狎鷗亭(3)

 北に面した正面入り口は、苔むした石畳が趣ある前庭と洋風のアプローチだった。

『海手御茶屋 狎鷗亭』

 あのおじ様が「今度来てみられ」と言っていた喫茶店の名はいかにもこの洋風の館に似合った屋号に見えた。

 

「閉まっとるがんかな……」青柳はあかりの小窓の隙間から薄暗い店内を覗いている。

「定休日とか?」小春子は何だか落ち着かない様子だった。

「いや……どうなんかな。新聞がいくつか配達されたままになっとる……しばらくやっとらんぽいぞ」

「えっ、嘘いわれんなよ……」

「うーむ……」

 

 その時だった。

 前庭に出る方にあるひさし付きの両開き扉が

「ギイィィィィィ」っと気味の悪い音を立てて勝手に開いた……。

 

「やあ、君か。猫女学生」

 

 扉が勝手に開く訳はなかった。その扉から現れたのは喫茶店のご主人の、あのおじ様だった。

 

「あっ!こんにちは!海の見える喫茶店、どんな所か見たくてやって来ました!」

「カッカッカ、ようこそようこそ。今日はボーイフレンドも一緒やな」

「やっぱりそう見えますよねぇ~」この男は、また顔が地滑りみたいだ。

「ただの友達です!」ボクの相棒はブレない女だ。

 

「お休みしとったがですか?喫茶店は」

「いや~実はね~、ギックリ腰やりおってのう……情けないもんやちゃ」

「もう宜しいんですか?」青柳はご主人の荷物を受け取る。

「そやそや今日からまた営業すっぞ~」

 二匹のシジミ蝶が、前庭の白山吹しろやまぶきのまわりに九十九折つづらおりを描いて遊んでいる。おじ様は「すっぞ~」と言った口を丸形に突き出したまま、小春子の顔を見て不思議そうに眉を上げた。

 

「私たち今日、お店手伝います!」

 

 はつらつたる小春子の声は、他の二人をめいめい驚かせた。

 ひとりはその言葉で嬉しそうに柔和にゅうわな笑みになった。

 もうひとりはギョッと吃驚仰天きっきょうぎょうてんった笑みだった。

 

「いいねえ~、気に入ったぞ君ら~。今日は学校もう終わったがけ?」

「今日は入学式だったんで、早かったんです!」

「いや~、助かるじゃぁ~。今時こんな心馳こころばせる高校生がおんがやのう。さぁ入られ、入られ」

 

 外の明るさから入った薄暗い店内がやけに寂しく感じた。お客さんで賑わった時はもっと明るく感じるのかな。

「すみません、このお店の名前、何と読むんですか?」青柳がおじ様に質問した。

「ああスマンスマン、狎鷗亭こうおうていにようこそ」

「ありがとうございます」二人は声を揃えた。

「私はね、宿坊すくぼう 仁之助にのすけといいます」

「呉羽小春子です」

「青柳京一郎です」

「なら呉羽君と青柳君、すべてのカーテンと窓を開けてくれっけ?」

「はいっ!」

 次々と開けられたカーテンで、明かりが灯るように店内に光が射し込んだ。薄暗かった店内が瞬く間に明るくなる。小春子はカーテンタッセルを丁寧に結んでいた。

「窓も開けますね!」青柳が重厚で古めかしい窓の鍵をガチャリと回し、窓を開けた。

 二枚目の窓が開けられた時、潮の香りを存分に含んだ清々しい風が室内の空気をさらってまた外へ出て行った。続けて開いた窓たちが部屋に送り込んだ開放感が、この場を一気にカフェテラスみたいな爽やかさに変えた。

「すごい。なんかヨーロッパの貴族の部屋……えっと、ロックハート城みたい」小春子は何かで一度見て『行きたい』と言っていたテーマパークに例えた。

「ホントやじゃ、斜陽館の洋間みたいや」青柳も店内を見渡している。

 喫茶店の中は、アンティーク家具が使われた洋風の古い家の中みたいになっていた。

「いい例えや……、私の趣味なんよ。赤茶色の革張りの椅子も、艶のある塗料で磨かれたクルミ材のテーブルも好きでね。やってるうちに増えてしまった……」

 そう言いながらおじ様は室内の照明を点けた。

「とても素敵です。このシャンデリアも壁のランプも、小豆色の棚や引き出しの上に飾ってある雑貨たちも古くて可愛いものばかり」

「君みたいな若者たちがそう感じてくれるのは嬉しいなぁ。これ着けられ」おじ様は二人に前掛けを渡した。

「ありがとうございます」

「ならね、二人ともこのクロスでね、椅子やテーブルを磨いてくれっけ」

「はいっ」

 小春子たちはそれは真剣に店内の家具をピカピカ磨いた。ただそれだけなのに、中に入る前とは見違えるほど、別の高級な洋館に来たみたいだった。

「頑張ったな、呉羽」青柳が小春子の頭をぽんぽん撫でた。

「ぬわんで上から目線なんけ?!」

「お楽しみの所お二人さん、2階もあんがやぜ~」

「りょーっかいっしましたー!!」

 2階はさらにノスタルジックな空間だった。二人は丁寧に一生懸命作業していた。

 

「マスターよくなったみたいやねか」

「そーら、お客様やちゃ」

 店先の掛看板を『OPEN』にすると直ぐにお客さんが来た。いつも来る常連の友達みたいだとマスターが言う。

「なんやカワイイ店員さんやなぁ。アルバイトけ?」

「いえっ!ボランティアで!」鈴を転がしたような小春子の声が響く。

「そやちゃのう~、アルバイトなんて雇えんもんな~、ほ~っほっほ」

「勝手になーん言うとんがけっ」

 明るい店内の壁に笑いが撥ね返る。その中をボクはこっそり雑貨には触らないように棚の上を歩いた。

 

 手伝いを終えた小春子と青柳は、今日のお礼にと言っておじ様にもらった特別サービス券を持って、中滑川駅の近くにあるクレープ屋さんに来ている。

「私、生クリームバナナチョコクレープお願いします」

「僕は、バニラアイスブルーベリーで」

「サンマリーのサービス券もらえるなんてラッキーやちゃー」

「あの、呉羽!」

「ん?」

「ぼ、ぼ、僕とつ、つ、……」

「あーっ!青柳!」

「なっなんなんけ?!」

「今度はまた、よしみの赤ちゃんが産まれて、それどころじゃないわー!ごめーん!」

「トホホ……」

「あ、でも。青柳さ」

「はぁ?」

「ありがと。付き合ってくれて」

「僕、泣きそうやじゃ」

 

 青柳の涙はどうでもいいけど、小春子のときめいた表情はきっと、この男に対してではないことだけは確かだ。

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