1-2.悪寒

 翌朝。じりりり、と鳴る目覚ましを伸ばした腕で止め、ちらと時間を確認してからもそもそと布団に包まり直す。その中であーだのうーだの呻きながら身体を伸ばしては脱力させ、最終的に手足を引っ込めて縮こまった。ぼんやりとその状態のまま暫くを過ごし、のろりと今度は頭も布団から出した。

 時計を見れば流石にそろそろ準備をしなければならない時刻になっていて、大きく呼吸をしてから起き上がる。外出直前によく感じる倦怠感が身体に押し寄せ、もう一度布団に横になってしまいたい気持ちが沸き上がったが、しかし今日は人との約束だ。辛うじてそれを押し殺し、立ち上がって支度を始める。

 珈琲のみの朝食や洗顔、化粧、着替えなどをぱっぱと終わらせ、鞄の中身を確認する。スマフォの充電も確認し、忘れ物がないかをもう一度見直して鞄を持つ。それから今日の帰宅時に買い物をする為軽く家の中を見て回り、凡そ買うものを記憶してから家を出て施錠した。

 空の明るさに目を細めながら、駅までの道を歩く。朝とも昼とも言えない時間のせいか人は少なく、昨日の夕方とは逆に歩きやすさによって歩調が早くなった。今日は少し肌寒いくらいの気温で、七分丈の上に厚めの半袖だと若干寒いような気がしなくもない。時間もなければ面倒でもあるので、上着を取りに戻る事はしなかった。

 信号を幾つか渡り、店を何件か通り過ぎ、マンションやアパートの群れの中を抜けていく。暫く歩けば駅の停留所に辿り着き、目的の地名と番号が書かれたバス停へ足を向ける。出発五分前、すでにバスは停まっており、交通系ICカードを使って人の少ないそれに乗車した。一人用の座席に座り、鞄を抱え込んで目を閉じる。そのまま数分待つとぶおんとエンジンのかかる音がして、車体が小刻みに揺れ出した。ぶー、とドアが閉まり、バスはゆっくりと発進していく。それを意識の端に置き、胡古は触覚が感じ取るものを全て受け流しながら、バスの中、ぼんやりと目的地まで揺られていた。


 ぴんぽん、とアナウンスが始まる音がして、遠くへやっていた胡古の意識が戻ってくる。続けて流れてきた音声は降車するバス停の名を読み上げており、胡古は閉じていた目をぱちぱちと開いた。それから腕を伸ばして降車ボタンを押し、鞄の中からICカードを取り出す。鞄の持ち手をしっかりと持っていつでも降りられる準備をしながら窓の外を眺めた。

 そうして少し待っているともう一度アナウンスが流れ、減速しながら揺れと共にバスが停まった。完全に停車した事を認識してから立ち上がり、料金を支払ってバスを降りる。時刻は午前十一時を過ぎた頃、合流地点のファミレスには予定の時間より少し早く着くといったくらいだろう。あまり見慣れない道をスマフォのマップ片手におろおろと歩き出す。ある程度道を見てから画面を閉じ、目印を見つけてはまた立ち止まって画面を開き、を数度繰り返した後、目的のファミレスに辿り着いた。正午前という事で車はあまり停まっておらず、恐らく店の中も混雑はしていなさそうだと感じる。

 すでに着いたとSNSに連絡を入れようとした時、胡古の肩がぽんと叩かれた。それにふいと顔を上げると、彼女の背後に一人、男性が立っている。美男と言っていいレベルの容姿をした彼は、胡古が振り向くと同時に肩に置いていた手を軽く上げて、よ、と挨拶をしてきた。

「篭宮」

 男性、篭宮雪はにぱっと笑ってその手を振った。女性平均より少し高めの胡古が思いっきり顔を上げるほどに背が高く、恐らく日本人の平均など軽々越しているのだろうが、体躯自体はひょろりと細い。

