神話的狂気録
灯籠
1.春の蟲 1-1.底の果て
『———暗く、寒く、じめりとした井戸の底、その更に奥へと続く横道を、LEDランタンを片手に歩いて行く。ランタンの光はとても明るいけれど、その性質上、暗い道の先を照らし導くことはない。だが彼女の恐怖心を煽るのはそれだけではなく、降りてきてからずっと響き渡っている唸り声のような音もまた、その一つであった。
音はずっと、そう、ずっと、恐らくこの横道の先から響いているようだった。赤ん坊の泣き声のような、甲高い女の叫びのような、はたまた絶命する瞬間の悲鳴のような、そんな警告的で、しかし不気味な音。それが向かう先から響いてくるというのは存外精神をすり減らすもので、今すぐにでも引き返したい、引き返すべきだと内心悲鳴を上げる。それでも、どうしても、引けない理由が彼女にはあった。
あらゆる感情を噛み砕いて飲み込んで、彼女は暗闇を一歩、また一歩と進む。変化のなさはまるで無限回廊を思わせて不安を掻き立ててくるが、終わりというものはあっけなく来るものだ。永遠と思える時間を無心に歩き続け、ランタンの明かりがようやく道以外の者を照らし出した。
それを見て、道の先にぽっかりと空いた空洞の、照らし出されたその中を見て。これまでの恐怖も、不安も、全て溶け落ち、笑いに引き攣る喉で嗚呼、と息を吐いた。
ようやく、見つけた。』
肌寒いような暑いような、微妙な気候になりがちではあるものの、眠気を誘う陽気が窓から射し込むようになった四月中旬の昼下がり。こぽこぽとお湯を注ぐ音が部屋の中に響き、少し遅れて珈琲の香ばしい匂いが漂いだす。部屋を仕切る衝立の奥から香るそれは、部屋の主が来客を持て成そうとしていることを示していた。
開けられた窓から入ってきた風で、カーテンがゆらゆらと揺れる。それをぼんやりと眺めていればかたりという音。のろりと視線だけを向ければ、テーブルの上に珈琲ポットと二つのカップがお盆から下ろされて所だった。仕事を終えたお盆はそのままテーブルの端へと追いやられ、それからカップに珈琲が注がれていく。珈琲入りとなったカップがそれぞれの前に置かれてから、流れるような仕草で対面のソファに人が座った。
カップに注がれた珈琲を一口飲むその人は、三つ編みに纏めた艶やかな黒髪を左肩から流していた。形のいい目には底の深く美しい海中のような、そんな少しぞっとするような色合いの青い光彩を持つ眼球が填め込まれている。少し薄めで中性的な印象を抱かせる唇は薄く笑みを浮かべており、カップをテーブルに置いてからすうと開いた。
「まずは締め切りお疲れ様……かな。ちゃんと寝たかい」
問いかけられた彼女はのろりと座り直し、ゆるりと珈琲を一息に飲み干した。目の半分ほどを覆い隠す前髪と、感情の捉えにくい真っ黒な目。少々猫背であることも相まって、陰気さが漂っている。目前の女性ほどではなくとも多少艶のあるその髪は後ろで一括りにされており、動く度に背で揺れた。
「うん。昨日、終わってから、ずっと寝てきた」
「そうかい、それで、今日来たという事はいつものかな?」
その問いに頷き、ポットから珈琲を注ぎ直す。まだ熱いそれを今度はちまちまと飲んでいる間、青い目の彼女は顎に手をやって何かを思い出すように意識を遠くへやっていた。
数分経ったか経たないかくらいでああそうだ、と彼女は意識をこちらへ戻した。組んだ足の上に手を乗せ、どこかにやにやとした笑みを浮かべる。今が楽しいのか、楽しい未来が待っているのか、そのどちらなのかはわからないが、とにかく楽しげである事はよくわかった。
「それじゃあ、そうだな。こんな噂を知っているかい、綴」
勿体ぶるように一拍置き、黒い目の女性、
「湖の赤子。ここ一週間ほど、この
「……湖。九亀の?」
胡古にそう返された青い目の女性、
彼女の様子を気に留める事もなく、二加屋は一度足を組み直す。ポットから珈琲を注ぎ足して口に含み、軽く唇を湿らせた。それから一瞬じっと胡古の目を見つめ、彼女が目を逸らした瞬間に話し始める。
「この世平市には
