1-4.後悔先に立たず
は、と不意に瞼を眩しい程白く染められて意識が戻る。ぱちぱちと瞬かせた目に映るのは寝室の天井で、そういえば帰宅してから流れるように食事と入浴を済ませ、気絶するように眠ったのだったと思い出した。徹夜明け二日目の肉体労働は流石に無謀が過ぎたわけである。
時計を見れば思っていたより早い時間で、今日の約束の時間までに調べ物が出来るだろうといった具合だった。ぼさぼさの髪をかき回しながら起き上がり、朝の支度を整える為に洗面所へと向かう。自分の状態を確認する為にほんの一瞬だけ鏡を見て、思ったよりは寝癖も顔色も酷くはないようだったから、今日は軽く整えるだけでいいだろうと判断した。それから水で軽く洗顔をし、髪を緩く括って、トイレを済ませてしまう。その頃には眠気も大分遠くへ行っていた。
台所へ向かい、薬缶に水を汲んで火にかける。戸棚からインスタントスープの箱を取り出して開封し、一食分を手に取った。それをコップに開け、お湯が沸くまでの間ニュースでも見ようとテレビを点けようとするも、主電源ごと落としていたのかリモコンでは点かない。仕方なしにテレビ本体の近くまで移動して電源ボタンを押せば、一拍ほどの時間を置いて液晶画面に色が乗る。スピーカーから発せられる音声は女性のもので、一言一言を区切るような物言いは聞きやすくはあるものの、多少圧を感じさせるものだった。
ぼんやりと聞き流していると世平市の名が告げられ、薬缶を見ていたその視線がテレビへと向けられる。太字のテロップに書かれているのは高校の名と本題で、どうやら昨日の深夜、高校の校庭で自殺と思われる遺体が発見されたそうだった。今朝方身元がはっきりしたようで、現在自殺の原因を調査中との事である。
はあ、と彼女は小さく声を零した。同時に薬缶の笛がけたたましく鳴り始め、コンロの火を消す。熱くなっている取っ手を持ってコップにお湯を注ぐと、コンソメの香ばしい匂いが漂い始めた。残りのお湯をポットへと移してスープをかき混ぜながら、朝からあんなニュースは気が滅入るとテレビを消す。
スープの入ったコップを持って寝室まで移動し、パソコンデスクの上に乗せる。椅子に座ってパソコンの電源を入れ、起動後にパスワードを打ち込んでホーム画面へと移した。ちまちまとスープを飲みつつ検索エンジンを開き、九亀湖を検索ワードで打ち込む。
昨日気付いたが、胡古は湖自体の知識があまりない。それこそ有名な話程度なら知っているが、細々と起きていた事件についてはさっぱりだ。胡古が数年前にこちらに移ってきた為仕方のないことではあるが、今現在湖の噂話を調査する身として、比較や擦り合わせの為の類似項目を全く知らないままというのは確実によくない。出てくるたびに聞いたり調べたりでは時間も無駄だ。一先ずは昨日の老女が話していた事件について調べ、そこから広げていく形を取っていこうと決め、検索結果を順繰りに眺め始める。
検索ワードを打ち込めば予測ワードがかなり出てくるほど、この湖について調べている人は多いらしい。目星をつけた記事や論文を読んでは検索ワードを少し変え、付け足し、手元に置いたメモ帳に箇条書きする。それを繰り返していけば中々に多くの情報が得られた、と感じられるほどに時間が過ぎていた。画面端の時刻を確認すれば正午を回っており、昼食を摂って外出の準備を始めてもいい頃合だった。
パソコンの電源を落とし、メモとコップを持って再び台所へ。メモをテーブルに置いてコップを洗い、昼は何を食べようかと戸棚と冷蔵庫を見る。一番に目に入ったインスタントラーメンでいいかと五袋入りのそれを開封した。面倒臭いので器に盛らずに直で食べてしまおうと小型のフライパンに水を張り、火にかけて沸騰させる。麺を放り込んで適当に解しながら数分茹で、液体スープをそのまま投入した。かき混ぜながらフライパンをテーブルまで持って行き、麺を啜りながらメモを読み返す。礼儀作法にうるさい人がいれば彼女を強く叱るのだろうが、生憎一人暮らし故にそんな事は起こらなかった。
