1-6.人喰い霧

 ごきりと首を回して画面から目を離す。その拍子に見えた壁掛け時計の針は午後十五時を示しており、そろそろ出かける準備をしなければと立ち上がった。調べ物をしていたパソコンの電源も切り、デスクから離れる。

 昨日は帰宅してから特に何もせず、夕食を摂ってすぐに寝てしまった。そのお陰か今日も中々に早く起床することが出来、ネットで調べられそうなことでも調べておこうとパソコンを開いていたのである。結構な時間集中してしまったせいで昼を食べ損ねてしまったが、今から食パンの一枚でも詰め込めばいいだろう。

 彼女が調べていたのは九亀湖の詳細な地図もしくは地理と、昨日話に出ていた九瀬融希の件についてだ。もし九亀湖に人が連れ去られているのならばどこかしらにそういった廃屋などがあるかもしれず、九瀬融希の件は接触禁止令にまで至ったのなら最低でも地域新聞くらいには載っているだろうという考えによるものである。そしてその考えは少なくとも間違っていなかったらしい、どちらの情報もこの数時間で入手することが出来た。

 まず九亀湖だが、大正時代辺りには水源としての利用を見込まれていたようだった。しかし工事の為の人を派遣し、作業小屋を建て、いざ工事を、といったところで事故が多発し出したようだ。死者も数名ほど出ており、そのせいで計画は頓挫。その後何度か治水計画が実施されたものの、全て同じような結果に至り、現在も人の手が入らない場所となっているようである。

 この事から考えるとその作業小屋は残っている可能性があり、もしこの場所に連れ去っていたら犯人が現在使用している見込みが出る。その小屋を探し出して探索を行えば、連続失踪事件が実は誘拐事件だったかどうかくらいはわかるかもしれない。しかし小屋が立てられた場所についての記述は流石に発見できず、今日地道に探す事になりそうだ。

 そして九瀬融希についてだ。篭宮の言っていた通り、この男は一年ほど前に九亀湖近隣の住宅街に住むある女性に対してストーカー行為をし、接触禁止令が出ている。その女性は九瀬融希と大学を同じくしていて、たまたま彼の落とし物を拾い、少し会話をしただけの人物であった。どうやら彼はこの件で彼女に好意を抱き、異様なまでの思い込みの強さで妄想を発展させ、自身は彼女と想いを通じ合わせているのだとストーカーに至ったようだった。九瀬融希の家も同じ住宅街内にあり、諸々が行いやすかったというのもあるだろう。

 女性に恋人はいなかったが、友人や家族によって男は通報され、付き纏いと監視行為、無言電話などといった行為から接触禁止令を出されている。その後はそれまでのストーカー行為が嘘のように収まり、代わりに家へ引き籠る事が増えたという。それ以降の事についてはわからず、ほぼ篭宮の話通りの事が起きていたとわかった程度であった。

 以上が午前一杯と午後の少しを使って判明した事で、九亀湖に作業小屋がある可能性以外は有益な情報と言えなかった。が、初日のように何もわかっていないまま闇雲に調査を行うよりかはましだろう。荷物の中にLEDランタンを加えてから簡単に身支度を整えて、胡古は家を出た。

 ここ数日毎日のように通る道を歩き、バスに乗り、昨日と同様公園へと向かう。いつものように公園へ入ろうと足を運ぶと、ベンチに誰か座っているようだった。待ち合わせをしている三人とは違う人影で、背凭れに思い切り背を預け、脚をだらりと伸ばし、かなりだらけた状態でそこにいる。こちらに気付いた様子はなく、ただぼうっと空を見上げているだけのようにも見えた。

