小春子(2)

 春の空が丸い。

 頭上に青く広がるその丸い半球が、遠くを眺めればその分が遠くなっただけ、その球体をどんどん膨らませていくように空が広くなっていく。そして爽やかな色の付いた風が、漁港の先の白い灯台の前に立つ小春子を巻く。

 ボクは小春子の頭の上に乗って、一番高い場所でそれを見物する。

「ものまる。今日も海と空が繋がって青色が混ざっとるよ。綺麗やね」

「そうだね」

 ボクは話せない人間語を心の中で呟いた。

「あの陸の先っぽが能登半島ながよ」

 小春子の指差す西のその陸の先端は、遥か彼方の微かに見える陸と海と空の境界線がほとんど交わったようなボヤけ方をしていた。

 湾内はまるで西を見ても、東を見ても巨大な湖の対岸からの眺めのように陸に囲まれているみたいだって、小春子はいつも言う。小春子の大好きな富山湾は、視力検査のマークを「上」だと答える形で陸が海を囲んでるんだそうだ。

 

 小春子はいつもの、かまぼこ工場の外にあるベンチに座ってアイツらを観察している。

 いつもいつも一体何が楽しいのか、ボクにはさっぱり分からない。

 

「あ、ルミ子が口にエサか何か咥えとる。赤ちゃんに持ってくんやわ」

 アイツは茶トラのメス。

「イクゾーが来た。きっと赤ちゃんの父親はイクゾーながやね」

 アイツはサビ柄のオス。

「なんかキヨシがウロウロしてる……。キヨシはたぶん独り身だよね」

 サバトラのオスだ。

「あや子も同じ物置に入っていった。あの子の赤ちゃんもあそこにおるんだ」

 ミケのメス。

「あっ、また他のオスが来た」

 ――その時、すごい剣幕でサビ柄の父猫が2匹のオス猫に攻撃した。あの物置に近付いただけであれだけヤラレるんだから、相当殺気立っているんだ。

「物置のまわりでイクゾーが尻尾あげてマーキングしたり、自分の首のニオイをそこら中に付けとるんは、他のオスを近付けないためなんや……」

 オスなのにね……。

「珍しい……赤ちゃんを守ってる。オスは子育てせんがんに」

 まあ、ヒマなんでしょ。

 

 漁港の近くはめっちゃ美味うまそうないいニオイが漂う。人間にしてみればせ返るほどの磯臭いそくささなのかな……。

 小春子はこの辺りの猫たちの生態や恋愛事情をほとんど把握している。どいつがどいつの子どもだとか、そんなこと知ってどうするんだろう。

 この富山湾の奥まった中ほどにある、ここ富山県の滑川市なめりかわしは漁業や魚介食品加工も盛んな土地だけど、一番有名なのは『ホタルイカ』っていう青く光る小さなイカの大群が春に富山湾に集まる、春の夜の風物詩こそこの滑川を観光地として有名にしたんだって、かまぼこ工場の社長さんが言ってた。

 

 ――漁港をあとにした小春子が軽く走り出した。小春子の走りはまったく無駄がないスムーズな走行で、滑るようにグイグイ加速する。

 駅を過ぎた先からショッピングセンターYELLエールまでの、商店が軒を連ねる公園通りの軒下は、小春子いわくアーケード商店街らしい。

「あ、小春子や……」

「あ~、らんちゃんやねか~」

 蘭ちゃんは小春子の一番の仲良しの同級生らしい。この子は小春子と違って、静かで強く優しい大柄な女の子、勝木原のでわら 蘭ちゃんだ。

「部活行くがけ?」

「まだ春休み中やけどね……。蘭ちゃん総体の弓道場やろ?」

「うん、そやちゃ」

「久しぶりに見たいなあ、蘭ちゃんの綺麗な射形……」

「恥ずかしいなあ……。小春子はもう、やらんが?陸上……」

「うんうん、陸上部ないしね高校に」

「そっか」

 

 そこへこのタイミングで随分と招かれざる客が現れた。

「やあ、呉羽と勝木原やないけ~。偶然やなあ~」

 それは決して偶然ではないと、ボクは思う。

「小春子、そろそろ私いくわ」

「あ、蘭ちゃんまたウチ遊びに来てよ」

「うん、ならね」

「ならね~」

 

 その客人と小春子がアーケードの向こう側とコッチ側で対峙した。足元を流れる風が、まるで西部劇のカサカサを転がして来るみたいな雰囲気だった。

青柳あおやぎ、またなんなんけ?」

 小春子の口調が少しキツい。

「いや~、何でもないと言えば、そうでもないがやけど~」

 あるってことみたいだ。

「この前の返事、そろそろ聞けっかな~っと思って~」

 

「うん、いいよ」

 

「えっ?」

 

「あのね」

 

「う、うん……」

 

「ルミ子とあや子の赤ちゃんが生まれたばっかりやから、付き合うのは無理やわっ!ごめん!」

 

「や、やっぱり……」

 

 コイツも小春子の同級生、青柳あおやぎ京一郎きょういちろうという、いかにも真面目そうなこの男子高校生は……

 

「落ち込まれんなよ~」

 

 これでもう、9回も小春子にフラれ続けている面白すぎる男だった。

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