 少しだけ遊佐に似ている金髪は後ろ髪が短く整えられており、前髪をヘアピンで留めていた。眉は綺麗に柳の葉のような線を描き、睫毛の長い切れ長の目には透き通った珊瑚のような色合いの虹彩を持つ瞳が収められ、鼻筋は日本人であるというのにくっきりとしている。薄く、少し色素も落ち着いている唇は大き過ぎず小さ過ぎず、だが綺麗に弧を描いて喜びを表現していた。どうやら多少顔色を整える意味での化粧もしているようで、その唇の色は不自然でない程度に赤みが薄い。恐らく涙袋や頬骨など、顔色に関わる部分も化粧で整えられていると思われる。焦げ茶のフード付きジャケットは前を開けており、その下には白緑色のオーバーシャツを着ていた。下半身には紺色のストレートジーンズと、少し履き古した柿茶のマウンテンブーツを履いていて、チャラいというよりも明るく、外をよく動き回る人間という印象を抱かせる。

「はい、こないだぶりっす、先輩。取り合えず中入っちゃいましょか。立ったままとか疲れるし、昼食いながら話そーぜ」

 店を指さしながらそう言い、胡古が頷いたのを見てから彼は歩き出す。入店すればからんからんと軽快なドアベルの音が響いた。その音でやってきた店員に人数と喫煙しないことを伝え、空席へ通してもらう。着席して渡されたメニューを受け取れば店員は飲食店での定型文を口にしてから離れて行き、それを見てから篭宮がお冷を取りに席を立った。

 メニューを適当に開きながら店内を見回す。自分たちの他にいる客は主婦と思しき年齢の女性グループや、夫婦で食事をしに来たのだろう年配の男女といった具合で、駐車場で思った通り人はあまり多くはなかった。もう少し時間が経てば昼休憩の人や大学帰りの学生などが多くやってくるのだろう。

 店内とメニューを交互に見ていれば、お冷を二つ持った篭宮が戻ってくる。片方を胡古の前に置き、もう片方に口を付けながら座る彼に礼を言い、改めてメニューに目を通した。彼ももう一つ渡されていたメニューを開くと、こう話し始める。

「先輩、あの噂について知りたいって言ってましたけど、どんくらい知ってんすか?結構最近出てきたやつだから、あんまし広まってはねーと思うけど」

 そう問われて、胡古は昨日聞いた事を彼に話した。そういう噂が囁かれ始めている事、連続失踪事件に絡めて流行りだしているのではという推測。教えてくれた二加屋もそれくらいしか知らないだろう、と伝えれば、篭宮はあー、と言って水を飲んだ。

「ほんとに最新の形だけって感じっすね。まあ噂なんてそんなもんですケド」

「最新、って事は……、これ、尾鰭がついたやつなの?」

「そ。でも思ったより尾鰭増えてねーな。やっぱ元の方があんま広まってないせいですかね」

「……元」

 ぺらりとメニューの頁を捲る。出てきたのは肉料理で、見ていると久しぶりに食べたくなってきた。どれにしようかとまじまじと見ながら、すでに決めたらしくメニューを閉じて頬杖をついている篭宮の話に耳を向ける。

「元はもっとシンプルでしたよ。九亀湖付近の濃霧は人を喰う、これだけです。赤ちゃんの化け物が追加されだしたのは……確か、先月末辺りだったかな?三人目の失踪者が出て少しした頃っす。なんでもそれくらいに、湖から赤ちゃんの泣き声みたいな音がびみょーに聞こえるようになったとかなんとか」

「……ふうん。そうだったの。……それで、元のは……いつから?」

「元のは三月中旬っすね。最初のが報道されて、三日四日してからかな?……うん、そうだ。それがオカルト系の掲示板でそれとなーく広まり始めて、三人目が失踪して少し経ってから、先輩の聞いた噂が一気にばーっと。そんな感じっすね。……ところで注文、決まりました?」

