1-7.首の蟲

「……酷い臭い、ですわね……。それにあちこち腐っていて、気を付けないと」

 懐中電灯を持たない左手で軽く自身の鼻を押さえながら、浅目が呟いた。全くもってその通りで、小屋の中は酷い有様である。そういう事に関してあまり知識のない胡古からして見ればこんな場所に誰かがいるとは到底思えず、散乱した椅子や机、恐らく頓挫した治水計画の資料と思われるものなどが経年劣化で散々な有様になっている。床も当然ながら腐っている箇所があり、気を付けて歩かなければうっかり踏み抜く可能性があった。

 空気に関しても扉が開いている為に充満はしていないというだけで、湿って腐った木材の臭いが漂っている。空気に滲み付いているといっても過言ではないほどだ。よっぽど切羽詰まった状況でなければこんなところに住もうとも思わないし、使おうとも思わないだろう。もし誰かがいたとして好き好んで使っているのだとすれば、相当な物好きであると言い切りたくなる。

「でもここ、やっぱりなんかいんね」

「嗚呼。そうだな……。とすると、どこを拠点としているか、か」

 朽ノ屋と遊佐は小屋に入って早々とそう断定した。浅目と二人で何故かと問えば、どうやら長年放置されていたにも関わらず、入り口付近の埃が周囲より薄いからだとか。まだ一瞬見ただけの判断ではあるので何がいるとか、どこに何があるとか、そこまではわからないが、確実に何かがいるという事は確定らしい。足元以外にも気を付けてくれと念を押される。

 常より気を張りながら四人は小屋の中の探索を開始した。広くはないが狭くもない小屋なので、光源要員と探索要員とで簡単に二手に分かれる。探索に慣れている遊佐と朽ノ屋は光源を持つ二人にあれこれと指示をし、何かを考えて数か所を重点的に観察し、時には触れていった。胡古は絶対に触れたくないが、遊佐は探偵業を手伝っており、朽ノ屋はフィールドワークを好んでいると聞く。慣れというやつだろう。

 数分か、十数分か。ただ指示された箇所を照らしているだけの身は正直退屈で、音らしい音も指示の声だけなものだから、眠くはならないものの疲労を強く感じてしまう。しかしそれは調査している方の身にも言える事だともわかっているので、わざわざ口にすることはなかった。

 次の指示を待ちながらぼうとしていると、これだ!と朽ノ屋が大きな声を上げた。それにびくりと肩を震わせ、こっちこっちという声に釣られてその方へと歩いて行く。他の二人も軽く駆け足で寄って来て、朽ノ屋は胡古にもう少しランタンを近づけるよう言った。

「見て、これ、足跡となんか引きずった跡。ちょっと薄れてるけど、同じ跡がも一個ある。確定だね。で、ほら、ここ」

 そう指さしたところには薄っすらと埃が払われていて、黒い直線が露出していた。朽ノ屋が遠慮なく線に沿うように埃を払えば、人一人分ほどの大きさの正方形が現れる。ならばというように遊佐が足でその内側を数か所踏み、何かに気付いたのだろう。爪先で強く、ぐりぐりと形をなぞるように踏み締め、出てきたそれにふむ、と一言落っことした。

 それは床下収納の半回転取手だった。もとは錆び付いていたのだろうが、錆び取りか何かで落としたのだろう。半端に元の色を出しているそれは、つまり使用している人物がいるという事を示していた。現に収納の扉は全てとは言わずとも、その姿を少し現していたのだから。

「地下室か?綴さん、調べた内容にそういった記述はあったかい?」

「いや……、なかった……、けど、あってもおかしくはない……と思う……」

 それもそうかと彼女は一人頷き、取手に手を掛けた。くると回転して指を掛ける場所が現れ、それにくいと指をかけて思い切り蓋を開ける。途端妙な異臭がゆっくりと上がってきて、元々漂っていた腐臭と混ざり始める。たまったものではないと胡古は顔を歪めた。