 一歩、二歩と公園内へ足を踏み入ると、その人物がぐりと首を回してこちらを見やる。長めの前髪はそう整えているのではなく、どうやら束ねるには短くてあぶれただけのようだ。その黒い髪はどうにも結構長いようで、左サイドで一度纏め、更にU字のように持ち上げて結わえ、背中側に残りの髪が流れるように調整されている。顔立ちはごく普通で、しかし肌には張りと艶があった。若々しいと言うべきなのだろうか。橙色の虹彩がある眼には今は何の色も乗っておらず、しかし感情がそこで光ればとても綺麗に輝くのだろうな、と感じさせる。黒のVネックインナーがちらと見えるほどにボタンが幾らか開けられたワイシャツは袖を捲っており、滅紫のロングベストをその上に羽織っている。墨色のスラックスは少し草臥れ、亜麻色のトレッキングブーツはよく履いているのだろう、大分汚れが目立っていた。

「……君、誰?なんか用?」

 気怠そうだが張りがあるその声には聞き覚えがあった。どこでだったか、と少し思案して記憶を探り出せば、そうだ、と思い至る。電話越しより僅かに高めではあるものの、それは朽ノ屋の声とよく似ていた。

 胡古が問い掛けに答えず、尚且つ考え込んだからだろう。彼は不快そうに表情を歪め、聞いてんの?ともう一度問い掛けた。分かりやすくころころと変わるその表情は好感を持たれやすそうだが、隠すという気のないそれは敵も作りやすそうに思える。そう見ている間にもその眉間に皺が増えそうになり、胡古はゆるりと口を開いた。

「……人と、待ち合わせで。後十分くらい、なんだけど」

「ふうん、ああ、そう。僕もなんだよねえ」

 答えを得たことに満足したのか、彼は歪んでいた表情を緩める。その視線がじいと彼女を観察し、今度は彼女が嫌な気分になった。だがどこに自分の視線をやるか迷い、結局目の前の男性を眼球に反射させる事しか出来ない。

 そんな胡古を見て彼は何を思ったのか、つまらなさそうに鼻を鳴らしてまた空を見始めた。この人物が朽ノ屋である場合、もう少しとっつきやすく、会話も広げてくれるような性格だと思っていたが、実は違うのかもしれない。ベンチに座るにもなんとなく近寄り難く、胡古はベンチから数歩離れた所で立ち尽くす羽目になった。

 居心地の悪い空間にいること数分、不思議そうな声と共に篭宮がやってくる。彼は胡古と男性を交互に見やると、アンタら何してんすかとその場の空気を打ち破った。

「えー、何って、僕座ってるだけだよ。てか篭宮クンそれ知り合い?前言ってた胡古って子、これの事?」

「……センセ、先輩に興味湧かなかったのはよーくわかったんで、流石に物扱いはやめましょ」

 あろうことか彼は胡古をこれだのそれだのと物のように言い、篭宮がそれに呆れたような声を出した。センセ、という呼称からやはりこの男性が朽ノ屋九澄で、どうやら興味のない人間は雑に扱うタイプである事もよくわかった。まあ、彼の言い分は、胡古からして見れば間違ったものではないのだけれど。

「てかなんで物扱いなんすか?いつもそこまでじゃないような」

 胡古を見ながらそう言う篭宮の目にはやはり不思議そうな色が宿っていて、雑に扱いはしてもここまでの事はそうそうないらしいと知らされた。朽ノ屋は背凭れから身を起こし、膝の上に頬杖をつくと、当然のように言い放つ。

「だってその子、人形みたいじゃんね。僕そういうの面白くないからやだ」

「ええ……?言うほどすかね……?」

 篭宮はそんな事ないと思うけど、と言っているが、胡古はこの朽ノ屋という人物の、人を見る目がある程度信用できると感じた。昔からよく言われていた事だし、自分でもそう思う事がある。たったの一言二言で彼女をそう言い切る朽ノ屋は、余程人を見る目があるか、勘が鋭いかのどちらかだろう。こういった人物が協力側にいるのは非常に有難い事だった。

 改めて簡潔な自己紹介を挟み、三人は遊佐と浅目を待つ。彼女らは講義の終了と二人の合流、移動の時間がある為少し遅れるかもしれないと事前に言われており、遊佐の方の講義が少し長引いたとかで、もう十分ほど待つことになりそうだった。その間話でもしようと適当な雑談をぽつぽつとする中、朽ノ屋自身の話へとなる。篭宮によれば朽ノ屋は三十四歳らしい。准教授としてはそこそこ若い年齢であるから、中々に優秀な人物であると見ていいだろう。