調べたのは九亀湖と今回の事件と噂に類似したものについてだ。調べてみるとかなり目立ち、かつ常に囁かれている噂が一つあり、またそれに関連していると思われる事件が出てきた。湖に怪物がいるという噂の根本は恐らくこれだろうと容易に想像がつくもので、他の怪物関連の噂はこれを基盤に出来上がっていったのだろうと推測できる。
その噂は幾つかあるが、最初の一つが伝言ゲームの理論で変形しただけだと考えられるため、一つと数えて問題ないだろう。最初に引っかかったのは"九亀湖で黄色い目玉の怪物について行けば、会いたい人と再会できる”というものだ。これは大体十二年前に広く囁かれていたもので、しかし実際に会いたい人に会えたという報告は見かけない。黄色い目玉、のようなものを見たという報告は少ないものの存在し、しかし猫か何かだろうと一蹴されている。
もう少し遡ると次は"黄色い目玉の怪物を見つけたら、死んだ人に会うことが出来る”で、これは三十年ほど前のものである。更に遡ると"黄色い目玉に導かれると、死者の国に行くことが出来る”———これは四十年ほど前に囁かれたらしい———で、それ以上は流石に困難であったが、つまり”黄色い目玉”がキーになっている事は確かであった。目玉単体から怪物へと変化したのは単にインパクトの問題だろうと考えられる。実際問題、怪物らしきものを見た、という話は全く出てこなかった。
会いたい人に会う事が出来るというのは、大抵会いたい人というのは故人である場合が少なくないからだろう。死者の国に行くがイコールで死んだ人に会えると解釈され、死んだ人に会えるが今度は受け入れやすいよう会いたい人に会えるに変わったと考えられる。幾つか流し読みした論文にも似たような事が書かれており、その論文の中には”黄色い目玉の怪物に会ったら、連れていかれる前に逃げなければならない。捕まったが最後、それの仲間にされるからだ”という話を載せているものもあった。しかし並んでいた参考文献からして図書館に置いてあるかどうか怪しいほど古いものであったので、これについては確認が困難である事から、心の隅に置いておくくらいでいいだろう。
そしてもう一つ。直近で類似した噂についてだ。これは少し調べればすぐに該当の記事や掲示板が出てくるくらいには有名らしかった。簡潔にまとめるならば、”十二年前、深夜帯に夢遊病のような症状の人々が九亀湖にやって来て、入水しようとしていた”というものだ。一度目の入水は話を聞きつけた警察や近隣住民———この時ばかりはいくら忌避していると言っても流石に協力せざるを得なかったようだ———によって阻止されたものの、入水未遂を犯した人々は数日以内に失踪し、見つかる事が無かったという。これについては検索ワードを並べただけで検索予測にワードが並び立つほどで、特にオカルト界隈ではかなり有名なものなのだと判明した。
失踪の原因が本当に夢遊病なのかと言われれば難しく、失踪者の中で夢遊病と診断されたものはほぼいなかったそうだ。ただ共通項もあり、失踪者から話を聞く事の出来た人は皆口を揃えて、”湖に呼ばれる夢を、絶対に行かなくてはならないという強制力の伴った夢を見たと言っていた”と証言したという。そしてこれと同じ事が大体十年から二十年ほどの周期で起きていて、オカルト界隈では”現代まで生き残った神もしくは怪異による神隠し”とも言われているようだった。多々共通する点がある為、昨日老女が語った事件と同じものだろう。
そして一番に胡古の目を捉えたのは、十二年前の事件、その最後の失踪者の名である。恐らくその事件の最後の失踪者と思われるその人物の名は