話し始めれば胡古の視線が二加屋に戻り、じいと静かに耳を澄ます。
「ここ一週間……、長くても二週間程度になりそうかな。そこで囁かれているのさ……。あの湖には、化け物が出るって」
「化け物。……また?」
そう、と頷き目を伏せる。悲し気というよりはただ含みを持たせたいだけのようで、その目には面白がっている色がちらつく。いつもの事だ、と胡古も気に留める事はない。
また、と胡古が呟いたように、二加屋が先に述べたように、この市———世平市の北部に位置する九亀湖は、様々な噂が囁かれては消えを繰り返している曰く付き、所謂心霊スポットのような場所だ。そしてその場所でそういった噂がよくたつのは、世平市に長く住む者達からしたらいつもの事でもある。
単に水場だからという事もあるだろう。だが何よりも風景が良くない。湖のある場所は陰鬱さを醸し出していて、如何にも不気味な噂を生み出しますよ、といった雰囲気が強く出ている。木々は鬱蒼とし、陽はあまり射し込まず、湖は静かに水を湛え続ける。ホラーゲームなどがキャッチコポーの背景として使いそうなくらい、"如何にも"といった風景なのだ。
それだけならばまだしも、雰囲気をどうにかしようと伐採を計画したら立て続けに事故が起きるとか、見たこともない人や生き物を湖の近くで見かけたが一瞬でいなくなったとか、いなくなった夢遊病患者が湖で溺れていたとか、そんな事が頻繁に起こる。近くに住宅街もあるにはあるが、その住人達もあまり近づこうとしない。様々な噂が蔓延っているからというものあるが、なんとなく近付きたくないと口を揃えるのだ。それくらいには地元住民たちが無意識に忌避している。
だからこそ胡古もまたか、と興が失せたような反応をし、二加屋もその反応に対して不満を訴える事が無かった。何かしらの噂の中心地としてよく登場する、そういう場所だからである。
「で、だ。もう少し聞いておくれよ。今回の化け物は赤ン坊なんだそうだ。なんでも湖には赤ン坊の化け物がいて、霧に紛れて大人を喰う、と」
「赤ン坊?」
はて、と胡古は首を傾げた。いつもと少し系統が違うな、と考えたその表情を見たのだろう。二加屋は再びにやつきながら、話を続けていった。
「そ、赤ン坊。ほら、件の失踪事件でいなくなってるのが成人だけだろう?未成年が一切いないんだ、そして見つかってない……。だからだろうね。ほら、捨てられた赤ン坊の怨念が大人を狙うって、構図がわかりやすいし噂にしやすいだろ」
霧はそれっぽい要素を足しただけじゃあないかな、と彼女は背もたれに寄り掛かった。足に乗せていた手を持ち上げて腕組みし、視線だけで窓を見るような体勢になる。骨格が歪みそうなそれを眺めながら、胡古は少し何かを考えた後に口を開いた。
「連続失踪事件、て、あれだよね……。三月半ばくらいからずーっと起きてる……、……ああ、そっか、だから」
「そ。あれも九亀湖周辺……というよりは九亀湖近辺の住人だけど、まあ九亀湖関連だろ。週に一人くらいいなくなってるし、大体一か月くらい続いてて解決の目途がないし、被害者は今のところ成人だけだしで、適当なオカルトマニアか何かが面白おかしくしようとしたんじゃあないかと思うけどね。少し調べれば君の小説のネタくらいにはなるんじゃあないかって感じの噂ではあるだろう?」
どうかな。と首を傾げたまま胡古の目をじっと射貫く。居心地悪そうに座り直しながら彼女は頷き、スマートフォンのメモ帳にそれを記入した。その様子に対して満足そうに二加屋は目を細め、腕を解いて持ち上げたカップに口をつける。彼女が口にした珈琲は温くなっていて、一瞬眉を寄せた後に一気に飲み干した。
彼女らの話す連続失踪事件とは、ここ世平市で一か月ほどに渡り騒がれているものであった。三月の中旬から週に一人ほどのペースで世平市の住人が失踪しており、未だ誰一人として見つかっていない。警察への届けによれば昨日までに五人の失踪が確認され、全員が九亀湖近くの住宅街に住んでいる成人だという事も判明している。公式な発表ではないが。湖近辺の住人が失踪しているという共通点から、民営のニュースやSNSなどでは連続失踪事件と称して度々話題になっていた。