 その流れで気になっていた事を聞いてみると、彼は案外普通に答えてくれた。雑な扱いをするにはするが、いないもの扱いをするわけではなさそうだ。ちなみに聞いたのは、なぜ湖を調べているのかである。

「ああ、それねえ。ほら、十何年か前の失踪事件のさ、黄色い目玉の噂。僕はそれを追っかけててさ。僕の勘がこれは絶対未確認生命物体だって叫んでて、絶対見つけて調べ尽くさなきゃって思ってんの。まだ一回も見かけた事すらないけど、そろそろまた噂が流れそうだし、しかも今回別の噂も出てるじゃん?……なんだっけ、えーと」

 思い出すように空を見上げ、篭宮や胡古がそれを伝えようとすると手で制す。自分で思い出さなきゃ意味がないからと彼は一瞬だけ考えこみ、すぐにきらりとした目であれ、あれ、湖の赤子!と嬉しそうな声を上げた。

「そう、湖の赤子がさ、出たじゃん。赤ちゃんの化け物とかなんとかあるけどさ、つまり通常じゃあり得ない生き物がいるかもしれないって事でしょ?これも調べるしかないからさー、湖の情報については篭宮クンと協定結んでるから、その流れだよねえ。手は多い方がいいし」

 非常に気分の良さそうな朽ノ屋だが、しかし今回の件については篭宮の方から彼の望むような結果にはならないだろうと話をしたはずである。それなのにこの様子、と考えて篭宮をちらと横目で見るが、自分は無罪だと言うように大袈裟に首を振っていた。

 それを見てか朽ノ屋も話は聞いてると片手を振り、きらきらとした目のまま話を続ける。

「だってまだわかんないじゃんね。本当に人間ならまー、残念でしたって感じだけど、もしかしたら本当に化け物がいるかもだろ?まだ可能性は二択あるってわけ。だから僕は今日ここにちゃんと来たの。おわかり?」

 ぴ、と彼は篭宮を指さし、しかしそれは正面から黒の指貫グローブをはめた手に掴まれてす、と下ろされる。いつの間にやら遊佐と浅目が来ていたらしい。彼女らは少し呆れたような目で朽ノ屋を見てから、遅れたことを詫びた。講義の終了がずれるのは仕方のない事で、謝る必要はないと一度言って彼等は湖へと足を運んだ。


 歩いている最中に今朝方調べた事を共有し、九亀湖に残っている可能性のある作業小屋を探そうという提案を為す。その案は特に反対意見もなく通り、湖に着いたら手分けして見回る事になった。湖までの獣道を歩き———この時浅目が若干歩きにくそうだった———、荒れ切っている湖畔に出る。陰気さと見辛さは時間帯の違いのせいか一昨日以上で、作業小屋と言えど古く廃れ切っているだろうものを発見できるか心配になってきた。

 しかしそれ以外に出来る事があるかと言えばあまりなく、同時並行で朽ノ屋に生き物の痕跡を探してもらうくらいしかない。もしも霧が出た時の為単独行動はなしとし、浅目と遊佐、朽ノ屋と篭宮と胡古という組み分けで動く事になった。どうしてこんな組み合わせになったのかと言えば、遊佐が男どもは気が利かなさそうだと切り捨てた為である。篭宮は一度却下しようとしたが、遊佐が幼少期から剣術を習い、今は道場から離れてしまっているが鍛錬と、護身術としての武道をここ数年続けていると聞いて口を噤んだ。胡古も遊佐の方へ誘われたが、元々篭宮と調査をする予定であったのと、なんとなくこちらにいた方がいいような気がしたのとで、篭宮らの方で動く事にしたのであった。

