1-3.心的外傷

 がごん、と取り出し口にペットボトルが転がってくる。三五〇mlの小さめなそれを掴んで取り出して、胡古は固く閉まったキャップを回した。隣では篭宮が缶珈琲を選んだところで、それを横目にペットボトルの水を一気に煽る。乾いた喉に冷たい水が滲み込んでいく感触が心地よく、彼女は僅かばかり頬を緩めた。

 あれから二人は近場の公園へ移動し、数人ほどいた主婦や老人らに一通り話を聞き終えたところだった。向かう途中胡古が心に決めたように、声を掛けて会話を広げていくのは篭宮の役目で、胡古はというと時折気になった部分を復唱する程度の事しかしていない。

 それでも多少なりとも話を聞くことが出来たのは、何と言っても篭宮の話術と顔の良さのお陰であった。多少胡散臭い職業に就いているとはいえ、非常に整った顔立ちの彼が明るく真剣に、かつ個人情報などには興味がない事を示しながら話しかければ、大抵の人間は呆れながらも口を割ってくれる。その為胡古が殆ど何もしてなくても篭宮一人で聞き込んでは別れ、聞き込んでは別れを繰り返し、不足していた分の情報をある程度補完することが出来た。今は給水休憩である。

 ちまちまと残りの水を飲みながら、聞く事の出来た情報について考える。一つは"湖の赤子"の噂に関連する事だ。ここ一か月ほど、つまり連続失踪事件や最初の噂が流れ始めた頃から、この近辺の住人達が実際遭遇している事らしい。それは人通りの少ない小道や人気の少ない時間帯に突然濃霧が発生し、ごく短時間で収まるというものだ。霧の予報は暫く出ていないし、その濃霧も本当に一瞬と言っていい時間で消えてしまう為、遭遇しているとは言っても幻覚や眩暈ではないかという意見も多く出ているとか。だが一部では一本道でその濃霧に出くわし、霧が晴れたら目の前を歩いていた人がいなくなっていた、という話も出ていて、この住宅街の人々の間では暫くの間霧にはいつも以上に気を付けよう、と呼びかけ合っているらしい。

 もう一つは連続失踪事件そのものに関連したものだった。これは噂と事件が絡んでいるのではないかと考えている主婦がうっかり零した内容で、対して掘り下げはしていない。しかしこの事件と噂は湖近くの住人にとってかなり迷惑なものなのだろう。その主婦の口調も大分疲弊と不満が詰まっていたものであったし、いつ自分や家族がという点で気が気でないのだろうとも感じ取れた。

 その内容は至極単純なもので、現在この辺りでは集団行動や遅くまでの外出を避けることを呼びかけられているそうだった。今は成人だけが被害の列に名を連ねているが、いつ未成年がそこに並ぶかわからない。その為小学校から高校には集団下校を推奨し、そのせいで夏も近いというのに部活動なども碌に活動時間を取れなくなっている。大会なども近付いてきているのにこれじゃあ、とかなり不満が積もってきているようで、話を聞いた主婦もそんな子供の苛立ちに当てられてしまっていたのだろう。事件そのものとは別の方面で少々まずい事になっているのがよくわかった。

 あまり当たりの情報とは言えないな、と彼女は仮に結論付ける。もう少し噂の真相に近付けそうな情報が欲しかったのだが、それはかなり贅沢だったかもしれない。そもそも言い換えてしまえばまだ一か月しか経過しておらず、寧ろすでに奇怪な噂がある程度あちこちで流れている事自体が少し早すぎる。もしかしたら時期尚早だったのかもしれない、とペットボトルをゴミ箱に捨てながら思った。

「先輩」

 胡古よりも先に飲み終え、缶を捨てて待っていた篭宮が呼びかけてきた。その長い脚で二、三歩距離を詰めればあっという間に胡古のすぐ隣で、彼女はゆるりとまた彼の顔を見上げた。