「……ところで、この噂って、出てきたの最近……なんだよね?」
ゆらゆらと揺れるカーテンを見つめながら、胡古は小さく呟いた。窓の外は赤橙の色が徐々に侵蝕して行っており、じきに夜がやってくる事を視認させてくる。開いた窓から入ってくる風も冷たさを増し、昼の気温に合わせた薄着をしてこなくてよかったという思考が頭の端を過ぎった。
続きを促す視線が突き刺さる。それを感じてもぞもぞと自身の爪を引っ掻きながら、彼女は口の中で幾つか言葉を噛んでは潰した。何度かその行為を繰り返して、ようやく言葉が纏まったらしい。少し何とも言えない声を出してから、ぼそぼそと続きを呟いた。
「……いや、その……、二加屋は広く浅くで、だからこれを知っていて……。最近出てきたのなら、あの湖をよく気にしてる知り合いがいるから、と思って」
「……嗚呼、何度か聞いた事がある……、後輩君の事かな。君がそう思うのなら、確かめてみればいいだろう?」
返事の代わりにスマフォを取り出す。個人的な頼みではあるが、それ以上に胡古にとっては仕事に関係するものであった。SNSではなくメールを開き、挨拶を本題を手早く打ち込む。軽く見直して誤字脱字がない事を確認し、一拍置いてからそれを送信した。
ついでに時間を確認してしまえばもう夕食時が近付いてきており、そろそろ帰宅した方がいいだろうと思案する。その旨を目の前の彼女にそのまま伝え、胡古はカップに少しだけ残っていた珈琲を一息に飲み干した。かちんと小さな音を立ててソーサーに戻されたそれは、底に薄く珈琲の残滓を張る。
のろのろと帰宅の準備を終え、ソファから立ち上がる。と同時に玄関の方から物音がし、一度動きを止めた。少し待てば足音と共に胡古の背後にある扉が開く。
「おや」
現れたのは長身の女性だった。もみあげ部分が少しだけ長いショートヘアは美しい銀色で、肌の色もその髪色に相応して日本人にしてはかなり白い。吊り目のそこには紫色の虹彩が填め込まれ、顔の造形も相まってミステリアスな雰囲気を漂わせる。装飾品の類は身に着けておらず、シャツとベスト、細身のパンツといったシンプルな服装は、彼女の手足の長さをより強調していた。
彼女は後ろ手で扉を閉めると、すたすたと胡古の隣へやってくる。ソファに座る事はせずに胡古と二加屋の二人を見つめ、はあ、と溜息を吐いた。
「……。なるほど、綴さんが来るから忙しいだなんて言ったんだね。全く、それならそうと素直に言ってくれてよかったんだけれど」
「いやいやまさか、そんなわけないだろう?予定が早めに終わっただけだし、綴もたまたま来ただけさ。それなのに酷いじゃあないか、そんな言い草。泣いてしまうよ、鼎」
そう言い合いにもなっていない掛け合いをした二人は少し黙り込み、どちらからともなくくすくすと笑った。それから鼎と呼ばれた銀髪の女性、
二加屋同様、そんな胡古の態度には慣れて切っているのだろう。遊佐は気にした様子もなく彼女へと話しかける。締め切りは終わったのかなど、二加屋と同じような問答をした後、胡古からこう切り出した。
「……遊佐は、大学?それとも……仕事の……」
その問いに左肩を竦めながら、遊佐は何でもない声音で続ける。
「どっちも、さ。大学が終わってから、ささめさんに頼まれてね。依頼の確認に行っていたんだ」
「ふうん……。お疲れ、さま」
ありがとう、と二加屋とは異なる綺麗な笑みを浮かべる遊佐は、二加屋の親戚である。数年前に両親を事故で失い。行く当てがなくなりかけたところを、その当時から探偵業を営んでおり、かつ遊佐の両親とよく連絡を取り合っていたという二加屋に引き取られたのだ。以来その仕事を手伝いながら学業にも勤しんでおり、どちらも疎かにしない優秀さを持っている。将来的にはこの探偵事務所で働くらしく、この間の春休みから担当する仕事の量が増えた、と以前にあった時零していた。