 何かあったら必ず誰かが連絡を行う事を遊佐に念押しされ、五人は二手に分かれて湖の調査を開始した。遊佐と浅目は他に人がいないかを見つつ、朽ノ屋篭宮胡古の三人は朽ノ屋任せにはなるが生物の痕跡を探しつつ、共通して作業小屋の発見が最優先事項である。歩きのペースとしては遊佐らの方が早いものとなるだろう。作業小屋についてはあちらが先に見つけるかもしれない。

 痕跡探しは朽ノ屋に一任し、胡古と篭宮は離れすぎない位置から建物らしき影がないか目を凝らす。草木が鬱蒼としているとはいえ、見つけたいものは作業小屋という明らかな人工物だ。余程自然と一体化するレベルにまで荒廃していなかったらど素人でも見つけられるだろうと、そんなものより何かしらの生物の痕跡を見つけたい朽ノ屋が放り投げた作業ともいう。事実荒れ果てたこの辺りで人工物があったとすれば、それはとても目立つだろう。

 しかしその考えは浅はかだったとすぐさま否定したくなった。そう、まず、一昨日も感じたように景色の変動が全く分からない。同じ場所を延々と歩いているような気分にさせられるほどに景色が殆ど変わらず、そのせいで飽きによる注意力散漫な状態へと陥りかける。そうなる前後に意識を切り替えて集中しようとするのだが、こんな場所だ。思考の切り替えにも時間がかかる。

 何が言いたいのかというと、一昨日と全く同じく遅々として進まない、という事である。痕跡探しを担当している朽ノ屋が引っ張っていけばいいのだが、彼も彼で自分の事に熱中し、気が付いたらかなり離れて行きそうになるので、それを押さえる必要もあった。それら諸々を考えると胡古はこちらに来てよかったかもしれないと思いつつ、面倒くさいから遊佐達の方についていけばよかったかもしれないとも思う。人が面倒だと感じる要素が色々と重なりすぎていた。

「ここに来るのも久しぶりだけどさあ」

 集中が途切れたのか、単に喋って気を紛らわそうとしたのか、不意に朽ノ屋がぽつりと話し出した。視線自体は地面へ向いており、草の根をかき分ける手も止まってはいない。黙っていれば彼はそのまま話し続け、もしかしたら独り言なのかもしれない。

「ちょーっとここ暫く忙しくて、だからー……、二か月ぶりくらい?なんだけど。ここってほんと調査のし甲斐がないっていうかさー、僕も色んな怪物の噂なかったら絶対調査してないっていうか。暗いし整備されてないし、色々めんどいんだよねえ」

 一度立ち上がって調べていた地面近くの木の幹を観察し、特に何もなかったのか少し歩いてまたしゃがみ込む。更にその先で小屋を探していた篭宮が一度戻って来、首を横に振った。あの辺りには見つからなかったらしい。

「あと全然変わんない。変わんな過ぎてつまんないんだよねー。でも面白い噂はたっぷりあるし、黄色い目玉まだ見つけてないから定期的に調査しないと僕やだし。いやでもいつも思うけど、あんまりにも変化がなさ過ぎて、ここほんとにこの世?とかは思ったりするんだよねえ。この世だけど」

 茶化すような言葉だが口調はかなり淡々としたもので、口を挟む間が見つけにくい程度に早口であった。やはり独り言に近いのだろう。内容としても返事を求めていない彼の独り言は、この場所自体には彼は一切の興味を抱いていないという事を述べていた。本当にここや色々な場所で噂として出てくる怪物関係にしか興味がないのだろう。その過程で様々な情報を得て、オカルト記者の篭宮と時折協力するというだけで。

「ていうか僕の運が悪過ぎ?みたいなとこある気がするんだよねえ。一回も……いや一回だけあったことあるけどあれは小さい頃だしあれがきっかけだったからノーカンかなあ……、まあとにかく追っかけるようになってからはなーんも出会った事なくってさあ。腹立つよねー、物欲センサーってやつ?やんなっちゃうよ。今もそうだし」