「もう少しだけ聞き込んでみようと思うんすけど、先輩どうします?」

「……」

 正直に言えば悩みどころであった。突き回して肉を解すには新しすぎて、野次馬をするには少し面倒な事件が絡みかける。けれどもまだ噂そのものに辿り着けていないし、何より胡古はこれを調べ始めたばかりであった。もっと古くて大袈裟な噂であれば一日でそれなりの情報が得られるだろうが、今回は真逆のものである。悩みどころではあるが、まだ手を引くには早すぎるような予感がした。

「……他に、何を聞くの?」

「九亀湖そのもの、っすかね……。噂そのものとかより、噂のきっかけになりそうなモンが何かほかにあるのかもしれないし」

 彼はぽりぽりと頬を掻いた。これまでに集まった情報から、少し取っ掛かりが少なすぎると感じたのだろう。確かに湖そのものについてはまだ手を付けていない、が、胡古の知る篭宮は、九亀湖の噂話に関して非常に耳聡かったはずだ。そんな彼が今更他の人に聞くことがあるのだろうか、と疑問に思い、思ったままを彼にぶつけた。

 すると彼は困ったように笑って、嬉しそうな悔しそうな声音でこう返した。

「いやあ、まあ、そうですけど。大学時代までならともかく、今はそこまで追っつけないんすよね。忙しいし、他に調べたり書いたりすることいっぱいなんで……」

 それもそうか、と彼女は目を瞬かせながら頷いた。胡古はある程度自由に自分の好きな事を書き連ねる仕事に就いているが、篭宮はフリーではない。小さいとはいえきちんとした会社に所属しているし、自分が気になった事だけを調べて書いていくわけにもいかない。ついついこれまでの耳聡さにイメージが引っ張られていたが、そういえばすでに社会人になってから数年経過しているのだった。

 少し失礼な事を言ったと謝れば、別に気にする事ではないと彼は軽やかに笑う。それよりも胡古はまだ聞き込みについてくるのか、と問われ、彼女は一瞬沈黙した後再び頷いた。それに彼は嬉しそうに心細かったのだと嘯いて、話に応じてくれそうな人を探し始める。肩を竦めてから彼女も適当に周囲を見渡して、気の良さそうな人を探し始めたのだった。


 その人物はすぐに見つかって、篭宮が愛想のよい笑みを浮かべながら声を掛ける。初老に差し掛かっているだろうその老女は、ゆっくりと振り返ってにこやかに挨拶を口にした。二人もそれに返しながら、篭宮が軽く雑談をふる。それに老女が乗っかって長話の雰囲気を作った後、篭宮が口火を切った。

「実はおば様、俺たちちょっと聞きたいことがあって。そこに湖あるじゃないですか。上の人に頼まれてそこの記事書かなくっちゃならなくって、なんか目立つお話とか知ってたりしません?」

 このことに関してあまり気乗りはしていない、という表情と口調で彼はそう切りかかる。切り出した瞬間こそ嫌悪の色を出しかけた彼女は、しかし篭宮の作ったそれにあっさりと誤魔化されてあらまあ、と声を上げた。そこに乗っているのは同情の音で、大変なのねえと、彼女は自分も気乗りしないがといった声音で話し始める。

「でも、どうかしら。わたしもそんなに詳しいわけじゃないし、何かあったかしらねえ……」

 頬に手を当てて困り果てた顔になりながら、老女はすぐにああ、と言った。思い当たるものがあったようで、だが少し悲しげな表情になる。二人は顔を見合わせるが、老女は気にした様子もなく語りだした。

「何年前だったかしらねえ。確か、十年とちょっと前だったかしら……。湖でね、事件があったのよ。真夜中に何故か人が湖にやってきて、湖の中に入ろうとするっていう。その時は警察がすぐに対応して一時期湖の周辺は封鎖みたいな状態になったのだけど、それでも止められなくってねえ……。しかも一回湖に来たらしい人は、数日以内にいなくなっちゃって、もう大騒ぎよ。その人たちは今も見つかってないし、もう捜索も打ち切ったんじゃないかしら。しかもそれ以前にもこの事件って起きてて、なんだか周期的に起きてるような気もするから、いっそのこと埋め立てちゃえばいいのにねえ」