 開いたそれは遊佐が呟いた通り地下室へと繋がっていると見ていいだろう。床下収納というには深すぎて、しっかりと梯子も掛かっている。ここから照らすとそこそこ遠いものの地面が見え、下には更に通路のようなものが広がっているように思えた。小屋の外観によりも地下は少し広く作っていると見てよさそうだ。

 のんびりと観察している間に朽ノ屋がひょいひょいと梯子を半分ほど下り、途中で飛び降りた。どさりと危なげなく着地し、次の人を手で呼び寄せる。残された三人は顔を見合わせると、遊佐が次いで降りていった。同じように途中で飛び降りたのだが、この二人は足を挫く可能性という概念を装備した方がいいかもしれないと胡古は内心呆れる。

 残りは浅目と胡古で、浅目が最後まで残るよりかは自分が最後残った方がいいだろうと胡古は思考した。先に行くよう手で示し、懐中電灯を下へ投げさせる。恐る恐る放られたそれは遊佐が綺麗にキャッチし、彼女は安心して降りてくるよう微笑みながら声を掛けてきた。浅目はちらりと胡古を見て、自分が残るよりはとやはり思ったのだろう。ゆっくりと慎重に梯子を降りていった。

 彼女が降り切り、梯子の真下から離れたことを確認してから胡古はランタンを先に降ろす事を伝える。そのまま投げてくれと遊佐が言い、その通りにすればやはり綺麗にキャッチされた。彼女の動体視力と身体能力は驚くべきものなのだろうなと小さく感心しつつ、胡古も梯子を降りる。歩を進めれば進めるほど上で感じた悪臭がより強く鼻を突き、気分が段々と悪くなるような感覚に陥った。

 最後の一段を下り切り、胡古は地下の地面を踏みしめた。梯子を降っている最中も漂っていたが、そのせいで若干麻痺した鼻が反応出来るほどに悪臭がより濃くなっていて、不快感に呻きが漏れる。他三人もそれを注意するどころか同情するような目を向けてきて、待っている間に完全に麻痺したのだろうなと胡古は思った。我慢しているというよりかは麻痺して分からなくなっていると言った方が正しい表情をしている。

「今日の服、捨てないといけませんわね……。流石に……」

「嗚呼……、勿体ないけれど、臭いが落ちる気がしない。原因はぱっと見ここにはないが、それがあるところに行ったらもう駄目だろうな」

 はあ、と大袈裟に溜息と手振りを加えて、遊佐が嫌そうに周囲を見渡した。内心同意しながらランタンを受け取り、改めて照明係に戻る。照らされた先には数mほど真っ直ぐな通路が続き、突き当りは行き止まりのようだった。その手前に少し広い空間があり、照射範囲の問題で良く見えないが、恐らくその空間の両脇に扉か部屋かがあるのだろうと予想できる。

 取り敢えず進もう、そう朽ノ屋が言い、彼を先頭に縦列を形成して進んでいく。この状況でも何一つ恐れていない彼の足取りは、それでも慎重という言葉は持っていたらしい。極力足音が響かないような足運びをしており、他の面々もそれに倣う。広い場所に近寄れば近寄るほど悪臭が酷くなっていき、更に何かぶつぶつと人の声のようなものが鼓膜を打ち始めた。何を言っているのかはっきりとは聞き取れないが、人がいる事は確実のようだ。最後尾の遊佐がより警戒を強めたのを感じる。

 地下ゆえに少し湿った地面はぬかるんでいるというほどではなく、足を取られることはないが足音を消すには少し苦労しそうだった。慣れているのだろう二人はともかくとして、胡古と浅目には中々に難しい行動である。時折うっかりと大きな音を立てかけては立ち止まり、前後の二人がそれぞれの方向を一度警戒確認するという流れが二、三度起きていた。一度浅目がざり、と大きく足を滑らせかけたのだが、それでもここにいるだろう誰かが出てくる事はなかった。気付いていないのか、それとも敢えて無視をしているのか。気付いていない方だと嬉しいなと、恐らくその場の全員が思った事だろう。