 そこにも何もなかったのだろう。大きく溜息をついて肩を落とし、再び数歩移動する。静かなこの場所は彼の声と三人の足音が思っている以上に耳に響き、もしも仮定通り九瀬融希がいるのだとしたら、すでに自分たちが来た事を把握されていそうだと思った。特別声が大きいとか足音が大袈裟だとか、そんな事はないのだが、そう思えるほどにこの場所は静かなのである。

 集合時間が夕方だったこともあり、それから暫くちまちまとした調査を続けていれば、刻々と辺りが暗くなってくる。持参してきていたLEDランタンで周囲を照らせば、地面を見ていた朽ノ屋からありがとうと礼が聞こえてきた。ついでのように光源としてランタンを選んだ事を褒められる。似たタイミングで篭宮が懐中電灯を点け、朽ノ屋に近い所はランタンで、他の遠く奥まった所は懐中電灯で照らし、足元に気を付けつつ調査が続行された。

 明かりを点けてから十数分ほど経っただろうか、ふと二つの音声が重なった。あ、という一言は篭宮と朽ノ屋両方から漏れたもののようで、当たり前だが二人はそれぞれ別の場所を見ている。篭宮の視線の先には特に何もないように見え、朽ノ屋の視線の先には草に覆われた地面があった。声を上げた二人は顔を見合わせ、草の根を押さえたまま朽ノ屋が篭宮の視線の先へと目を向ける。どうやら発言を譲るようだ。篭宮は軽く会釈をしてから懐中電灯をくるくると動かし、話し出す。

「ほら、センセ、ここっす。こないだ変な感じがするーっつったとこ。なーんか物足りない気ぃするんですけど、何が足りないんだかわからなくて……。でもなんもないんすよ」

 そう言い、彼は彼的に何か物足りないと思った場所へ、円を描くように懐中電灯の明かりを揺らし照らす。確かにそこには何もないのだが、胡古は特に違和感を抱かない。先日と同じだ。しかし朽ノ屋は違ったようで、懐中電灯の明かりの先を見、篭宮と胡古の顔を見、意味が分からないとでも言いたげな表情になる。押さえていた草の根から手を放して立ち上がり、明かりの先を指さした。

「君らが何言ってんのかよくわかんないんだけど……、ねえ、そこさあ」

 彼が何かを伝えようとした瞬間だった。背筋に寒気が走り、ぼやりと視界が僅かに曇る。寒気はともかく視界の曇りは気のせいかと一度目を擦り、瞬いてみたが、それはどんどんと色を増し、濃く白くなっていく。気のせいなどではなく、それと共に寒気だけでなく湿っぽさも感じ始めた。

 ———霧だ。気付いた時にはすでに遅く、自分の手すら輪郭を辿る事が難しいほど辺りは真っ白に染め上げられていた。ランタンも点いたままではあるが全く機能しておらず、何も見えない。それはつまり近くにいた朽ノ屋、篭宮を認識する事が出来なくなったわけで、足元すら見えない為に歩く事も不可能である。辺りを見回した後声を上げようとして、すぐにその必要はなくなった。

 あれほど濃かった霧が徐々に薄れ、晴れていく。突如一瞬にして辺りを覆った霧は、どうやら晴れるのも突然らしい。数度瞬く間に霧は完全に姿を消し、辺りは静けさと元の景色が戻って来ていた。ランタンを片手にきょろりと周囲を見回せば朽ノ屋が先程と少し違う位置におり、何やらしゃがみ込んでいる。怪我でもしたのかと声を掛けながら近寄れば、そうではないという事がわかった。

 しゃがみ込んだ彼は少し険しい顔をしていて、その手の中にあるのは懐中電灯だ。突然の停電等にもすぐ目に付くようにかボディは黄色で、明かりは点きっ放しだ。持ち運びやすさを重視したのだろう細身のそれは、少し土に汚れている以外おかしなところはない。持っているのが朽ノ屋だという点以外は。

「……篭宮、は」

 篭宮が持っていた懐中電灯を拾い立ち上がる彼に、胡古はぽつりとそう聞いた。篭宮より少し小さいが、意識すれば体格のしっかりとしている朽ノ屋は、自分より目線の低い胡古に振り返る事なくこう答える。