「周期的に?」

「そうよお。どれくらいだったかはわかんないけど、一定の年数で起きるのよねえ。対応は確か、その時々で違うけど」

 そうなんですか、と思わず口を挟んでしまった胡古が相槌を打った。そこで相方に一切の反応がない事に気が付き、その顔を見上げる。

 彼は僅かに青褪めていた。表情こそ取り繕っているし、元々していた化粧のお陰でかなりわかりにくいが、彼の顔から確かに血の気が引いていた。それに驚いて一瞬硬直し、その肩が微かに震えているのを見て原因を探ろうと視線を動かす。震えの原因は拳を固く握りしめた力の強さのせいで、彼が何かに強く感情を揺さぶられたとはっきりわかる。

 まずい。そう感じて胡古が話を切り上げようとしたところで、小さく呼吸を整える気配がした。当然それは篭宮のもので、彼は呼吸と共に表情や握られた拳も整えると、にへらとうまいこと笑いながら続きを促す。

「……そういや、そんな事も、ありましたねえ。あの時は確か、いっぱい人がいなくなって、だから結構な騒ぎになって……」

「そうそう、そうだったのよ。いつの間にやら収まって、それ以来ずーっと起きてなかったけど……。もしかしたら今起きてる事件もあの時の事件の続きみたいな感じなのかしら?」

「まあ、そんな可能性がありましたの?」

 驚愕と懐疑。突如そんな色の声が飛び込んできた。それは二人の真後ろ、老女の前から飛んできたもので、三人はそれぞれその方へと視線をやる。

 あ、と胡古が思わず声を上げる。赤みの強い茶髪、垂れ目で小ぶりな唇、口元に当てられた手、全体的に綺麗に美しく整った顔立ち。そこにいたのはつい昨日の夜、胡古が少しだけ話を交わした女性、浅目飾であった。彼女は三人の視線が集まったとわかると、手を下ろして身体の前面で揃える。きりりと綺麗なお辞儀をした後、こつこつと高らかに歩み寄ってきた。

「ところで突然割って入ってしまって申し訳ありませんけれど、わたくし、そのお話に興味がありますの。以前にもこの付近で似たような事件が起きて未解決って、本当でして?」

 ずい、と歩み寄るその勢いのままに彼女は老女に問いを投げかける。口調自体はやはり聞きやすく、ゆるりとしていたが、込められた感情の勢いまでは消せていなかった。老女の方もそれを感じ取ったのか、少し呆気にとられるものの、浅目の言葉にきちんと返していく。

「ええ、そうなのよ。結構な騒ぎでねえ、なんせ人数が多かったから……。一人も見つかっていないし、突然失踪が止まっちゃったから、みいんな驚いてね。ここらでは湖の神様がお目当てを見つけたんじゃあないかっていう人もおるのよ」

「まあ……。神隠しでしたの?」

「さあねえ。そこまでは……」

 そんな会話をしている二人を他所に、胡古は篭宮の背を軽く叩いた。彼はえほ、と少し噎せて呼吸を整える。そのまま深呼吸をして、彼の呼吸と顔色が戻ってきた頃、いつの間にか老女は背を向けていて、浅目が手を振って見送っているところだった。彼女は老女の背が少し遠くなってから二人の方へと近寄り、篭宮と胡古を交互に見やる。どう見てもタイプの違う二人が一緒にいる事に疑問を持っているのだろう。だがお互いどう声を掛けたらいいのか迷い、一瞬静寂が訪れる。

 それを破ったのは浅目であった。彼女は胡古に昨日ぶりですわね、と一礼し、篭宮の方へと目線をやる。上から下へと彼をまじまじと観察し、首をかなり持ち上げて彼と目を合わせようとした。篭宮もそれに気づいたようで、こちらは膝を軽く曲げ、かなり首を下げて浅目の負担を減らそうとする。身長差が大き過ぎるのもやはりお互いに困るものだなあ、と胡古は呑気に思考した。

「貴方、随分と顔色が悪かったようですけれど、もう平気ですの?」

「ああ、まあ、ちょっと驚いただけだしな。平気」

 それは良かった、と僅かに安堵した様子はあるものの、大して表情を動かさずに彼女は続けた。会話の取っ掛かりに使っただけなのだろうが、もしかしたら篭宮の顔色の悪さを見てさり気なく助けようとしてくれたのかもしれない。浅目の事はよく知らないが、昨夜受けた印象からそこそこのお人よしであるのは間違いなさそうであった。