 水を煽りながら聞いてきた篭宮に頷く。それを見た彼はコップを置いてからワイヤレスチャイムを押した。良く通る声で返答があった後、少し早足で店員がやってくる。先にどうぞ、と視線で促されたので、胡古はメニューを開いてハンバーグとパンのセットを頼み、続いて篭宮がサラダとミートソースのパスタを注文した。店員は伝票を操作しつつ注文を復唱し、間違いのない事を確認して再び立ち去っていく。

 その背を見送りながらメニューを脇に片していると、じとりとした視線を感じた。御絞りを彼に渡しながらその視線の意を問うと、苦笑というか呆れたような声音が返ってくる。

「最近絶対まともな飯食ってなかったってのに、よくんなモン頼めますねえ……」

「ハンバーグ、作るの面倒だから……、あんま食べないし……、それに食べたかったから……」

 当然のようにそう告げた彼女に、篭宮はあーあ、と大きく息を吐いた。学生時代からの付き合いである彼は胃が小さいのかあまり量を食べられないタイプで、ついでに言うと胃腸そのものも少し弱い方だった。昔から自分は病弱だとよく言っているが、恐らく真実である。焼き肉なども喜びはするが、胡古より食べない事は実証済みであった。

 先輩はいいっすよね~、と宣う彼を無視して胡古は水を飲んだ。こればかりは生まれつきの部分も大きいため仕方ない、というのが彼女の見解である。篭宮の視線を受け流している間に店員がサラダとパンをを持ってきて、二人ともそれぞれに手を付けた。胡古はパンを千切りながら、篭宮はサラダをつつきながら、暫く互いの近況をぽつぽつと話す。メインの料理が来てからは食事に集中し、やがてその皿が綺麗になった頃、新しいお冷を汲んできて飲み干した。

 食休めを少し行い、腹が落ち着いてから篭宮が伝票を持って立ち上がる。胡古もそれに続き、先にレジに行った彼が二人分の会計をちゃちゃっと行った。店を出て駐車場に停めてあった彼の車に乗り、そこで胡古は自分の食事代を確認して彼に手渡す。が、小銭があまりなかったので金額ちょうどは渡せず、紙幣を彼に差し出す事になった。それを受け取った篭宮が自身の財布から釣り銭分の小銭を胡古に渡す。計算が合っているかどうか互いに金銭の確認をし、問題なしと頷いて財布を仕舞った。

 それら一連の行動を終えてから篭宮は車の鍵を挿してエンジンをかけ、ブレーキを踏みながらギアを解除して走行を開始する。目的地は九亀湖で、まずは車を停めるため、その近くのコインパーキングへと向かう事になった。


 車を走らせている最中に会話はなく、タイヤとエンジンの音が聴覚を刺激する。ファミレスを出てから大体十分ほど走ると、すでに目星をつけていたのだろう。幾つかある中から時間と料金の比率が最も安い所を迷いなく選び、入場させる。駐車券を受け取る際、湖調べるときはいつもここにしてるんすよね、と彼は小さく呟き、遮断機の先へと車を進め、空いている場所に駐車した。エンジンが止まったことを確認してから二人はシートベルトを外して荷物を持ち、車を出る。

 ほぼ真上から射し込む陽光が眩しく、思わず手で目を覆う。その様子を見て篭宮は呆れたように笑うと、帽子でも買いに行きます?と問いかけてきた。さすがにそこまでではないと数度瞬きをしながら答え、手を顔から離して行こう、と歩を進める。後ろで篭宮がやれやれと首を振ったような気配がした。

 気温の上がってきた昼下がり、二人は黙々と湖へと足を動かす。その場所が近付いてくるに従ってコンクリートで整備された道は途切れてなくなり、草木が鬱蒼と茂り始め、日光が遮られ出した。まだ湖自体は見えていないが、すでに噂通りの陰鬱さを醸し出している事に多少なりとも驚く。もう少し人の手が加わっていると彼女は予想していたが、思ったよりもこの場所は忌避されているようだった。この様子だとごく稀に居住区付近の手入れをするだけで、少しでも居住区から離れた所は道の整備どころか草刈りすらもしていないとわかる。