しかし二人の事情は胡古にあまり関係がない。帰宅しようとしていたところだし、恐らくこれから依頼の話もするのだろう。守秘義務やら何やらが関わってこないうちにきっぱりと帰ろう、と胡古が扉に向かえば、ちょっと待ってくれないか、と遊佐に引き留められる。
なんだろうか、そう思って足を止め、俯き加減に振り返る。彼女は鞄の中から手帳を取り出すと、挟んでいた厚めの紙を一枚取り出した。厚さや背面の様子からしてそれは写真のようで、くるりとひっくり返して胡古へと見せる。
そこに写っていたのは一人の男性であった。恐らく証明写真か何かを借り受けたのだろう、背景はぱりっとした、見ようによっては目にいたい水色で、糊の効いたスーツを着ている。上半身だけではあるがそれだけでもわかるほどに痩せぎすで、目元に少し隈が目立つ。髪の毛は手入れをさぼっているのか綺麗とは言えず、ただ一応きちんと整えられてはいる。特筆すべきはその目で、写真越しであるにも関わらず、陰鬱さを鋭い刃のように突き立ててきていると錯覚しそうであった。
特別反応をしない胡古に対し、遊佐は少し楽し気な声音で話し出す。楽し気と言っても恐らくそういった色を作っているだけで、責任の思い仕事を本気で楽しんでいるわけではないと思われるが。
「探し人の依頼なんだ。探偵らしいだろう?まあそれは置いておいて、見かけた覚えは……なさそうだね」
それもそうか、と彼女は肩を竦めた。胡古もその動作に合わせて深く頷く。元々胡古の行動範囲自体が広くはなく、ついでにここ一週間は缶詰め状態であったのだ。万が一見かけていたとしても一週間以上前かつ記憶から薄れていて、わかるかどうか不明だ。そうでなくとも人の顔を覚えるのが得意ではないので、知らないと返していた可能性も高いが。
互いに特に話す事はもうなく、二加屋探偵事務所で起きたことといえば、玄関から出ていく胡古を遊佐が見送ったくらいだった。背後で鍵を掛ける音がし、今日の用事は終わったのだと無意識に肩の力を抜く。
滑るようにこんこんとマンションの通路を渡り、階段を降り、歩道へと出る。空はまだ赤みが残ってはいるもののかなり暗くなっていて、足元に気を付けないと転びそうだな、と思考の片隅に浮かんできた。歩道に出てからは一刻も早く帰りたいという思いと、時間帯による人通りの多さとで、一気にその歩みが速くなる。右手が忙しなく前髪を弄っているが、歩きながら前髪を押さえつけるのは、彼女の外出時の癖であった。
そんな彼女の思いをより急かすかのように陽は沈み、街灯がちかちかと点滅して点き始める。夜が迫って来ていた。
こつこつと帰路を辿る中、コンクリートの歩道に落ちる影はその暗さに紛れ、少しずつ輪郭を隠していく。同じように歩いている他人を全く気にしないでいていいのならば、胡古としては一日の中でもこの時間帯を一番好いていた。何といったって人の判別が付くようで付かず、様々な音が停止して静寂を連れてきて、明るいんだか暗いんだかどちらとも言えない色に世界が染まっていく。中途半端でどっちつかずな、それなのに一瞬に近い速度で終わってしまうその時間帯が、どうしても好きだった。……今は外出しているから、あまり好きではないが。
そんな事を考えながら通い慣れた道を歩く。二加屋らが住んでいるマンションから胡古の家に行くまでの道中には、小さな公園やスーパーなどが点在していた。駅前と言ってもこの世平市があるのは首都圏の少し栄えているだけの田舎の方に位置している。故にデパートやらショッピングモールやらよりも、ホテルやコンビニ、スーパーなどが駅から少し離れたところで競り合い、駅では駅ビルの中で様々な店が入っては退いていた。
ちらとそんなスーパーやコンビニを横目にしながら、しかし正直、今日はなんとなく寄るのが面倒臭くてたまらなかった。恐らく家にある物資は少ないとわかっていても、買い物をしようという気になれず、そのまま通り過ぎていく。
幾つか店や建物を横切っていくと、街灯の真下で何かをしている人影が胡古の視界に映った。そこには確か市の掲示板があったと記憶しており、その人物も作業を終えたのだろう、掲示板に付いている雨風対策のガラスを閉じる。それがどうしてか気になって、こちらから声をかけてみる事にした。
