青柳の小春子への恋は小猫には勝てない説
こみちなおり
小春子(1)
ボクは走っていた。
それはきっと、疾風のように低空飛行で地面スレスレを翔ぶ燕のように颯く。或いは朝露で湿った草花までも乾かす稲妻の敏速さで。
ボクは海辺を駆け抜けていた。
テトラポットから波消しブロックを一跨ぎするように軽やかに飛び、コンクリート製の堤防の天辺をまるで平均台で踊る体操選手のように自由に跳ねるように。
つまりボクは逃げていた。
先ほどからボクの背後を、押し寄せる高潮のような勢いで追ってくる人間から。
その勢いは、隼の如く鋭いボクのこの脚力をもってしても振り切ることのできない並外れた二足歩行だったんだ。
そしてついにボクは捕まった。
人間はボクに追い付くや否や、何とその二足歩行で跳躍し、ボクの頭上を遥か高らかに跳び越えたかと思った瞬間、その腰に纏ったスカートでボクを包み上げるように捕らえたのだ。
信じられない。それはボクにとっては余りにも屈辱。これではまるで『袋の鼠』じゃないか。
だってボクはれっきとした『猫』なのだから、明々白々たり人生最大の屈辱でしかない。
敗因は逃走ルートだった。ボクは迂闊にも砂浜へ入り込んでしまったために、この俊敏な脚力は、砂に足を入れた途端あっという間に消え失せ、『袋の鼠』にされてしまった。
もはや敵ながらあっぱれ。その後はボクも人間も浜辺で砂まみれになりながら健闘を称えあった。
「ほらあ~、危ないねか~。車が来たら轢かれんなんよ~」
その人間の手は温かかった。捕らえられた上に抱っこされたボクは、すでにもうその手に身を委ねるしかなくなってしまっていた。
「ガリガリやねか、もっといっぱい食べんなんねえ~。ヨシヨシ」
彼女の手指が、ボクの喉元をくすぐる。やめてほしい、そこはあまり得意ではないんだ。こそばゆくて、気持ちよくて、力が入らないんだよ~。
「くう~、やわかくて気持ちいい~」
そう言ってボクに纏わり付く砂を払いながら、ボクの全身をわしゃわしゃしてくる人間……。
ボクはその日から、この
猫のボクにとって屈辱……。そう思ったのはもう遠い昔の話……。
あれ以来ずっとボクは、ボクを捕らえたこの彼女の相棒として、彼女の家族とこの
「おう? 小春子、何しとるがけ?」
「仏壇にご飯やちゃよ」
「お前はいつも、かたい子やのう~」
ボクの相棒である彼女の名は
『
呉羽家は、
呉羽家のでっかーい仏壇は、小春子の担当みたい。この家にはここ以外にも畳が何枚もある広い部屋が襖で仕切られていくつもある。仏壇に登ったり、畳で爪を研いだり、襖をカリカリしたり、僕はこの部屋で叱られた記憶しかない。
「小春子、まだゴミの袋は持ってかんといてね~」
「お母さん、早くして~」
お母さんの
小春子が待つ玄関とお母さんの居る裏口がどちらも開いて、一気に
「わあ~、爽やかやわ~」
小春子は別みたいだった……。
また、古くも味のある年季の入った呉羽家は、誰が2階のどの部屋にいるのか、物音で分かってしまう。今もそんな音が、2階から階段を下りる2人の足音ではっきりした。
「小春子、急いでも信号は守らんなんがやぞ」
「お兄ちゃん、ウルサイ」
長男の
「小春子、せめてスカート押さえて走られや」
「お姉ちゃん、ほっといて」
長女の
「お母さあああああん!小春子が猫やら拾ってきとるうううう!」
「またなにけ~、もう小春子~。駄目やちゃよ~」
「小春子、約束は破るためにある訳やないんやぞ!」
「いやいや、三人とも、コレぬいぐるみやから……」
「…………」
「ならいいか~あははは~」
「…………」
「ってなるかあああああ!」
「いやいや、この子は私の部屋で住むから大丈夫やし……」
「おう? かわいいニャンコやのう~」
「お父さん、でしょでしょ~」
「…………」
「お父さんは、小春子に甘い!」
母と兄姉の声が家中に響いた。その声で奥の
「おう~、白と黒のハチワレ猫やのう」
「名前、どうしよっかなあ~」
「これなら白黒テレビで見ても同じやのう」
「いやいや、お父さんソレいつの時代なんけモノクロって……」
ここの家は、木のいいニオイがしたのを憶えてる。玄関のマットはボクの足では踏んだことがない感触だった。人間の家に招かれて入るのは初めてだったボクは、逃げもせずに……でも落ち着いて座るわけにもいかず、ただ黙って小春子と小太郎さんの顔を眺めていた。
「ヨシ!この子の名前はモノクロ色の
『ものまる』にしよう!」
こうしてボクに付けられる名は決まったみたいだった。
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