがいなかった。

 あの子は納屋の中で農具の下敷きになって動けなくなっていた。

 そして天井から火の塊が落ちてきた。

 小春子が納屋の中に飛び込んできた。

 

「ものまるううううううううう!!!」

 

 小春子は倒れた建材で利き足を大怪我した。

 それは靭帯断裂と複雑骨折だと知った。

 この怪我で彼女はもう跳べなくなった。

 

 はるみは助からなかった。

 

 そしてボクも助からなかった。

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