「先輩ってここ来るの初めてでしたっけ」

 そう問われれば、胡古は是と返す。そもそも彼と違って彼女は世平市の出身ではないし、やってきたのも大学入学の頃……つまり凡そ九年程前の事だ。近付かない方がいいと言われている場所に用もなく行くほどの度胸はあまりなく、そもそも外出自体なるべく必要に迫られなければしたくない。その為、世平市にくる以前から、こういった"平時行く必要が全くない場所”とは縁のない人生を送っていた。

 なのでこの場所について知っているのは住民から忌避されているという事、不可解な噂や現象が絶え間なく起きている事くらいであるし、写真などで少し見たことがあるとは言っても、現地の現状などもっての外である。その為実際自分の目で見たこの場所が想像以上に噂通りである事に驚き、その反応を見て篭宮が確認のためにこの問いをしてきたのも当然ではあった。

「まじでここ、全然手ェ入ってないんすよね。だから歩く時めっちゃ大変だし、ぜってェサンダルとかハーパンとか舐めた服装だと怪我と虫刺されでやべーことになるんだわ。俺そんなカッコでここ来たことないですけど」

 がさがさと背の高い草を時折かき分けながら、彼は慣れた様子で進んでいく。胡古はというとその背を追いかけるのに手いっぱいで、周囲の観察をする余裕まではなかった。が、会話をする程度の余裕はあるようで、篭宮に続きを促す。

「……よく、ここに来るんだっけ?」

「あー……、ウーン。昔は結構頻繁に……、ここ数年は流石にそんなしょっちゅうは来れてないっすね。だから今日は久々かな?でもやーっぱ、だーれも手ェ入れてねえんだなあ……」

 その声音にはどこか悔悟の念が滲み出ていて、胡古は少しだけ首を傾げた。ちらと彼の横顔を見上げれば、不純物の入っていない硝子玉のような珊瑚色の目にやはり悔悟と、それからほんの僅かに執着心のようなものが窺える。見間違いかと一度瞬きをした後再び彼の目を見てみれば、悔悟の念はそのままに、執着の色は消えていた。

 気のせいだったのだろうか。そう薄目になったところを篭宮に見られ、軽く笑われる。彼はもうすっかりいつも通りの表情に戻っていて、先程までの薄暗い様子などなかったかのようだった。

「もうちょいで湖が……、あ、ほら、着きましたよ。ここが噂の中心地、九亀湖です」

 篭宮の様子に気を取られているうちに、目的地へと到着したようだった。つい、と彼の指さす先には波すら立てず静かに水を張っている湖があり、それは木の葉の隙間から射し込む陽光を反射して薄明るく周囲を照らしている。対岸はかなり遠く、二人の立っている位置からは到底見えない。時折鳥や虫の影が見えるが、どちらかというとその光景は幻想的……ではなく不気味さを強烈に醸し出し、この場所にいるだけで気が滅入りそうである。

 まずは湖を一周して不審な点がないか確認してみよう、という篭宮の提案に乗っかり、二人はそれなりに大きい湖の外周を歩き始める。全く知らない、しかも獣道と成り果てている場所である為、胡古は二人での行動を提案し、調査は各々やるにしても元よりそのつもりだと篭宮に笑われた。なるべく見落としのないようゆっくりと足を動かし、しかしコンパスの差でどうしても胡古が早足になる。そのことに気付いた篭宮が更に歩調を落として、少し申し訳なさを感じた。

 湖の周囲はここまでの道中よりもかなり荒れていて、何かの痕跡を探そうと思ったら生えている雑草の根元を時折深くかき分ける必要があった。更には昼間であるにも関わらず薄暗い為視界が悪く、ぱっと見るだけでは絶対に何もわからないので、一箇所の調査にかかる時間がとても長い。また、九亀湖は中々に大きい湖である為、外周だけの調査でも一日では終わりそうになかった。