「……何を、しているの」
作業をしていた人物―若い女性であった―は声を掛けられた事に驚いたのか、身体を小さく震わせると勢いよく振り返ってくる。その表情は驚愕と警戒がありありと浮かんでいて、僅かに申し訳なさを感じた。
女性は声を掛けたのが女性であるとわかると、驚愕を笑みに変え、一言謝罪をしてくる。ただ警戒の色は消えておらず、まあこんな時間帯に知らない人間から声を掛けられたら自分だってそうなるだろうと、胡古は表情を全く変えなかった。
そして声を掛けるために近付いてみて分かったが、彼女は相当の美人であった。胡古と同じくらいの背に見えるがそれはヒールによるもので、実際は彼女より少し低いくらいの背丈だろう。少し赤色が強い茶髪は背の中央辺りまで伸びており、ハーフアップで纏められている。垂れ気味の目は琥珀のような色合いで、同じように垂れている眉と小さめの唇のせいか、柔らかく穏やかそうな印象を抱かせてくる。象牙色の丸襟ブラウスの上に潤色のカーディガンを着込み、深緑のミモレ丈スカートを履いている。紺鼠色のショートブーツは踵が少し高めだが、歩いてきた姿を見るに大分履き慣れているのだろう。よく見れば僅かに皺が出来ていた。
恐らくは育ちの良い人間ではなかろうか、しかし何故そんな人物がこんな時間にこんなところにいるのだろうと、胡古は無意識に首を傾げる。それを見てか彼女はふふ、と微かに笑い、警戒を解いた。
「警戒してしまってごめんなさい、驚いてしまいましたの」
「……、ううん、別に……。突然だったの、こっちだし……」
ぼそぼそとした話し方の胡古とは異なり、彼女は声音こそ柔らかいが、はっきりと聞き取りやすい話し方をする人物であった。その辺りも教育されているのだろうなあ、と呑気に考える。
「わたくし、人を探していまして……。うちの使用人なんですけれど、昨日から行方が知れませんの。連絡も取れないし、何かあったのではと……。最近はあの事件もありますし」
なるほど、と胡古はまた頷いた。通常であれば一日程度の失踪を気にしないものも多いだろう。彼女がそのタイプのようには思えないが、使用人と言っている以上、"普通”の世情であれば彼女一人の言葉では周囲が動かなかったに違いない。今は連続失踪事件という前提条件がある。だから即座に周囲が動き、彼女も何かをしようとここに来たのだろうと想像に容易い。
「警察にももちろん届け出ましたが、やっぱり最近お忙しいようで……。わたくしは一番身軽と言えば身軽ですから、危険を冒さない範囲でなら、とこうして探しているんですの」
それでこの掲示板に貼り紙をしていたのですわ、と彼女は身体をずらす。掲示板には市内の催し事や求人のお知らせが何枚か貼られている他、数枚ほど探し人の貼り紙があった。彼女はその中の一枚を指し示し、この方です、と言う。
写っていたのは精悍で、多くの人が好印象を抱く男性であった。短めに切られた黒髪は乱れないように少しワックスをつけているのだろう、人工的な艶があり、きりりとした顔立ちはしかし人の好さが滲み出ている。スーツをきっちりと着込んでおり、それも彼の清潔感を印象付ける一因となっていた。その着込み具合が不自然に見えない所が、彼の性格を一層固めてくるのだろう。
「明日からは時間の空いた時に、彼の帰り道や自宅近辺などで聞き込みなどをする予定ですの。もし貴女が彼を見かけたら……、書いてある連絡先にご一報くださいな。お願いします」
彼女はそう深く一礼する。雇用主の家族にも心配してもらえるほど、この男性はいい人間なのだろう。使用人と紹介するという事は、少なくとも彼女が雇っているのではなく、彼女の父親辺りが雇っているのだろうとは胡古でも考え付く。家族がいるのであれば、その家族の心労も酷いものだろうな、とも。
「あ、わたくし、
にこりと女性、浅目飾は微笑みを浮かべ、一言断りを入れて立ち去っていく。その背中が見えなくなるまで見届け、もう一度貼り紙を見直す。