……胡古はこれを読んだ時、篭宮の怯え様を思い出した。顔色の変化を悟られない為の化粧をしている癖に、あの時はそれすら少し無意味なほど青褪め、明らかに何か思い入れ———しかも嫌な方にだ———がある事を示していた。次いで彼が、少なくとも大学生の時には、湖の噂にやたらと詳しかった事。それらを擦り合わせれば、なんとなくだがこうではないかという予想が嫌でも立つものだ。
これについては後で本人に聞くとして、しかしこの事件と今起きている事件や噂はよく似ているだけで、その実無関係ではないかと胡古は感じ始めていた。何故ならそれらの事件には夢遊病のような症状があったというものの他に、もう一つ特徴的なものがあったからである。
それはフードや帽子を目深にかぶり、肌の露出がほぼ全くなく、手や首と言った箇所すら隠されて、辛うじて口元だけが見えるというほどの、妙に暑苦しい格好をした人物が湖周辺に出没していたというものだ。確実に同じ事件と考えられる十二年前までの事件では、その人物が一度は必ず誰かに目撃されており、季節も気候も問わずその格好であったとされる。篭宮が言っていたようにあの湖では正解の格好なのだろうが、それにしても徹底した服装だ。そも、あの場所は日光の入りがあまり良くないので例えば日差し避けとか、もしくは虫や草木を避ける為とか言われたとて、顔が全く見えないほどに隠す必要もないはずである。つまり単純に考えれば完全な不審人物が幾度か現れているという事だ。
だが今回についてはそんな人物の話など全く上がっていない。何が言いたいかというと、十二年前まで起きていた事件と今回の事件と噂には実は共通点がほぼない、という事だ。失踪、そして湖という部分が少し重なるが、少し詳しく調べてみるとここまで違う情報を掘り出せる。特徴も異なれば詳細も異なり、ちょっとした単語がたまたま重なっているだけの、全く別の事件。全く関係のない別々の事件と噂ではないだろうか、と。だが軽くしか調べていない人からしたら同一性の高いもののように見え、簡単に広まり、まるで事実のようにどんどん膜が貼られていく。そうして混同が進んで行ってしまったのだろう。ありがちな話だ。
そう考えてみれば昨日篭宮と行った調査が覚束なかったのにも納得がいく。九亀湖の噂について詳しい篭宮がこれらの情報を知らないとは考えにくく、知っていたからこそ恐らく上から指示された調査内容に無意味を感じ、それでも調査して記事を書かなければならないから、動きにくくて仕方がないのではないだろうか。調べ尽くしているからこそ日々の進展のなさに焦燥を覚え、普段やらないような不慣れな事に手を伸ばして結果、頓珍漢な事になる。言ってしまえば彼は自棄になっているのだ。個人ではない仕事とは中々に難しいものだと胡古は呑気に考えた。
中身のなくなったフライパンと箸を纏め、シンクで手早く洗う。水切り籠にそれらを置いて時計を見れば、出掛けるには早いが何かをするには足りないといったくらいになっていた。一階全体に軽く掃除機をかけるくらいだったら出来るだろうと思い、掃除用具を仕舞っている物置へと足を運ぶ。掃除機を取り出して紙パックがセットされている事を念の為一度確認し、玄関から順にさくさくと掃除機をかけていった。目立つ埃やゴミがなくなればいいや程度の気持ちで行っているので掃除というよりは掃除機をかけただけなのだが、胡古は一人暮らしであるので問題はない。暇が出来たらもっとちゃんと掃除をしようと脳内で言い訳をしているうちに一階部分はすぐに終わり、二階までの時間はないので掃除機をもとの位置へと戻した。
ばたんと物置の戸を閉じ、寝室へと向かう。軽く身形を整えてから不足しているものはないかと鞄の中身を確認し、手に持った。家の窓の施錠を確認し、靴を履いて玄関を出る。鍵を掛けて家の敷地を出、つい昨日も歩いた道を同じように歩いて駅のバス停へと向かい、昨日と同じバス停のバスへと乗り込んだ。後は発車したバスに揺られ、目を閉じながら合流地点へと辿り着くのを待つのみであった。