 ひやひやとした心地になりながら開けた場所までやってくれば、やはりというか左右に扉があった。声が聞こえてくるのは右側の扉からで、更に扉の隙間から悪臭が漏れ出ている。どうやらこちらの部屋が臭いの原因の在り処のようで、逆に左からは特に何も感じない。遊佐が左の扉に耳を当てて中の様子を窺うが、物音も人の気配も感じ取れなかったようで、首を横に振った。

「……少しだけ」

 彼女は小さくそう呟き、朽ノ屋がちら見だけだよと答えた。胡古としてはどちらでもよいので無言を貫き、浅目が遊佐の後ろに回る。扉の方へ懐中電灯が向けられ、遊佐が数㎝ほど扉を薄く開いた。照らされたその中は素人目にもわかるほど生活感というか、人間の痕跡が色濃く残っており、ちらと見えただけでも空のビニール袋やペットボトルといった飲食物のゴミ、何かが詰め込まれた大きな段ボール、折り畳み机とその上に置かれたノートパソコンなどがある。人がいる、というよりも住んでいると訂正して良さそうなレベルだ。

 それを確認して彼女は音を立てずに扉を閉めた。興味を惹かれるものは幾つかあったが、今はそれらをのんびりと見ている暇はないという事だろう。朽ノ屋にちら見だけと言われていたこともあり、遊佐と浅目はすぐにこちらの方へ戻ってくる。明らかに人の痕跡があったという旨だけを彼に共有し、四人は改めて左の扉の前に立った。

 こちらの扉からは吐き気を催す悪臭と、単調に何かを呟く声が漏れ出てきており、それだけで常人ならば不気味さに精神を擦り減らすだろう。しかし朽ノ屋は気にした様子もなくドアノブを握っており、遊佐も遊佐で険しい顔はしているものの警戒しているだけであった。不快そうな顔をしているのは浅目だけで、この面子はメンタルが強いのか、はたまた別の理由があるのかと胡古はぼんやり考える。つまりそんな事を考える胡古も大概余裕がありすぎるという事になるのだが。

 がちりとドアノブが回り、少し開いたその扉を朽ノ屋が蹴り開けて鈍い音が響いた。すかさずランタンと懐中電灯で部屋の中を照らし、幸か不幸かその光が直撃したのだろう誰かが悲鳴を上げる。悪臭———ここまで来れば流石にわかる、血と肉の腐敗臭がぶわりと辺りに振り撒かれ、引き攣った浅目の声が良く響いた。ざり、と彼女が一歩後退り、かつりと朽ノ屋と遊佐が一歩前へ出る。その脇から顔を出し、部屋の状況をざっくりと確認した。

 それは惨状がありありと思い浮かべられるような有様であった。床は数か所ほど赤黒い染みが広がり、その内に嫌に濁った薄紅色の小さな塊が点々と落ちている。部屋の奥にはこんもりと歪な形の山が出来ており、力なく垂れ下がった腕が、手指が、助けを求め損なって散らばっていた。どれもこれも人間という存在の重要器官であるとある部分を失っていて、それ以外は大した損傷が見当たらないのが酷く恐怖をそそる。

 部屋の片隅には裁縫キットが乱雑に置かれていて、あまりにも場違いすぎると思うのにどうしてかそれにすら背筋が凍る感覚を覚えさせた。赤い色が落ち込んでいない裁ち鋏の刃は乾いているはずなのにてらてらと光を反射しており、適当に針山へ突き刺された長針たちは、逆に乾きすぎてなのかきちんと刺さっていない。それでも恐らく、それ以外に日常や平穏を思い起こさせるものが見当たらないからだろう、異常性だけが詰まった場所にそんなものがある異様さが、或いはそういったものが異常に塗れているのが、あるべき感情を逆撫でていくのかもしれなかった。

 そして———そして、その中央。幾つかある鮮烈な赤色の大きな染みの上。そこに二人の人物がいた。立って何かを大事に大事に抱え込んでいる痩せぎすの男と、手足を拘束されながらも状態を起こし、後ずさろうとしている見覚えのある美しい男。美しい男、篭宮は扉が開いたと同時にこちらに首を向けており、目を見張った後に見るな、と小さく口を動かした。