男性の名前は
恐らくこの人物が五人目の失踪者なのだろう。ニュース等で氏名が出ているかもしれないが、適当に聞き流している程度にしかニュースを確認していない為、予想する事しか出来ない。覚えていたら後で調べておこう、程度に張り紙の情報を頭の片隅に置く事にして掲示板の前から立ち去る。
彼女の背後で、街灯の明かりがガラスに反射し、白く光っていた。
駅前のマンションから大体二十分ほど歩いた、近くもなく遠くもなくという距離にある住宅街の一角、そこに彼女の家はあった。塀で囲まれた大きくはない二階建ての一軒家で、雨風や日光で変色した外壁から、新築というわけでもないことがわかる。
元は彼女の祖父母が住んでいた家だった。二人とも数年前に他界して空き家になってしまうところを、両親の勧めで胡古が住み始めた。当時彼女は世平市内の大学へ進学が決まっており、逆に彼女の両親は仕事の都合上、世平市に引っ越す事が出来なかったためである。
住人のいない家屋は荒廃が進みやすい。折角の一軒家、売り払うのも荒廃させるのも勿体ないという理由と、避ける事が出来ない対人関係による胡古自身の精神的な負担を両親が鑑みたものであった。そしてそれは在学中に胡古が小説家として見出され、卒業までにある程度稼げるようになった事で最適解であったという結果に落ち着いた。
すっかり暗くなった空の下、鞄の中からキーケースを取り出し、玄関の鍵を開ける。自分が滑り込むだけの隙間を開けて中に入り、施錠し直して靴を脱いだ。乱雑にはならなかったからと靴を放置し、洗面所へと向かう。胡古一人しか住んでいないために使用しているのは一階部分のみで、彼女が自室として使用しているのも一階にあった。住み着いてから二階は掃除をする以外ほぼ立ち入る事が無く、祖父母の遺品やあまり使わないものを仕舞うだけのだだっ広い物置と化していた。
手洗いうがい済ませて自室へと入る。カーテンが閉め切られているせいですでに室内は暗く、電気も元から切っているためにスイッチで点く事はない。足元に注意しながら部屋の中央付近まで進み、電気の紐を引っ張る。ぱちぱちと二度引き、少し暗めにすれば壁に立てかけられた全身鏡が光を反射した。それに僅かに眉を寄せてから、椅子の上に鞄を置く。鏡はあまり好きではないが、これは祖父母の遺品である為、なんとなく自室に置いていた。
彼女の部屋は散らかってはいないものの、つい最近までまともに掃除をしていないことがよくわかる有様であった。デスクトップパソコンの乗ったデスクには何冊かの本とルーズリーフが散らばっており、椅子の周りにも何枚かの紙が落ちている。本棚は普段なら一杯に詰められているのだろう、締め切り直後の今は幾つか空きがあって少し不格好な他、入りきらない本が少し床に置かれてもいた。デスク横のゴミ箱には栄養食品の空袋と、目薬を点した時に使用したティッシュばかりが入っている。木製のベッドフレームには埃が積もっているものの布団はぐちゃぐちゃになっており、寝て起きてから畳みすらせずに出掛けたという事をありありと示していた。
それを改めて認識し、胡古は面倒そうな表情で溜息を吐く。少しずつ片付けなければならないが、ちまちまこつこつち掃除を進めていくのは好みではない。では何故今日さっさとやらなかったのかといえば、締め切り明けに掃除なんて絶対にやりたくはなかった事、そして次の話を書くための準備も進めていきたかった事が挙げられる。特にオカルトやホラーの噂などは、その時に掴んでいなければ次の機会が中々ないという事がよくある。だから今日はそれを優先したのだと、自分にそう言い訳しながら鞄の中からスマフォを取り出した。
そろそろ返信が来ていないだろうかと電源ボタンを押してみると、帰宅する数分ほど前にメールが一件来ていたようだった。恐らくは先ほど連絡をした相手だろうとパスコードを解除して送信者を確認し、そのまま中身に目を通す。少しテンションが高めの文章にはこちらの頼みを快諾する意と、丁度明日は九亀湖とその近辺を調査しに行く予定であったから、一緒に行かないかという事が書かれていた。