何事もなくバスは目的のバス停へと辿り着き、胡古は運賃を支払って降車する。今日の合流地点は昨日浅目と会話をした公園で、運動不足の解消がてら歩いて向かう事にした。スマフォのマップアプリを頼りに、少しゆっくりと住宅街の入り組んだ道を進んでいく。他人の視線を気にすることもないほどに人通りは少なく、時折擦れ違う人も二人以上の数で固まっていた。この辺りの人々はやはりというか当然というか、外出の頻度を下げるなり複数人行動をするなりしているようである。
それでも癖で前髪を撫でつけながらそこそこ長いこと歩き、目的の公園へと入っていく。ここもやはり閑散としたもので、自販機で昨日と同じペットボトルの水を購入してベンチに座った。ぱきりと蓋を開けてちまちまと口にしながら篭宮を待つ。時刻は待ち合わせの十分前を示しており、あともう五分もすれば来るだろうと予想した。
ベンチに座ってスマフォを眺めながら五分と少し、胡古の足元に影がかかる。顔を上げると同時にお待たせしました、と声が掛けられた。声の主、篭宮は胡古がスマフォを仕舞って立ち上がるのを待ってから、今日の調査について話し出す。
「取り敢えず霧が出たって話のある場所をざっとリストアップしてきたんで、そこ回っていきましょうか。結構発生地点がダブってるぽいんで、運が良ければ見られるかもしれないっすね!」
「……」
昨日と打って変わって楽しげに言い放たれた言葉に、胡古は目を細めて呆れ返った。霧を見かけたとして、噂通りであれば成人は連れて行かれてしまう可能性が高いのだ。そうなれば調査が進展するとは言え犠牲者が一人増える事になるし、そもそも霧に攫われたかもしれない人がどこに行ったのか一切わかっていないのだ。そんな意味を込めた無言に篭宮は段々と圧され、すんませんと零した。
しかし霧については遅かれ早かれ調べる必要が出るだろう。調査するには少し早いかもしれないが、化け物もしくは化け物の正体を無為に探したり、湖や失踪事件についてぶらぶらと聞き回った結果同じ話ばかりになったりするより余程いいのかもしれない。
互いに顔を見合わせ———と言っても胡古は彼の目を見てはいないのだが———、無言の時間が少し過ぎた。車の走行音が一度耳を掠め、聴覚を刺激されたからかそれとも沈黙に耐えられなくなったのか、篭宮がしどろもどろと口を開く。
「……あー、えーっと、そう!それともう一つありまして、気象情報も見てきたんすよ!霧だって予報が出るし、突然霧が発生したら記録されたりしてないかなーと思いまして。そしたらどうだったと思います?霧が出たって日、ぜーんぶ予報も記録もないんすよ。つまり観測上は霧なんて発生してないって事です。変だと思いません?」
少々早口に語られた内容は中々に不可思議かつ興味を引かれるものであった。気象情報にも記録がないのならば、確かに彼の言う通り霧など発生していないという事になる。昨日聞いた話では幻覚だと言っている人もいるという事であったし、実は霧なんて一度も発生していないのかもしれない。
だが現実だと言っている人も同じくらいいるらしい事から、やはりこれだけではどちらが真実かどうかはっきりとはしない。本当に怪奇現象の一部であるのなら観測できなかったとしてもおかしくはなく、噂にある諸々にも納得がいく。ただどちらにせよ霧をこの目で確認しない限り、やはり何とも言えない事ではあるから、彼の言う通り変な話だと一度置いておく方がいいだろう。
話し終えた彼は胡古の反応を待つも、彼女としては何も言う事はない。辛うじて軽く返事をしたものの、そのせいかこの話題にはあまり興味がないと思われたらしかった。少しだけぶすくれた表情になりながらも、話題を変えようと彼は彼女にこう問いかける。
「そいや先輩はなんか調べたんすか?」
「……、まあ、ウン。君が、もう知ってるかもしれない事……だけど」