 浅目はそれから、少しだけお話をしていきませんかとすぐそこの公園へ足を踏み入れる。有無を言わせない雰囲気に二人は自然と足を動かし、彼女に続いてまた公園へと戻った。先程までいた道は確かにこれから交通量が増えるだろうと考えると、話し込むには他の人々に迷惑である。

 広くも狭くもない公園の端まで歩き、三人は改めて向き直る。浅目はベンチに座り、篭宮はその横にしゃがみ込む。自分はどうしようかと胡古は悩んだが、二人の視線に促され、一人分の距離を空けて浅目の隣に座った。

「先も言いましたが、貴女は昨日ぶりですわね。こちらの方は?」

「……後輩……?」

 疑問符の付いたその返事に、篭宮がわあわあと何かを言っているが無視をした。これ以上適切な関係の名称が思いつかないというのもあるが、先輩後輩というにもすでに学業から離れてしまっている。難しいなあ、と内心独り言ちた。

「それで、アンタは?先輩と知り合いみたいだけど」

「わたくしは昨日の夜、こちらの方とちょっとだけお話しただけですわ。こんなにすぐ会えるなんて驚きましたけれど……」

 くすくすと上品に笑う彼女はやはり綺麗で、胡古は思わずほうと見惚れる。陽が落ち始めた時間帯、微妙な薄暗さが辺りを支配していても、美しい人の美しさというものはぼやけないものだった。それは篭宮にも言える事なのだが、彼はその顔に若干の警戒を残しているせいで、今はなんとなく近寄り難さを出してしまっている。勿体ないなあと胡古が思っていると、浅目が彼女の方を向いた。驚いて一瞬肩が跳ねると、また笑われる。

「……ごめんなさい、失礼でしたわね。それで、その、わたくし……、貴女の名前が知りたいんですの。昨日今日と折角会えましたし、それに……。いえ、これは後で話しますわ」

「……名前」

「はい。昨日も言ったじゃありませんか、また御縁があれば……って」

 そういえば言っていた気がする。一瞬無言になった彼女に、浅目は少しだけ目を細めた。拗ねたようなその顔に小さく謝罪を告げれば、彼女は気にしなくていいというかのように緩く首を振った。先輩そういうとこっすよ、と野次が入り、胡古はするりと彼の方を向く。ぱ、と顔を逸らした篭宮を睨みつけてから、彼女は目が合わないように浅目の顔を見た。

「そう、だね……。私は、胡古……、胡古、綴。あっちは大学時代の後輩の、篭宮雪。少し、調べ物を……してた」

 名乗れば浅目は二人の苗字を噛み締めるように数度繰り返し、嬉しそうに笑った。それからはっとして一度咳払いをし、居住まいを正すともう一度名乗り直す。

「わたくしは浅目飾と言います。先程はお話の途中、勝手に割り込んでしまって、申し訳ありませんわ……。ちょっと気になるお話をされていたものですから、つい。そういうところが良くないといつも言われているのに……」

 少し落ち込んだ様子で彼女は頬に手を当て、目を伏せる。一連の仕草が非常に優雅で、篭宮が口笛を吹いた。それに彼女はゆるりと首を回して彼の方へと顔を向けると、ぎろりと穏やかな目元を歪ませて睨みつける。怖いという感情を置いてきたのだろうか、おお怖、と篭宮はにんまり笑って楽しげであった。見ている分には美男美女のじゃれ合いで済ませられるが、間近で知り合い同士がやっているとなれば話は別で、胡古の中に早く帰りたいという気持ちが強く湧いてくる。しかし話が終わるまでは帰れまいと、胡古は遠い目になりながら話を続けるよう促した。

 あら、ごめんなさい、と素直に謝りつつ、浅目は篭宮から視線を外す。当の彼は立てた膝の上に頬杖を突き、彼女の話を待っていた。

「湖のお話をしていたでしょう?わたくしの知人がこの付近に住んでいまして、つい最近失踪してしまいまして……。それで、自分でも出来る範囲で探そうと思って、色んな人に聞いて回っていましたの」