「多分、いなくなった」


 どういうわけか迷いなくどこかへ行こうとする朽ノ屋を止め、遊佐と浅目に位置共有して連絡を取る。彼女らはなるべく早くこちらに来るという事で、その間痕跡を探そうと提案したが却下された。なるべく動かないようにと逆に言われたので、恐らく朽ノ屋はとうに篭宮がどこへ連れて行かれたのか、或いはその予測がついているのだろうと察する。先に懐中電灯を見つけていた事から、胡古がいた位置よりも霧が少し早く晴れたのかもしれない。

 それから数分と経たず遊佐と浅目が合流し、何事があったのかと問い掛けてくる。さっくりとそれに答え、篭宮を探さなくてはならない事を伝えた。聞いた途端に驚愕し、焦燥を表に出す浅目と異なり、遊佐は何かを考え出したようで、難しい顔をしている。

「……霧、霧か。本当に出たんだな……」

「ウン、まあ……。噂通り、というか……、本当に唐突だったというか……」

「唐突、か」

 ふむ、と一度思い悩むような声を上げ、彼女は篭宮の痕跡を探そうと言った。それもそうだ、もしこれが"湖の赤子”によるもの、もしくは連続失踪事件の一端なのだとしたら、早く見つけなければならない。どちらも消えた人がどうなるのか、明確な情報はないのだから。

「それで、どこを探しますの?この辺りにはあまり何も……、ないように見えますし……。足跡を探すにも、少し時間が」

 戸惑い困ったような顔で浅目がそう呟く。確かにその通りで、篭宮を早急に探さなくてはならないのだが、その為には行方を推測する為の材料が必要である。もしもこれまでの探索行為で何かしらそういったものをすでに見つけていたのならば話は別だっただろうが、現状目的である小屋はおろか、足跡のようなものすら見つかっていない。そんな状態で、しかも時刻はすでに夜になっている。これからの調査は無謀が過ぎた。

 そこまで思い至って、胡古はおやと一つ思い出す。そういえば篭宮が霧に呑まれる前、朽ノ屋も何かを話したそうにしていた。あの時は篭宮へ発言権を譲った為に聞く事はなかったのだが、彼は一体何を話したかったのだろうか。近くであらぬ方を見ている彼へ向き直り、胡古は口を開く。

「……そういえば、さっき……、何か、話したそうにしてた……よね……」

「ええ?ああ……、……ああ、そうだよ、そうそうそう!」

 声を掛けられた直後は気が緩んでいたのか気が抜けていたのか力なく適当な返事をしてきたのだが、彼はすぐに何かを思い出したらしい。一気に声の大きさとテンションが上がり、胡古は思わず片耳を塞いだ。

 そんな彼女の様子は気にもならないようで、彼はこっちに来てほしいと少し移動する。三人が彼の後について来たのを見て、彼は地面へしゃがみ込む。何かを確認した後よしよし消えてないなと言って、足元近くの草の根を押さえつけ、露出した地面を指し示した。

「ここ、霧が晴れる前にさー、あったんだよね。足跡。見える?」

 目を凝らせば確かにそこには人の足跡があった。くっきりと残っている様子から見るに、最近のものだろうと予測できる。大きさは成人男性ほどで、少し目を走らせれば同じものが先にもあることがわかった。

「これは……、かなり新しいな。あまり時間が経っていないように見える」

「でしょ?多分今日だ。で、これが先に続いてるでしょ、だからそこに入ればいいんだよ」

 彼はそう言って立ち上がり、ある一点を指さすが、そこには何もないように見える。遊佐も浅目も困惑した表情で朽ノ屋とその指の先を見つめ、胡古の感覚が間違っていないことを伝えてきた。

 三人の様子が自分と違う事に流石に気付いたのだろう。彼は不可解そうに眉を顰めると、だからぁ、と吐き捨てるように前置きした。その態度に遊佐が一瞬不愉快そうに片眉を上げ、浅目の目がつうと細くなる。二人とも気が強いなと考えていると、彼はこう言い放った。