「……、誰だよ、誰……、どうやってここに?なんでだ?おかしい……、あり得ない」

 ぶつぶつと独り言にしか聞こえない低く小さな声が立っている男から零れていく。ぼさぼさとした髪は短期間きちんと入浴していないのだろう、妙なてかつきがあり、頬骨のラインは羨めないほどにげっそりと姿を露にしている。適当に着こまれた藍色のリネンシャツは長袖で、ジーンズ共々くたくたになってしまっていた。無精髭すら伸ばしっぱなしにしたその姿は随分と汚らしくなってはいるが、一度だけ見せてもらった写真に写っていた九瀬融希と同一人物だという事は、ある一箇所を見ればよくわかる。

 男の中で唯一生気を強烈に感じさせる、ぎらぎらと狂気に満ちた黄金こがねの目。陰鬱さを鋭い刃のように視線へ乗せ、乱入者である胡古らに突き立てようとするその目。写真と全く同一の、ある種強烈な意志を感じさせるその目が、何かを抱える男が九瀬融希であると伝えてくるのである。胡古にわかるという事は遊佐にも分かるわけで、彼女は軽く体勢を整えていた。篭宮を踏む事が無いよう位置を調整し、しかし何が起きても、もしくは何かが起きたらすぐさま相手を抑え込めるよう、彼女は全身を刃のように尖らせる。

「……九瀬、融希だな」

「……、何だよ、何で俺の名前知ってんだよ、誰だよ、邪魔すんなよ」

 遊佐の問い掛けに明確な回答はしなくとも、この男が今回の件全てを握っている可能性がある九瀬融希である事はこの場の全員に伝わってきた。俯きがちな顔で睨み上げるように遊佐に目を向けた九瀬は、手の中にあるものを一度抱え直して一歩後ろに下がる。大事なものだから守る、それをありありと感じさせる動きだったが、そのせいでそれがようく見えてしまった。

 それをうっかり視界に収めた浅目が、ひい、と恐怖と冷静さを共存させた悲鳴を上げる。胡古は釣られるように視線を動かし、骨ばった手指がしっかりと抱き込むその物体を見た。

 一言で表すなら醜悪、が妥当だろうか。それともぱっと見た感想として芋虫のよう、と言うべきだろうか。少なくとも人どころが哺乳類ではなさそうで、大きさとしては九瀬の腕より大分大きいと見ただけでわかる。何せ腕だけでは完全に抱え込み切れなくて、胴体も使ってやっとの事支えているのだ。もとより猫背だったのだろうが、これのせいでより背を丸める羽目になっているのだろう。

 妙にぶよぶよとした、グミのような質感と半透明な……、何と呼ぶべきだろうか?胴体というには欠け過ぎていて、頸椎部というには多過ぎる、そんなよくわからないものが全身の中心部にあり、中には植物の根のような赤い管が幾つもゆらゆらと揺れている。そのグミのようなものに付随している、いや、何度も何度も固く縫い付けて無理矢理繋ぎ合わせた、五つの大きく歪な球体。浅目が悲鳴を上げたのはこれのせいだろう。その醜悪な物体の、醜悪の部分全てをそれは担っていた。

 それぞれから長短異なる糸の束が垂れていて、一つに付き一対ずつ楕円形の濁ったものが填め込まれている。重力に従ってだらりと開いた穴からは朱色の落ちた、緩やかな角度を持ったゴムのようなものが吊り下がっていた。縫い合わせられているのはその球体から生えている円錐形のもので、ある一つのものに二つが、更にその二つに一つずつ縫合されて繋がっている。奇妙な事にその縫合箇所からグミ状の物質が溢れ、関節包のようにそれらを支えているようだった。

「あ、……なた、まさか、それ、……それは、彼は!」

 先程は悲鳴を上げた浅目が、今度は怒りの色を露にした。その視線の先は変わらず九瀬の抱える物体で、見つめているのはその中のある一点である。乱れた黒の短髪、精悍できりりとした面立ち。これも胡古は一度、しっかりと見たことがあった。貼り紙の画像という形だけれども。

