小春子(4)

 校内放送が流れて、学年主任の先生の呼び出しが静かな校内に響いた。

 春休み中でも先生たちはきっと新学期の準備やらで忙しんやねと、戸破部長が小さく言った。

 校内放送の流れる間、ハニワのように丸く開けた口をそのままにして、スピーカーのある天井付近を見上げて固まったままだった三女子君は、さてそれではと百橋先輩の武勇伝をさも自分の事のように話した。

 少し離れた窓際の席から様子を窺っていた戸破部長は、心なしかその口元に微笑えみを浮かべている。

 1年生の途中から入部した小春子は、初めて聞く先輩の話に表情をパッと明るくして見える。

「その当時まだ2年になったばかりの百橋さんは、放課後たまたま通りかかった上市川に架かる魚躬橋うおのみばしから、ふといつも見慣れた富山湾を眺めた。いつもの風景に足を止めた理由わけは、そこからの富山湾の風景をスケッチブックにえがくひとりの女性の視線の先につられて、自分も海に目をやったんやそうだ……」

 

 ――戸破部長が目を閉じて、その細く長い手指を机の上で静かに躍らせていた。まるでそこにピアノの鍵盤があるみたいに指はリズム良く踊っている。

 

「絵を描くその女性は見た目二十代で、見かけない顔だったらしい。不思議と気になった百橋さんはその女性に話し掛けてみようと思った……。その時だった」

「えっ?!」

「おもむろにスケッチブックを閉じた女性は、いきなりその橋の欄干に登って、恐れもなくそこに真っ直ぐ立ち上がったがやと」

「死のうとしとったん?!」

「そうや。だがそんな凶事きょうじにも百橋さんはビビらんかった……。そうせずとも話し掛けようと近付いていた彼は、何事もなく彼女に声を掛けたそうや」

「何て言ったんけ?!」

「絵、見せてくださいよ。やと……」

「マジ?」

「彼女は一旦、橋の欄干からは降りたものの、依然として立っている場所は欄干の外側で、いつ飛び降りてもおかしくない状況やった。それでも百橋さんは見せてもらったスケッチブックを手に彼女の身の上話を聞いた」

「そんで?」

「そこからはずっと禅問答みたいやったらしい。それでも彼は冷静に、その人の気持ちに寄り添い続け、ついには欄干の内側に呼び込む事に成功した」

「すごすぎ……」

「その結果、滑川警察署からは感謝状を受け、新聞に掲載された記事の見出しは『人情派の滑川高男子、橋から身投げしようとした女性を説得し思い留まらせる』だった」

「そこからだよね、百橋先輩の信念が本格的に開花したのは」

 下山ちゃんがそれからこれまでの経緯をうまくまとめた。そして――

「それやったら、戸破さんの勇気も歴史に残ると思うわ~。ねっ戸破さんっ」

「私の話はせんでいいちゃよ……」

 

 戸破部長のやや恥ずかしげな表情が、そのエピソードの付加価値を倍増させる。下山ちゃんは必要以上にニコニコしながら部長の事を話す。

 

「その時まだ1年生だった戸破さんは、まだこの商業実技部にも入部していなかったんやて。その日はちょうど真夏の体育大会の帰りに友人2人と戸破さんで、翌週を楽しみにしている花火大会会場の海岸を見に来とったん」

「うんうん、毎年の花火はアソコやもんね」

「そうそう、アソコは市の施設もあって人も集まるし魚釣りの人も多いねか~」

「そやねえ」

「そんとき、大きな声が聞こえたと思ったら、父子で釣りに来ていた子どもが突堤から海に落ちたがやて。そのお父さんもパニックで、落ちた男の子はまだ小さくて泳げんかった」

「やばいよっ」

「戸破さんは咄嗟とっさに、まず足の速い友人に施設に走って大人を呼びに行かせ、もう一人の携帯を持っている友人に119番に電話を頼んで、自分はスポーツバッグに持っていた2リットルのペットボトルを走りながら空っぽにして、海に飛び込んだ!」

「戸破さん、泳ぎは……」

「戸破さんのお父さんは漁師さんなんやて。もちろん泳ぎは一流なんよ」

「そんで男の子は?!」

「見事に戸破さんが助けたがよ。戸破さんも感謝状の授与が新聞に『海で溺れる男児を、冷静な判断と見事な泳ぎで救った女子高生は、なんと漁師の娘だった』」

「マジっすか!!戸破さんスゴすぎますよ!!」

 小春子が、照れ臭そうな窓際の英雄に賞賛の声を挙げる。彼女は困った顔で謙遜の言い訳を語ってくれた。

「いつもお父さんが、溺れた人を見付けたらまず『浮くモノを手に持たせろ』って言っとった……。無我夢中でその事を私はやっただけなんよ」

「カッコよすぎ~。ヤバい~好きになっちゃう~」

「呉羽、それはやめてほしい……」

 その場が笑いに包まれた。さっきまでゾンビだった青柳も血色良くニコニコしている。

「ウチの部の歴代の諸先輩方はもっと立派な方々が大勢おられた。私が1年時の部長も素晴らしい方でとても憧れていた……」

「そうなんですね」

 

 この日、小春子は百橋さんを待たずに部室をあとにした。

 少しひんやりとした玄関の下足ロッカーを通り抜け、グラウンドに出た小春子は走り込みをする運動部の女子を静かに眺めていた。

 

「呉羽は……」

 一緒に出てきた青柳が小春子に何か言いかけた……。

「ん?なに?」

「もう、幅跳び、やらんがか?」

 

 小春子は高校入学前まで、全国を期待された幅跳びのアスリートだった。

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