 地面をまじまじと見たり、木の幹を観察してみたり、何か人為的、もしくは奇妙な痕跡がどこかにないかとよくよく目を凝らして探索を行う。しかしそのような追跡擬きを学んだことがあるわけでもなければ、仕事にしているわけでもない彼等の目を惹くほどのものは見当たらず、ただただ時間と体力が消耗されていった。

 ルーチン的な行動を無心に繰り返していると、不意に指からちりりとした痛みを感じる。一度手を止めて確認してみると、指に一本、線が引かれていた。少し周囲を圧迫するとじわりと赤色が滲みだし、そこらの草の葉で切ったのだろうと推測できる。確か絆創膏くらいは持ってきていたはず、と鞄からそれを取り出すと見ていた篭宮に止められた。彼は自身の鞄から消毒液を取り出すと胡古の切り傷に少し吹きかけ、それから彼女の手にあった絆創膏をその指に巻く。綺麗に巻かれたそれにおお、と小さく感嘆の息が漏れた。

「……ありがとう」

「どーいたしまして。まあ家とか帰ったらちゃんと傷洗ってくださいね」

 彼は立ち上がって軽く笑い、作業を再開しようとする。しかし次の瞬間、その笑みが不可解と言いたげな表情へと変化した。きょろきょろと数度左右に首を回し、つうと遠くを見る眼差しになったかと思うと、小さな唸り声と共に首を傾げる。明確に何かを探しているようなその仕草に、胡古も釣られてい馴染ように辺りを見回すものの、気になるようなものは特に何もない。作業に戻る様子もなく、仕方なしに胡古は口を開いた。

「……どうしたの」

「あー……、いや……」

 返って来たのは歯切れの悪い声だった。篭宮は左手で右肘を抱え、その右手で顎を押さえると、言葉にもなっていない母音で喉を鳴らし、固く目を閉じて僅かに俯く。思い悩んでいるというか思い出そうとしているというか、そんな雰囲気を漂わせる彼にそれ以上声を掛けようとは思わなかった。その場にしゃがみ込んでぼんやりとしながら、彼の思考が終わるのを待つ。

 じんとした静寂が辺りを包んだ。膝を抱え込んでただ色の濃い土の地面を眺めていると、突如隣の篭宮が大きな声を上げた。反射的に見上げれば、彼は右手で顔を覆って盛大な溜息を吐き、緩く頭を振って薄目を開ける。そうしてしゃがみ込んでいる胡古を視界に収めたのだろう。小さく短い声を出すと、申し訳なさそうに顔を歪めた。

「あ。……すんません、ちょっとなんか、変な感じがして考え事してました」

「いや……別に……。……考え事って、何か、気になる事あったの……?」

 その問いに対して彼は、やはりと言うべきか疑問の色を乗せた声で返答した。考えこんでは見たものの、解決には至らなかったらしい。胡古はのそりと膝を伸ばしながら立ち上がり、ぐりぐりと足首を回した。

「なんか……、なんかちょっと、あの辺り見た時になーんか引っかかってですね。でも何が引っかかってんのか全然わかんねーんすよ。でもなんか変だとはわかるみたいな……、なんか足りないみたいな……」

「ふうん……?」

 言われてみてから彼女ももう一度辺りを見回してみるも、特に何か違和感を覚える事はなかった。変わらず視界に入るのはぼうぼうに地面から生える雑草と、無秩序に見えて陽光の取り合いをしながら成長した木々ばかりで、逆に何が足りないのだろうか、と考える。この風景に付け足すとしたらぼろぼろの廃屋とか、注連縄の巻かれた巨木とか、不気味さを一層際立たせるものだろうかというところまで想像して、実際にあったら物凄く嫌だという結論に至った。なんとなく寒気がして軽く身震いし、だがその寒気は収まらない。溶けかけの氷が背筋を滑ったようなそれに、彼女は腕を擦った。