「貴方でしたのね!彼を……、七森さんを!誘拐したのは!どのような卑劣な手をお使いになったのかは、ええ、わかりませんけれど!貴方ですのね!……殺したのは!」

 激情した彼女の声は甲高く鋭く、針の雨のようであった。きん、と鼓膜が少し痛みを訴え、胡古は半歩ほど彼女から離れる。怒りに支配されている彼女はそのことに気付かず、感情のままに言葉をぽんぽんと吐き出し続けていた。

「貴方、分かっていますの、何をしたのか!これは立派な犯罪で、誘拐殺人どころか死体損壊、いいえ、それ以上に余罪がたっぷりと付きそうですわね?!有り得ません……、有り得ませんわ!正気の沙汰じゃあなくってよ!何故、どうして、このような事を?!七森さんや他の方々が、一体何をしたというのです!」

 彼女の訴えは普通の事で、彼女が正常であることを示していた。どこからどう見てもこの男は数種類の犯罪に手を染めていて、糾弾されている今現在も反省どころか後悔も、懺悔もその顔に浮かべてはいない。寧ろ浅目の発言が一体全体何の事かさっぱりわからないと言いたげな眼差しをしていて、自身が犯罪を犯しているという事実すら頭の中になさそうであった。

 男の意識が浅目に向いているうちに、胡古は篭宮の方へとゆっくり、慎重に、悟られないよう近寄っていった。彼もそれに気付いたようで、その巨躯で這うように後退してくる。どうにも一時的に発声が出来なくなっているようで、これを見ただけではなくこれの仲間入りしかけた彼の心情を考えれば、その程度で済んでよかったと言えるのかもしれない。

 九瀬はのろりと頭だけを持ち上げると、しっかりと浅目の方を見た。舐めるように彼女を見つめた後、期待外れとでも言いたげに鼻を鳴らした。追い詰められている側だというのに不遜すぎる態度は、浅目の逆鱗を撫でたようで、大声を上げそうになった彼女を遊佐が慌てて止めた。

「そんなこと、どうだっていい……、それより、どうやって、ここに来た……、そうだ、そっちのが大事だろ、だってあいつがここなら大丈夫だって呪文を掛けたんだ、今まで誰も見つけられなかった、それなのになんで……、ああ、そうだよ、なんでだよ、なんでここに部外者がいるんだよ!おかしいだろ、聞いてない、嘘を吐かれたのか?なんでいるんだよ、認識できなくなるって言ってたのに!どうやって見つけたんだよ!おい!答えろよ!」

 ぶつぶつとした呟きは徐々に声量を上げていき、やがて絶叫に近い音となった。先程の浅目の比ではないその声量に鼓膜が大袈裟な痛みを訴えて、流石に胡古も眉間に皺を寄せた。こちらの言葉なぞ碌に聞いていないのだろう、九瀬は答えろ答えろと言うばかりで非常に、何というか、つまらない。

 誰も答えない事に業を煮やしたのか、九瀬はだんと一度大きく足を踏み鳴らした。ぎりぎりと音が聞こえそうなほど歯を食いしばり、立っている三人をぎろりと睨みやる。しかし活きだけがいいその程度の視線に彼等が怯むわけもなく、浅目をある程度落ち着かせた遊佐が逆に問いを投げかけた。

「……君が失踪事件の犯人として。……最初に失踪した女性は、どうした」

 敢えて見ればわかる事を聞いたのは、それが彼をどうあれ揺さぶれると即座に判断したからだろう。感情の乗らないその紫は鋭く細められ、九瀬の一挙手一投足も逃さないと言いたげであった。

 求めていた返答とは違うが、遊佐の言葉は確かに彼女の思惑通り男を揺さぶったようだった。九瀬はその顔を嫌らしくにやけさせ、得意げに、自慢するように全ての解となる話をぺらぺらと喋り出す。小さな子供のようと言えば聞こえはいいが、その実男の言葉には薄気味悪い欲と妄想がねっとりと混じり合っていて、これが世界の真実だとでも言わんばかりであった。