 この方です、と彼女は鞄の中から一枚紙を取り出す。それは胡古が昨夜見た貼り紙と同じもので、胡古が受け取らない様子を見て篭宮が受け取った。ざっと彼が流し呼んでいる間にも話は進んでいく。

「そうしたら以前にも同じような事件が起きたとかで、気になって気になって!わたくし、この市にずっと住んでいますけれど、そんな話は聞いた事が無くて……。何年前だったのかしら」

「十数年前だな。見たとこ、アンタが覚えてなくても仕方ないと思うケド」

「ああ……、それなら確かに、覚えていないかも……。わたくしまだ小学校の低学年じゃありませんか」

 話している間にも時間は流れていく。いつの間にやら空は赤く染まり始めていて、真っ黒い影がぐんぐんとその面積を広げだした。昼間よりも色濃い自分の影を眺めながら、胡古は耳を傾ける。二人の会話は少し脱線していて、話題になった齢の頃に何をしていただとか何があっただとか、そんな事で控えめに盛り上がっている。胡古には大した思い出もなければこの市の出身でもないからそれに乗る事はせず、静かに聞き役に徹した。脇目で見た道路には徐々に車の数が増えていて、もうそんな時間に差し掛かっているのかと時間の流れの速さを実感する。

 少しの間そう言った話が続いて、一周したのか元の話題へと戻っていく。話が戻ってきた時篭宮の顔が一瞬強張ったが、浅目はどうやら気付いていない、もしくは気付いたうえで敢えてスルーしているのだろう。逸らさないよう会話を引っ張っていく。

「……それで、ですね。貴方がたはこの事件に関連することを追っているのでしょう?お願いしたいことがありますの」

 はて、と篭宮と胡古は首を傾げた。この流れで何を頼みたいのだろうか、思っていた戻り方と違う、という二人の顔色を読み取ったのだろう。少しだけ嬉しそうな、勝ち誇ったような笑顔を浮かべると、ベンチから立ち上がった。

「今世間を騒がせている事件……、これについて何か分かったことがありましたら、わたくしに教えてほしいんですの。わたくしの家ではもうこれは警察に任せたからと、頼める状況ではなくって……。でも何もしないままだなんてそんなのわたくし、絶対後悔します。だからお願いします、わたくし、後悔だけはしたくありません!」

 それはとても強い言葉だった。そして勝手すぎる言葉だった。家の協力が仰げないからほぼ見ず知らずの人間に協力を求めるだなんて、普通に考えてあり得ない話である。その言葉だけで逆上するような人間だっているだろう。しかも理由が自分が後悔しない為だなんて、あまりにも身勝手すぎる頼みであった。

 しかしそれは逆に彼女がどういう人間かを知らしめるものだった。かなりのお人よしだが、時には誰かの為ではなく自分の感情の為に動く。親切心だけではなく、自己満足だとはっきり言う事が出来る。彼女がそれを自覚しているのかはわからないが、言葉の端々からくっきりと、これは自己満足だと伝えてくるのだ。

 こんな胡古にもわかるのだ。篭宮にはより一層、強くそれを感じ取ることが出来ただろう。現に彼は眩しそうに目を細め、それでいて苦しそうに口元を歪めて笑っていた。自分には到底出来ないことを羨んで、恨み切れない人間の表情だった。

「……、うん、……うん、いい、よ」

 小さく響いたその声に、浅目はぱっと表情を明るくした。それから力強く礼を言い、鞄の中からスマフォと手帳を取り出した。すらすらと何かを二度書いて頁を切り離し、そして千切ると、二人にそれぞれ渡してくる。書かれていたのは電話番号とメールアドレスで、更に彼女はスマフォのSNSも交換しようと提案した。電話は互いに出られない時間があるだろうし、メールは送受信や急いでいるときには不便で、その点様々な手順を簡略化できるSNSも知っておいて使い分けた方がいいだろうとの事だ。その案を拒否する理由もなく、彼らはそれぞれ連絡先を交換する。