ふうん、と篭宮は気のない返事をし、鞄の中から一枚の紙を取り出した。それはカラーコピーした湖近隣の地図で、赤いペンによって幾つか点と文字が書き込まれている。書き込まれた文字は月日と時間で、話の流れからするにこれが彼の纏めた霧の発生目撃地点なのだろうと察することが出来た。点の数はざっと見ても十はあり、失踪事件と関連付けるとすれば嘘の証言もかなり含まれていそうである。もしくは誰にも気付かれていない失踪者がいる可能性だろうか。
「わかるかもですか、この赤丸が発生目撃の地点ですね。失踪したと思われる日と重なってるとこが少ないのと、事件より結構多いのが気になるとこっすよねえ」
「……確かに、そう、だね。所謂釣りとか……或いは本当に無関係とか……色々、ありそう」
ですよねえ、と相槌が打たれた。頭の後ろで手を組む篭宮はしかしそれにはあまり興味がないような素振りであった。彼の目的は"湖の赤子”の噂を追いかける事で、連続失踪事件と本当に関係があるかどうかの考察は後回しでもいいからだろう。関係していたらしていたで記事に盛り込み、売上の向上を狙うくらいはするだろうが。
「ま、それは置いといて、今から回れるだけ回っていきましょ。時間帯はあんま関係ないみたいですし」
とんとんと地図を指先で叩き、彼はそれを胡古に手渡した。くるりと踵を返して歩き出したその背中を追いかけ、胡古もその地図を手に歩き出す。ちらともう一度見ればここから一番近いのは少し歩いた先にあるようだった。迷うほどの道でもなし、彼女は静かに後ろを歩いて行く。
少しだけ日差しが眩しいけれど、昨日ほどではない。会話もなく黙々と一歩ほど距離を開けて歩く二人はどこか独特の空気感があった。もしも他に通行人がいたら、今日の二人を無意識に避けていったかもしれない。そんな雰囲気が支配している。
そうと気付いているのかいないのか、二人はそれを保ったまま歩き数分後、目的地へと辿り着く。そこは確かに普段でも人通りがあまりなさそうな、しかし通る人は通るだろうといった家の塀と塀の間にある小道だった。近道や日陰を求める人が良く通りそうな場所で、確かにここなら道が狭く見通しもいいとは言えないので、失踪と関係があるにしろないにしろ、何かが起きてもおかしくはない場所だ。
ここで少し様子を見ましょう、と篭宮は後ろの塀に寄り掛かり、ズボンのポケットに親指を掛ける。胡古はその隣にしゃがみ込みながら、ようやく彼に一つの問いをぶつけた。
「……あの、さ。昨日のお婆さんが言ってた事件と、今回の……、多分、違うやつ、だよね」
「ああ……、もしかしてそれ調べてたんすか?」
上から彼女を見下ろす彼の顔は影が掛かっていて上手く見えないが、声音から笑っているのだろう事は予想できる。昨日の取り乱し具合とは打って変わって穏やかだ。……そも、まずまだ胡古が彼のアウトゾーンに足を踏み込んでいないからなのだろうが。
「俺の考えではありますけど、確実に別件っすねエ。だって色々と条件が違うし……、まずあっちはもー湖になんかいますよって言われたら信じるレベルで直接的に湖が関わってますけど、今回はそうじゃねえし」
そうだね、と小さく返し、胡古は次の言葉を少しだけ喉に詰まらせた。躊躇ったわけではないと、恐らく思う。けれど昨日の様子を見ていると、今から彼女が言う事は、彼にとって突かれたくない部分だとは薄っすらわかる。けれどはっきりさせる為にさっさと聞いてしまった方がいいだろうと、何度か口をもごつかせた。
そんな彼女の様子に篭宮は不思議そうな顔をしたけれども、彼女が言葉を口にするまで急かす事なく待っていた。そういうところが人間性の違い、というものなのだろうか、と頭に浮かんだそれを消し、胡古は一つ、小さな爆弾を落とした。
「それで、さ……、その、十二年前の、事件……。篭宮霙って、君の、……身内?」