ふむ、とスマフォのカレンダーを確認し、明日は特に予定がない事を確認する。部屋の掃除はまあ……、そのうち適当にやればいいだろう。片付けをしなくてもとりあえず朝、適当に掃除機をかけておけば大丈夫だと信じている彼女は、了承の旨と合流地点をどこにするかという事を綴って返信し、ポケットにスマフォを突っ込む。自室を出て台所へと向かい、望みをかけて冷蔵庫と冷凍庫を確認すれば、ソーセージが二本と、タッパーに詰めて冷凍した白米が二食分ほど残っていた。寧ろよく残っていたな、などと考えながら白米を解凍するためにレンジに入れ、ボタンを押したところでスマフォがバイブ音を響かせ始める。引っ張り出して画面を見れば、件の後輩からの電話だった。少し悩んでから応答を押し、スピーカー部分を耳に押し当てる。
『嗚呼、こんばんは。お久しぶりっすね~、先輩!まーた飯食ってないとか、そういうのはやめてくださいよ?』
「……、こんばんは。相変わらず……元気そうで……。あとうるさい……」
酷いなあ、と言いながら声量を少し抑えたのは、胡古の大学時代の後輩である
彼は現在雑誌の記者として仕事をしており、主な担当がホラー・オカルト方面であった。本人の意向でその配属になったそうだが、彼の人誑し的一面も多少その要望を押し通す一因だっただろうと彼女は考えている。
篭宮は気になった一つの情報を深く掘り下げて調べるタイプな為、二加屋とは全く逆であった。故に胡古は二加屋の次に彼を頼りにしているのである。勿論篭宮も彼女からそういった扱いをされている事を十分承知しており、その上で今の関係をよしとしている。というのも、彼も自身とは別の視点から情報を分析する胡古の意見を、彼女の了承を得て記事に盛り込みつつ載せているからだ。つまるところ、お互いに利点をうまい事利用している関係性だと言える。
レンジの稼働音を背景に、胡古はどうしたのだと彼に問う。言外にメールでのやり取りだけでも良かったんじゃあないか、という思いが込められていて、気付いた篭宮は苦笑を漏らす。実は、と前置きしてから本題を話し始めた。
『合流地点の他に話しておく事あったの忘れててですね。多分今の時間なら家にいるかなーと思いましてー、ちまちまメールでやり取りするより電話した方が早えかな、と』
「ふうん」
『そーんな声出さないでくださいよー、多分先輩にとって結構重要だぜ?』
篭宮が若干不満げな声を上げる。それでも興味ないと言いたげな彼女であったが、まあいいけど、と続いた言葉にすぐさまその感想を撤回する事になる。
『明々後日には別の人と合流する予定だったのを言い忘れててですね。そこまで先輩が一緒にいるかはわかんねーけど、こういうのの伝え忘れって良くないしさ』
「……ああ、うん……、それで……、どういう人、が……?」
勿体ぶるな、と言わんばかりに胡古は彼の言葉をぶった切った。僅かながら動揺を乗せたその声音に、篭宮が苦笑したのが聞こえてくる。相変わらずだなあと小さく呟かれ、彼女は少しだけ眉を寄せた。
『俺らがいた頃から有名だった人だよ。ほら、生物学を選択教養で何コマか担当してて、講義中何してても怒んないけど、単位はがっつりレポートとテストで判定してきて、講義は楽だけど単位取得は鬼畜って言われてた。覚えてます?』
そう言われて少し記憶を辿る。しかし大学時代の胡古が取っていた選択教養科目に生物学はなく、友人すら殆どいなかった為にそんな話を聞いた覚えもない。篭宮が知っているという事は確実にいたのだろうが、恐らく胡古の活動範囲の遥か外に位置していた人物なのだろう。そこまで考えて静かに首を振ってから、今は電話中だと思い出し、知らない、と答えた。
まあそうですよねー、と篭宮は害した様子もなく話を続ける。どうやら篭宮は当時から胡古にその人の話をしてはいたらしいが、聞いてないだろうなあ、とは思っていたそうだ。若干申し訳ないとは今更ながら思いつつも、ちゃんと聞いていたとしても今頃は絶対忘れていた自信が彼女にはあった。