「そこにあるでしょ。小屋。荒れ具合からして多分さっき言ってた作業小屋だよ」

 つーか前々からずっとあったし、篭宮クンも何回か来てるはずなのに忘れて気付いてないし、なんなの?そう不機嫌そうに並べ立てた朽ノ屋は、懐中電灯でその先を改めて照らし出す。まさかそんなはずは、と浅目が食って掛かろうとしたその瞬間、三人は驚愕に息を呑むことになった。

 ゆら、と何もなかった場所が一瞬蜃気楼のように揺らめいたかと思うと、次の瞬間まるで最初からそこにあったかのようにそれはぽつねんと建っていた。朽ちて腐り落ちかけた屋根、蔦に侵食され腐敗と雨風により傷んだ外壁、蝶番が外れたか何かしたのか中途半端に開いてぶらつく扉。いかにも廃屋、打ち捨てられた小屋、そんなものが。

 いつの間に、と驚く浅目の声がする。横目で確認すれば彼女は目を見開き口元に手を当てていて、遊佐は何か難しく、険しそうな顔でそれを見ていた。朽ノ屋はというとぱちくりと目を瞬かせた後、今更気付いたわけ?と奇妙そうにしている。彼にはずっと見えていたのだろうが、それもそれでおかしな話であった。何故なら確かにあの小屋はこの辺りに来ていたら見えていなければならない位置に建っていて、だというのに朽ノ屋以外には認識すらされていなかった。明らかに異常で、しかしどちらがおかしかったのか、判別のしようがなかった。何せ何かをきっかけに今、全員に見えているのだから。

「朽ノ屋さんは……、あれがあると、知っていたのか?」

 疑念の孕んだ遊佐の声に、朽ノ屋は不愉快そうな顔になった。誰だって自身に疑いが向けば不快になるだろうが、今回の場合向けられると思っていなかったのに向けられたから、という事だろう。とはいえ口がへの字になっている程度なので、そこまで気分を害してはいないのかもしれない。

「そりゃ最近ほんとに来れてなかったけどね、それでも一か月ちょい程度だよ?あんなある意味目立つもん忘れるわけも見逃すわけもないじゃんね」

 子供のような口ぶりに、思わず胡古は空笑いを返した。ちらと横目で軽く睨まれ、ぐりと胡古は首ごと視線を逸らす。視線の先では遊佐が顎に手をやってだからか、と小さく呟き、浅目はそれでも信じられない、という目で小屋の方を見ている。話を逸らすには自分で何とかするしかなさそうだった。

「……それで、どうする?」

 朽ノ屋から目を逸らしつつ、胡古はそう切り出した。胡古らからしたら突如現れた小屋と、その方へ続いている足跡。行かない理由は殆どなく、しかしすでに時刻は夜を回っている。危険がある可能性はとても高く、もう後は自分たちではなく警察に通報して全て任せるという手もあった。それまでの事を考えると、警察が小屋を見つけられるかどうかが問題になるが。

「行こう。せめて本当に人がいるのかだけでも確認しなければ」

 凛とした瞳で遊佐がそう言った。確かにその通りで、胡古も朽ノ屋もあの小屋に人が入っていった瞬間を見たわけではない。ただそちらに続いている足跡を見つけているというだけだ。幾らなんでもそれだけで対応をしてくれるとは思えない。もし警察に任せるにしても、もう少し確固たる証拠を持っていなければならないだろう。

 彼女の一声に場の全員が頷いた。朽ノ屋が少々退屈そうな顔はしているものの、恐らく最後まで付き合ってはくれるだろう。何か起きた時すぐに通報できるよう浅目がスマフォを設定し、朽ノ屋が懐中電灯を浅目へ渡す。浅目がそれをしっかりと握り締めたことを確認し、遊佐が先頭を歩き出した。

 ざくざくと草を踏みしめる音が小さく響く暗闇の中、三人はぼろぼろに荒れ朽ちた廃屋へと足を運んでいく。半端に開いている壊れた扉が、まるで三人を呑み込んで行くかのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る