瞬間、空気が止まった気がした。こちらを見る篭宮の目は軽く見開かれ、色隠しの色を乗せている唇が、まるでその感情を零すかのように薄く開く。数度戦慄いた後、ぎいと音がしそうなほどに強く結ばれ、口元と目元が引き攣った。それからゆっくりと息を吐きながら目を閉じて俯き、こてんと首を傾ける。
「……ええ、まア……、隠すまでもないっすね。そうです、そいつ……、霙は、俺の兄貴です」
しゃがみ込んでいる胡古の目に映るのは、薄く開いた瞼の下に、諦めきれない執着を色濃く滲みつけた目の、男だった。引き攣っていた口角はいつの間にか自嘲の笑みを描き、ポケットに引っ掛けていた手は肘を抱え込んで、高いその背も丸めていた。それはまるで自分自身を守るようで、自分から他人を拒絶するような空気を醸し出している。
「あの時十九で大学生だったから……、五歳離れてる兄貴なんすよ。先輩の言う通り、あの事件で……いなくなって。今も見つかってません」
その声色は懺悔で出来ていた。例の事件で失踪してしまったのなら、それは篭宮のせいでもなんでもないはずである。だというのに懺悔で固められたその声色は、間違いなく彼が自分自身を苛み、責め立て、精神的自傷を行っている事を暗に示していた。
「今も、昔も、ずっと探してます。それだけです。……ま、それがあったから今起きてるのと前置きたのは全然違うってすぐ切ったんすけどねえ」
ぱち、と瞬きをして一度言葉を切った後、彼はスイッチを切り替えたかのようにいつも通りへと戻り、言葉を続けた。無理をしているといった様子はなく、たった一瞬で本当に普段通りの表情や立ち居振る舞いに戻っており、何年もかけて心の中で何かそういう、切り替えの方法を身に着けたのだろうと考えさせられる。それがいい事なのか、良くない事なのか、胡古にはわからないが。
「前々から湖について色々と調べてたのは、兄貴の行方が少しでもわかるかも、って思ったからっすね。オカルトやらホラーやらも手を出してたのは、言わなくても分かると思いますが」
「ン。……だから、湖直接調べたり……その癖前の事件、自分からは、話さなかった……んだね」
そうです、関係ありませんからね、と言いながら彼は頷いた。それから大分折り曲がっていた姿勢を正し、ぐうと伸ばす。身体の側面も伸ばそうと腕を軽く引っ張り、若干情けない声が漏れ出した。それを少しだけ眺めてから彼女は視線を目の前の小道へ戻す。この数分で変わったところなどあるわけもなく、胡古は少しだけ頭ごと視線を落とした。
更に暫く他愛のない話をぽつぽつとしながら小道を張ったものの、霧どころか何か変化が起きる様子も、誰かが通る事もなかった。これ以上ここにいても何かが起きるより先に二人の集中力が切れてしまうだろうという事で、次の場所に移動しようと地図を取り出す。覗き込んでくる篭宮の影で程良く反射が抑えられたその地図を見、現在地から近い場所を幾つか選んだ。他の場所との回り方も考えつつ、リストアップされた発生地点をより効率的に巡回する為の始点となる場所を探し、ここからそこへのルートを考える。
その間にも何かが起きる、ということはなく、その事に篭宮が小さく不満を零した。調査対象を考えるとその言葉は不謹慎にも思えるが、彼はこれを飯の種にしているのだ。何かが起きてそれを証拠と共に記事にした方が話題性もより生まれ、そうすれば比例して収入も増える。だから記者の彼としては当然何か起きてほしいというわけだ。ただし、記者ではない篭宮雪が本当はどう思っているのかどうかはわからないが。
巡回ルートを決め終えた二人は、最後にもう一度小道の様子を窺った。そこにはやはり何も起きておらず、立ち上がったり身体を伸ばしたりしてからその場を離れて行く。彼等の背後で一人、男が小道に入っていった。
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