『その人、俺が卒業してからすぐくらいの時に講師から准教授になったそうで。立場利用しまくって、ずっとやりたかった研究をここぞとばかりにやってるんすよ。で、それが俺の仕事とたまに被るから、先輩とおんなじようにたまに一緒に調査してんです』
「生物学なのに?」
『生物学だから、っすよ』
今度こそ篭宮は愉快そうな声色で返してくる。胡古の反応が予想通りだからだろう。含みを持たせたそれになんだか面倒そうな気配を察するが、今更話を止めるわけにもいかない。しかもその相手はもしかしたら明々後日、胡古と対面するかもしれないのだ。仕方なしに彼女は続きを促す。
『そのセンセ、俺らが在学中の時からずーっと有名だったって言ったでしょ。なんてったってセンセ、未確認生命体を求めてやまないタイプの人でさ。生物学やってんのもいざそういう生き物に出会ったら、解剖やら実験やら観察やらして研究し尽くす為なんだとさ。だからそういう情報は暇を縫って掴み取りするし、俺とも範囲が被るっていうね』
「……ウワ……」
彼女にしては珍しく、声にも目にも感情がわかりやすく乗っかった。そのせいか、やばそうな人だ、という感想は言わなくても伝わったらしい。んくく、という喉を鳴らすような笑い声が耳を打ち、それを取り繕う事もなく、篭宮は話を続ける。
九亀湖に常時存在する怪奇的な噂話の幾つかには、化け物や不審な人間が登場するものがある。勿論その情報に関して賛否は分かれているが、しかしどこの界隈にも好奇心旺盛な人間はいるものだ。そういった人々は化け物等を見つける、或いは正体を突き止める事に非常に精力的で、話に出ている准教授もその類の人間らしい。聞けば未確認生命体を発見するため、休みの度にあちこち飛び回っていると言って過言でないほどだそうだ。
『ま、そういうワケでして。赤ちゃんのバケモンってのがピンときたっぽいんすよね~。前々から湖にある別の噂のバケモンも追っかけてるから、一石二鳥したい!って。ただ大学の方の予定もあって、空くのが明々後日以降なもんで、そういう事になったんですね。なんで明々後日まで長引けば先輩とセンセ……あ、センセは朽ノ
「……うん、わかった……。その時は……その時で、まあ、うん。大丈夫」
しどろもどろな返答に少しだけ不安を抱いたのか、もう一度念を押すと、篭宮は明日からの合流地点について話し始める。そちらはお互いにある程度地理を確認していたためかスムーズに決まり、住宅街近くのファミレスで落ち合う事になった。篭宮が車を持ってきてくれるそうで、合流後の移動は心配しなくて良いだろう。その他時間など細かいところを決定し、通話が終了する。
話し込んでいる間に解凍が終わっていた白米をレンジから取り出し、代わってソーセージを二本温める。空になった袋をゴミ箱に捨て、箸を手に取った所でまたレンジのタイマーが鳴った。レンジの蓋を開けっ放しにしてから白米をもそもそと食べきり、少し冷めたソーセージも腹に収める。久々に栄養食品以外のものを食べたせいか、もう少し何か胃に入れたい気もするが、他には何もないとわかっていた。タッパーと食器類をさっさと洗って水切り籠に置き、台所から立ち去る。
明日も午後からとは言え出かける予定になった為、軽くシャワーを浴びて早々に寝てしまう事にした。ゆるゆると外を歩いていた時よりのんびりとした歩調で自室へと向かい、中に入って着替えを手に取る。ベッドに散らかった寝間着代わりのジャージはくしゃくしゃで、明日は出掛けるのだから、明日起きたら洗濯してしまおうと考えた。
それらを手に彼女は部屋を出ていく。閉められなかった扉のその奥、電気の点いた部屋の中。壁に立てかけられた全身鏡が、青い何かを映し出す。細い何かが幾本も揺れ、青い光はゆらゆらと動くが、ただそれも一瞬の事だった。瞬く間にその青は消え、鏡にはもう、何も映ってはいなかった。
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