「どうしました?」

「ああいや……、ちょっと悪寒が、しただけ」

「うーん?気温が下がったって感じはしねえけど……」

 風邪の前兆かなんかっすかね、と言われるが、そんな感覚でもなかった。悪夢を見て飛び起きた後のような、どことなく気味の悪い小道を見つけてしまった時のような、そういった感覚によく似ている。故に彼女は篭宮のその言葉には否を示し、それに対して彼は再びううん、と唸るのだった。

 まあ、でも。と呟いてから無言になる彼を、腕だけではなく首の裏も擦りながら彼女は見上げた。軽く後頭部を掻きながら二、三度足踏みし、数秒彼女を見つめる。なんだろうかと思うより早く彼は一人で一度頷き、明日って空いてます?と問いかけてきた。明日も特に予定はないため頷けば、彼は少しだけ真面目そうな表情で言葉を紡ぐ。

「もしかしたらっつーか、念のためっつーか……、まあ追ってるモンが追ってるモンだし、一応って事なんすけど、良かったら明日、俺がいつも世話んなってる神社行きましょ。お守りでも貰いに」

「あー……」 

 今度はこちらが唸る番であった。思っていたより芳しくなかったのだろう反応に、篭宮はあれ?と言いたげに口元を歪めた。相当な自信があったらしく、若干、いやかなり間抜けな顔になってしまっている。それに少しの申し訳なさも感じる事なく、彼女は言葉を続けた。

「私、そういうの……、あんまり、相性?がよくない?みたい、で……。だから、悪いけど、ウン。大丈夫、かな……」

 語調の中に信じていないとかではない、という意思を強く主張しつつ、きっぱりと断りの言葉を述べる。こういう時、普段ならもう少し深く聞いてくる胡古が今回はすぐさま断りを入れてきたため、篭宮はぽかんと目を見張った。だが数年来の付き合い故、それが何を意味するのかよくわかったのだろう。大きく息を吐いてがっくりと肩を落とした。

「先輩が即答って事は、まじなんすねえ……。そんなら体調とかに気を付けてくださいとしか言えねーや」

「ウン、ごめん……、でも今まで、心霊現象で困ったことは……ない、から。平気」

「いや出くわしたことあるんかい」

 彼女の返答に思わず、といった口調で突っ込んだ彼は、しかしそれ以上は何も言わなかった。胡古がその先を繋げなかったというのもあるだろう。それにしてはどこか羨望を含んだ眼差しに、彼女はぱちりと瞬きをするだけに留めた。

 時計を確認すれば陽が落ちるにはまだ早く、しかし湖に来てからそれなりの時間が経過していた。キリもいいし、暗くなってから戻るのは危険だろうという意見が一致し、二人は湖の調査を切り上げる事にする。来た道を戻りながら、それでもちらちらと周囲を確認しつつ、何事もなく彼女らは整備された道の所まで出てきた。

 諸々の環境が重なって薄暗かった場所から、陽光を遮るものがない場所へ出た途端に胡古は思い切り顔を顰め、瞼の上に手で傘を作った。対して篭宮は少し眩し気に瞬きを数度しただけで、普段の活動時間の差が垣間見える。特別ダメージを受けなかった篭宮が胡古の手を取り、目に入った日陰へと移動した。彼女が明るさに目を慣らしている間、情報収集なのか誰かと連絡を取っているのか、彼は片手をポケットに突っ込んでスマフォを弄る。

 数分もしないうちに彼女の瞬きの回数が減り、ちらと篭宮の方へと視線をやった。彼は目を細めながら何かを読んでいたようで、胡古の視線に気付くと画面を落としてそれをポケットに差し込んだ。

「先輩、ちょっとだけ聞き込みしません?この時間なら公園とかに誰かいそうだし」

 返事を聞く前ににかりとした表情で彼はそのまま歩き出す。胡古はその背をゆっくりと追いかけながら、聞き出すための会話は全部彼に丸投げしようと固く心に誓った。

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