「彼女か?彼女はな、俺を……一度拒絶して、だから、色々な?相談したんだ……、女の占い師に……。そうしたら素直にさせて、ずっと一緒にいられる方法をな、教えてくれたんだよ!だから俺は、そう、三ヶ月だ、三ヶ月かかったけど準備をして、ちょっとそいつに手伝ってもらって、それでやっと彼女と一緒になれたんだよ!頑張ったろう?そうだろう?そうさ……」

 陶酔したかのようにうっとりとした顔で、物体の頂点にある頭を愛おしそうに撫でる。自分達は相思相愛で、何も間違ったことは起こっていないと言いたげであった。するりと頬を寄せるなどもし、抱えているものがいかに倫理に反したものなのかをまるで分かっていない。浅目の言う通り正気の沙汰とは思えなかった。

「嫌だって彼女は言ってたけど、でもそんなわけないだろ、ほら、嫌よ嫌よもって言うだろ。彼女が俺を嫌いだなんてあるわけもないし、だから……成功、するはず、いや、したんだ。したんだよ。ちょっと喋らなくて、ちょっと動かないだけだ、そう、だから成功しているんだ。ちょっと安定してないだけで、そういう事もあるって言ってたし、だから近場のヤツを適当にさ、ほら。近くないと運ぶのが面倒だし、見られるかもだしでこの辺の呑気な奴らしか無理だったけどさ……。でもそいつらをさ、足してあげてるんだ。あの女占い師も安定させたいならどんどん継ぎ足せって言ってたしさ。それでこいつも……、こいつはなんか、そうしなきゃって思ったんだけど、それ以外は適当にさ」

 篭宮をちらと見て男は言った。篭宮以外の誘拐は適当に目を付けて、あまり情報が出回らなさそうなタイミングで連れ去っただけだが、篭宮はどうしてか補強材として強く欲しくなったと。それはそれで最悪な事で、指名された篭宮はただでさえ血の気の失せた顔をより白くさせていた。が、その目には諦念もあって、こういった厄介事にはもしかしたら慣れているのだろうかと感じさせる。

「ほら、でもさ、見てくれよ!綺麗だろう……、素敵だろう、俺の彼女だ、俺の女だ、俺だけのものだ……。こいつを繋げれば絶対に元通りなんだ!邪魔はしないでくれよ、俺は、殺人は、したくないんだ」

 ゴミが、と遊佐が小さく悪態をついた。何というかストーカーになったという事実がしっくりときてしまうレベルにこの男は大分思考が捻じれていて、全てを都合よく解釈する能力だけは優れているようだった。聞いているだけでどうしてそうなった、を通り越した思考の発展の仕方をしている気がする。恐らく女性の関わっている部分に異様な補正がかかっていると思われ、少しでもそこに触れたら自分勝手な改竄をして都合よくしているのだろう。気持ち悪い、がこれほどぴったりな思考回路も珍しい気がする。

 ぎりぎりと浅目が歯を食いしばり、激情を堪えているのが目に入る。遊佐は完全に囚人を見るような目で九瀬を見つめ、朽ノ屋はどこか冷めたような表情をしていた。九瀬は腕の中のものを、その中の一つを執拗に、しかし愛おしさを込めた手で撫で回し、乱入者の四人が何も言わない事に満足しているようだった。自分が正しいと突き付ける事が出来た、そんな感情が目に籠っている。言い返して見せろと雄弁に語っていて気分が悪くなりそうだった。

「……くっだんね」

 そんな一言で水滴を水面に落としたように、停滞しかけていた気持ちの悪い空気を破ったのは、意外にも朽ノ屋だった。たった一言のそれには侮蔑、軽蔑、嘲り、嫌悪、落胆、そんな色が幾つも含まれて、もしまともな人間がこれをぶつけられたのならば一瞬で自身の価値を見失うのではないかというほど乾いていた。ちらりと見上げたその眼差しには明確に興醒めを纏っていて、数時間前の意欲と気力に満ちた姿はどこかに消え去っている。