 確実な何かがわかったら連絡をするという事で、浅目とは別れる事になった。帰りは大丈夫なのかと問えば、すでに迎えを呼んでいたらしい。問題はなさそうだったので二人は軽く会釈をして公園から去っていく。向かう先は当然ながら駐車場で、キリもいいから今日はここまでにしようとどちらからともなく言ったからであった。着く頃には街灯が点き始める時間帯で、二人は車に乗り込む。

 席に着いた途端、スマフォの着信音が鳴った。胡古は基本的に通知の類は全てバイブ音にしている為、どうやらこれは篭宮の方らしいと辺りをつける。画面を確認した彼は応答をタップすると、何故かスピーカーへと設定した。聞いてもいい話なのだろうが、共通の知り合いはいなかったはずだ、と彼女が考えていると、明るい声が飛び出してくる。

『あ、もしもーし!篭宮クン?元気?僕だよー、朽ノ屋!』

「はい、はい、元気ですよセンセ。ちょっと声量落としてもらえます?うっさいんで」

『えー酷い。ところで調査どれくらいできた?』

 あんまし、と答える彼の傍ら、なるほどこの声が朽ノ屋准教授か、と彼女は一人で頷いていた。記憶を探ればどこか聞いた事があるような気がしなくもない声だが、電話越しの声なんて当てになるようで当てにならない。設定されている電子音声の中からその肉声に近いものが選ばれているというし。

 ただ若者顔負けだろう張りと気力のある声は、気分によってはやかましいかもしれないが、場を明るくさせるタイプのものだった。講義の内容がどんなものかは知らないが、眠気を誘う声ではない。色んな意味で場の雰囲気を払拭させるのだろうというのがこの会話だけでもよくわかる。

「……で、今先輩……、胡古綴さんと一緒にいるんすよ。今はキリがいいから帰るとこです」

「……どうも」

 小さく簡単に挨拶をする。それに対する相手の反応はあまり良いとは言えず、興味もないような声で流された。

『マ、ともかく、手の付けるところがわかんないって感じなんだね?それならやっぱり、過去の記録とか漁った方が良くない?類似例とかから擦り合わせと比較ってのは大事だし』

 僕文学部とかじゃないから知らねーけど、と雑な言葉が聞こえてくる。いやそれ関係ないでしょうと篭宮が反論すれば素直にそれを認め、ともかく痕跡調査や追跡術を碌に知らない人間がそれに手を出しても時間が無駄だときっぱり言い切った。二人ともそれは今日十分に思い知ったので肯定するだけに留める。

 朽ノ屋は相槌だけになった二人にあれやこれやとどこまで調査が進んだのか聞いてくる。篭宮がそれに答えていくが、本当にあまり進んでいない事がよくわかったのだろう、朽ノ屋は大きな溜息を吐いた。その調子じゃあ一生かかっても終わらないんじゃない?と皮肉すら零し、篭宮が喉を詰まらせたような声を出している。胡古はそれをぼんやりと聞き流しながら、この二人が結構な信頼関係を結んでいるのだなあなどと考えていた。

『ていうかさ、篭宮クンも馬鹿じゃないんだから、現地調査とか通り魔的聞き込みとかじゃなくって、失踪者の家族にアポとって取材に行けばいーじゃんね。なんでこんな突拍子もない事してんの?』

 そう言われてみれば確かに、と胡古も思った。昨日から勢いのままに調査を行ってきたが、何故記者という立場と取材という名目を使って取材へと赴かなかったのだろうか。ずっと流されてきてしまったが、徹夜明け二日目とあってまだ頭が回っていないに違いない。

 問われた彼はというと、あー、と言いながらがしがしと頭を掻き、一つ溜息を吐いた。発せられたのは機嫌の悪そうな声で、触れられたくなかったのだろう事が窺える。

「……耳の早さだけが売りのマスコミ共がとっくの昔に嗅ぎ回って、オカルト記者なんてより胡散臭い職の俺は門前払いってとこすよ」

『ああー……、ね』

 不貞腐れたようにも聞こえる声で語られた内容はマスコミらしいもので、これだからとぶつぶつ言う彼もまた同じ職の者なのだが、相当不満を溜め込んでいるようだった。朽ノ屋もそれ以上は何も言わず、篭宮の愚痴を適当に受け流している。それをいいことに彼は暫く積み重なっていたのだろう文句を言い連ね、そのペースが落ち着いた頃、からっと語調を変えて話を変えた。

