野良猫(4)

 小春子の目は、まん丸に見開かれていた。

 さすがのボクも、ましてや青柳だってこうは考えもしなかったはずだ。

 

 この場にあの人が現れようとは……。

 何とそこに立っていたのは、あの狎鷗亭のマスターだった。

 

「やあ、久し振りやのう」

 

 マスターの言う通り、本当に久し振りだった。小春子も青柳も、狎鷗亭のことは気にしていたみたいだが、しばらく手伝いには行けていなかったはず。

「マスターさん……ごめんなさい」

「なんで、猫女学生が謝らんなんがけ。はーはっはっは」

 そう言ったマスターが『久し振り』と言ったのは、実はボクたちじゃなかったみたいだった。

 

宿坊すくぼう先生……お久し振りです」

 

 マスターをそう呼んだのは、市議会議員の男性だった。

「誰けよ、あの爺さん」その自治会長の言葉を、議員が鋭くなす。

「口をわきまえろ。俺の恩師だ」

 その言葉を、この場に居る誰一人として聞き逃すことはなかった。

「えっ?!恩師?!」

 小春子の驚きは疑問形になった。

 

「はっはっは、昔のことながやけどな、私は若い頃に滑川高校の教師をやっとったんやちゃ」

「えーっ!!滑高かっこうの先生ですか?!」

「その教え子がまさか市議会議員にもなってのう……。私も年を取った」

「いえ、あの先生の教えがあったから今の自分があるんです」

「そうながか……」

「でも宿坊先生、この高校生とは知り合いのようですけど、猫の問題は本当に深刻なんです。住民には猫のアレルギーを持った方もおられ、もう個人でどうにかなるレベルの域を超えとるがですよ。まさか何かご意見でも?」

 雨は弱まり、か細く降っていた。立ち込める水蒸気のような暑気が全身の毛穴をくすぐる。

 議員の言葉に返す文句ひとつなく、今は感情が声に出来ないといった小春子は、ただ唇を噛んでいた。

 そして議員の問いにマスターが静かに答えた。

 

「ここの猫たちは、すべて狎鷗亭が引き取る」

 

 マスターは確かにそう言った。

 狎鷗亭が引き取る。

 皆が一瞬だけ、その言葉が何のことだか、理解に時間を要したみたいだった。

 ただ理解したとしても、全員がもれなく唖然とし言葉を失った。だがその言葉は、ついさっき小春子が言った苦し紛れの軽挙妄動けいきょもうどうなんかとは明らかに違っていたんだ。

 

「えっ?!マスターさん?!」

「先生、本気でおっしゃって……おられるんですね」

「本気や」

「何十匹も、ですか?」

「ああ、そやちゃ」

「何を……、どうしてそこまで先生をそうさせるんですか」

「このたちも、この猫たちも、私の恩人おんじん恩猫おんびょうなんやじゃ」

「恩、ですか?」

「せやせや、いつか恩返しせんなんと思っとったがよ。今がそん時やろがい。のう、猫女学生や!」

「マスターさん……。本当に……本当に……本当に本当にありがとうございます」

「お礼をするのは、私の方だよ。でも、またお願いがあんがやちゃ」

「何ですか?」

「猫の飼い方、教えてくたはれまよぉ」

 

「もっちろんです!!私にまっかせちゃってください!!」

 

 もう雨は上がっていた。

 皆が傘を閉じて空を見上げた。

 遠くの海原には雲の切れ間から陽の光が射し込んで、海面に立つ虹を作っていた。

 何かを感じ取ったアイツらが、いたる所から顔を出し小春子の元へ集まってきた。当然のことながら小春子には通じないが、アイツらは猫なで声で何度も何度も小春子に礼を言っていた。

 議員は連れ立って職員や関係者を撤収させた。

 マスターは微笑んでいた。

 戸破部長も百橋先輩もホッとした笑顔だった。

 小春子は猫たちを抱き寄せて笑っていた。

 全身びしょ濡れの青柳の顔を流れる雫が、雨だれなのか嬉し涙なのか、もうボクにとってはどうでも良かった。

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