 言われた九瀬は何が何だか、と朽ノ屋の意図を全く掴めず狼狽していた。だが不穏さだけは感じ取れたらしく、物体を抱えた腕に力が籠る。朽ノ屋の視線からも外すように動いているのを見るに、彼がそれに興味を持ったと勘違いしたのだろうか。ある意味幸せな頭をしていると皮肉を言いたくなる。

「くだんねーって言ったんだよ。聞こえなかった?まあ聞こえるわけないよねえ、君、どうにも幸せなお花畑を敷き詰めてるみたいだし」

「は……、なん、なんだって?お前、今、なんて言った?」

 あーあーあー、と彼は落胆する声と共に大きく肩を落とした。ごてりと傾けた首から注がれる視線にはやはり侮蔑が乗っかっていて、その態度と声の調子、動作から、どう見ても九瀬を馬鹿にしているとしか感じ取れない。事実そうなのだろうし、しかしそれを察する事すら出来なくなっているのがこの欲に身を任せただけの狂人、九瀬融希であった。

 朽ノ屋はぶらぶらと片足を揺らして地面を擦り、それから数度爪先で地面を叩く。重心の殆どを片方にだけかけるその立ち方は骨格が歪みそうだが、気にした様子はなかった。彼は両手を腰に当てると、詰まらないと全身で主張しながらまた口を開く。

「だってどう見たってただの殺人事件じゃんね、これ。僕が探してる未確認生物とかでもなくって、ただ単に頭イカれた人間が頭イカれた理論引っ提げて、人攫い回ってばらばら死体にしてるだけでしょ。超くだらないしつまんない。僕そういうのはいらねーわ」

 ばっさりと彼はそう切り捨てて、酷く冷えた眼差しで男を見た。瞳に映しているのではなく、ただ反射させているだけのそれに、九瀬もようやく自分が虚仮にされていると気付いたようだった。はくはくと陸で酸素を求める魚のように口を開閉させ、じわじわと首から頭にかけて血色を良くさせていく。同時に腕にもより強く力が入ったようで、ぶにゅりと物体の形が歪んだ。慌てたように力を抜いて元に戻ったが。

 男は朽ノ屋を視界にしっかりと収め、その反応を窺った。凍るような橙色が九瀬という人間をただ硝子のように反射して、朽ノ屋という人間からどう見えているのかがその脳裏にくっきりと浮かびでもしたのだろうか。九瀬は身震いし、背をより丸め、本能的な防衛体勢を取り始める。彼の注意が朽ノ屋一人に向かったと判断して、胡古は篭宮の手足を拘束するガムテープを剥がす。服の上からだったことが幸いして肌にはかぶれた赤みもなく、篭宮は小さく礼を言って手足を軽く回した。

 篭宮が自由になったのを見計らったかのように、朽ノ屋は九瀬を更に挑発し始めた。本人にその意図は全くないのかもしれないが、外野から見てもわざわざ挑発をして逆鱗を撫でようとしている風にしか見えない。天性の才でもあるのだろうか、嗤いを込めて彼はこう言った。

「分かんないのなら、もっかい言ってあげるよ。君のそれは低俗なだけの殺人だってね」

 その瞬間九瀬が絶叫を上げ、朽ノ屋へ掴み掛ろうと地面を蹴った。寸前まで大事に抱えていたそれを腕から落とし、だかだかと大きな音を立てて、勢いのままに飛び掛かる。朽ノ屋はというと動揺の一欠片もなく、じっと動かず佇んでいる。このままでは胸ぐらを掴まれて地面に叩きつけられるだろうと思った刹那、別の腕が九瀬を拘束し、いっそ芸術的なまでに俯せに寝転がした。銀髪の彼女は九瀬を地面へ寝転がした瞬間にその両腕をがっちりと固定しており、ついでとばかりにその身体へ片膝を乗せる。九瀬はばたばたと身動ぎするが、彼女の拘束から逃れられそうにはなかった。