「あ、そうだセンセ、そういやちょっと変な話かもしんねーんだけど、いいすか?」

『なあにー、面白いことでもホントはあったのー?』

「いや……、そうじゃなくて。湖調べたっつったじゃないですか。そん時なんか変な感じして……、なんか足りないみたいな、そういうのなんすけど」

 口籠りながら伝えられた内容は篭宮がやたらと気にしていた部分で、本人も未だによく分かっていないせいかぱっとしない言葉ばかり連ねられていく。あーだのうーだの呻きながら曖昧に纏められた内容に彼は呆れたような溜息を、スピーカー越しであるというのによく聞こえるほど大きな溜息を吐くと、ただ一言、こう告げた。

『いや分かるわけねーじゃん』

「ですよねー……」

『要は見なきゃ分からんし、見ても分かるか分かんねーってことデショ?その場にいなかった僕にわかるわけないじゃんね。超能力者じゃないんだぜ?無理。……まあ僕も明後日には動けるようになるし、そん時覚えてたらよく確認してみるよ』

 そう言ってもう一つ二つ会話を重ねてから通話は切られた。そこそこ長話をしたせいか辺りはかなり暗くなっており、車に乗るまではあまり目立たなかった街灯が今やその明かりを白く鮮明にしていて、空の色も赤橙からその色を押し込めようとする黒色へと染められ始めている。この駐車場にもぽつぽつと人がやって来ては車に乗り、道路へと出ていっていた。

 ベルトを締める前に軽く背伸びをし、篭宮はスマフォを仕舞い込んだ。発車準備をしながら彼は胡古に声を掛ける。

「先輩、そういや寄っときたいとこあります?どうせだしついでに行きますよ」

「……なら、スーパー……、かな……。今何もなくて……」

 そう呟けば篭宮は了承した後、一瞬硬直してから彼女の方を勢いよく振り向く。胡古はそれを見越してスマフォに視線を向け、彼の叫びをシャットアウトした。

「まさかそれが一番の目的だったとか言わないですよねえ?!ねえ、ちょっと、先輩!」


 きゃんきゃんと喚く篭宮に無言の圧をかけて車を出させ、買い物を済ませて自宅へと戻る。散々あれこれ言いつつも、暗くなった道を女性一人に歩かせるわけにはいかないと彼はそのまま胡古の家まで送ってくれた。これが目的の一つであったとは言え流石に罪悪感を覚えて礼と謝罪を伝えれば、先輩の面倒臭がりは良く知ってるんでと気にした様子もなく笑われる。胡古が荷物をぱっぱと家の玄関に運び入れればすぐに彼は帰宅していき、彼女はようやく肩の力を抜いた。

 家の中に入って鍵を掛ければやっと帰ってきたと、今日の疲労が一気に圧し掛かってくる。靴を脱ぎながら大きく息を吐いて首を回し、購入したものを台所まで持って行って仕分けていった。空っぽだった冷蔵庫と冷凍庫はぎゅうぎゅうとは言わずとも隙間なく物が詰められ、戸棚には乾物や缶チューハイなどが収まる。その他の生活必需品はそれぞれ定位置に仕舞い込み、買い物バッグをクローゼットに押し込んでようやくやるべき事が一通り終わる。クローゼットを閉じてふらふらとベッドへ歩み寄り、ばたりとそこに倒れ込んだ。ぼす、と何とも言えない音が頭の中で擬音語として浮かんでくる。

 このまま寝てしまおうかと思うけれど、それなりに汚れてしまったし、補給をしろと空きっ腹が訴えてくる。空腹状態のまま寝ようとしたところで中々寝付けないのは経験済みで、汚れたまま布団に潜り込むのも気が引けるものだ。うんうんと呻きながらものったりと起き上がり、前髪をかき上げながら立ち上がる。のろのろと部屋を出て、面倒だからあと一つだけあった冷凍の米でも食べればいいか、と台所へと向かうのだった。

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