 離せ、離せと喚き散らす男を尻目に、瞬く間に変わった事態を理解した浅目が部屋の外へと駆けていく。上まで戻って通報でもするのだろうその背を見送ると、柔らかいゼリーを落とした時のような音がして、一瞬の間の後重たく鈍い音が数回、場に響いた。何の音だろうかとその方へ視線を向ける。

 あ、と情けなくか細い、理解を拒否したような声が小さく聞こえてきた。それは押さえつけられている九瀬融希の喉から絞り出されたもので、その顔は胡古からは見えないものの、かなり精神的に削られたような色を声に宿していた。それもそうだろう。揃って音の方を見た胡古らには、寧ろ男が暴れ出さなかった事の方が不思議というか、運がいいというか、そう思ってしまう事態が、しかし当然起こっていた。

 無理くり繋ぎ合わされていたせいだろう、高所から落とされた衝撃で複数の頭はばらばらになっており、切断面から伸びていた赤い管をだらりと地面へ垂らしている。それらを繋ぎ合わせていた縫合の糸は落ちた衝撃と重力の反動で縫合箇所を幾つか引き千切り、分散してしまっていた。グミのようだった関節包擬きは地面に濃い影を生み出し、べちょりと面積を拡大している。それは床に濃い影を生み出しながらゆっくりと融解していき、水が吸収されるように跡だけを残して消滅している。

「あ、あ、……あ。あ、ぁ。……あ?」

 赤子の喃語のような声が徐々に音量を上げていく。これは絶叫が響くなと思って自身の耳を塞ごうとした直後、九瀬融希の意識は遊佐によって刈り取られた。綺麗なまでの手刀がピンポイントに首へと入り、男は溜めに溜めた息をごろりと塊のように吐き出して気絶する。彼女の手際はいっそ予見でもしていたかと言うほどで、それだけ面倒な事件に関りでもしてきたのだろうかと邪推しそうであった。

 完全に意識が落ちている事を確認してから遊佐が拘束を解き、何かを求めるように周囲を見回す。何が欲しいのか察し、自分の近くにあるだろうと胡古も辺りを確認すれば、お目当てのものはすぐ傍にあった。篭宮を拘束してそのまま適当に置いたのだろうガムテープを遊佐へと渡せば、彼女は九瀬の手足を軽く縛り上げる。一連の動作が終わってから、彼女はやれやれとでも言いたげに大きく肩を回した。

「終わっ、た……、んすかね」

 床にしゃがみ込んだ体勢で篭宮がぽつりと呟いた。掠れてぼやけた声は先程まで機能停止していたからだろう、近くにいた胡古にしか聞こえなかったらしく、朽ノ屋と遊佐は反応すらしなかった。未だ放心状態から完全に抜けきっていない彼に頷いて見せれば、ようやく安堵したのか大きく息を吐く。誘拐されていつ目覚めたかは知らないが、胡古ら以上に九瀬と同じ空気を吸う時間が長かったのだ。四人が来て、男が拘束されるまで生きた心地がしなかったのだろう。何というか、運が悪かったと言うしかなかった。

 あー、と声を上げてその場に倒れ込もうとした篭宮は、床の汚れ具合を改めて目にしてうげえと踏み止まる。身体が弱いと公言している通り、彼の顔色は再会してからずっと青白いままで、早い所ここから離脱させた方がいい気がした。しかしもし警察が来た時、もう一度ここまで移動するのは嫌だろう。何も言わずにハンカチだけを彼に渡し、胡古は通報しに行った浅目の元へ行くため部屋の外へと出る。

 薄暗く狭い通路をランタン片手に歩いて行く。梯子の所まで辿り着くと、上から物音と話し声が流れてきた。ランタンを翳して様子を窺えば、ひょこりと浅目の顔が出てくる。胡古を認めた彼女は表情を明るくさせると、後ろにいるらしい誰かを手招きした。複数の足音がした後梯子の上から覗き込んできたのは警察官と思しき人々で、彼等は胡古を見ると驚愕に目を見張った。本当に人がいると思っていなかったのだろう彼等はわたわたと動き始め、ようやくこの件が終わりを告げるのだと、胡古はどこか他人事のように感じ取っていた。

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