Lec.1-3 過去を見る

 この一週間、僕は日が暮れると図書館に向かっていた。理由は簡単、何よりも落ち着く場所が欲しかったからだ。今住んでいるアパートは、先日ようやく注文していた家具一式が揃ったものの、慣れない空間故にまだ落ち着けていない。何というか、生活の拠点としてまだ心ここに在らずと言う感覚だ。実家がいかに偉大なのか改めて理解した。

そんな僕の数少ない落ち着ける場所、それが図書館だ。本を読み、時間を忘れ、ただその本の世界を満喫する、それが何よりもいい。また、本が持つ独特の香りに包まれるのもよい。きっと、生活に慣れるまではこんな生活ルーティンなんだろうな、そう思いながらも僕は図書館に足を向けていた。


 図書館の五階。何かと足を運んでしまう。

窓から差し込む夕日が赤く照らす。そこには席があり、一人机に突っ伏している姿が見える。昼寝、いや時間的には夕寝。いったい誰だろう? もう、今日の講義は終わったわけだし、更には週末だ。ここで寝るくらいなら、自宅に帰った方が良いだろう。

そう思いながら、いつもの窓際の席に近づいた。突っ伏しているのは赤い髪の女性。アネットさんだ。

「大丈夫ですか、もう最終コマ終わりましたよ。」

一応声をかけてみる。しかし反応はない。疲れているのだろうか、もう少し落ち着いたら再度声をかけてみよう。

席にリュックサックを置き、本を探しに行こうと席を離れようとしたその時。


バタン……


 振り返ると、さっきまで机の上で寝ていたアネットさんの姿はなく、床に転げ落ちていた。

瞼は閉じているものの、腕に力はなくダラリとしている。おかしい、何かがおかしい。

机の上には以前も見たことあるような本、タイトルは「時空間命術基礎理論」。紫の表紙が特徴的な本だ。

こいつが原因なのか? 倒れたアネットさんの頭部をよく見ると、一本の光の線が引いている。そして、それをたどると光の糸が球状に纏まった様な物が薄っすらと浮かんでいた。

「これは、いったい何……?」

もう既にパニックになりかけていた。これを解除するにはどうすれば、アネットさんを助けるにはどうすれば……。手の平を球状の物体に向け、アンチスペルを唱えようとしているが、どの種類のものを唱えればいいのか分からなくなっていた。そもそも


――これを掻き消してしまっても大丈夫なのか……――


 脳裏に浮かんだこの一文が強い警戒心を生んだ。そして、その警戒心は自分自身に対して強い疑心暗鬼へと変貌し、遂には僕は力なく腕を下ろすことしか出来なくなった。

「助けを呼びに行かないと。」

僕は、リュックサックを置いたまま駆け出していた。目指す気べき場所、そう目指すべき場所は研究棟内の命術科の研究室。そこに行けば先生達がいる。何とか解決できる人を探さないと。僕は呼吸を乱しながら、ただ必死に図書館の螺旋階段を駆け下りた。何度か躓きそうにもなったが、無事一階まで着き、そのまま研究棟へと向かった。


 真っ先に向かったのは学部長室。しかし、ここは鍵が閉まっているうえに、ノックしても返答がない。横にかけてある在籍通知版には会議と書かれている。クソッ、次だ。

次に向かったのはライナック先生の研究室。運よく、室内の明かりはついていた。

「失礼、します。」

慌てていたため、ノックを忘れ入室してしまった。

「どうした、そんなに息を荒げて。」

「実は……」

僕は事の顛末を話した。しかし先生は非常に渋い顔をしている。右手を顎に当て親指で髭をなぞる仕草を二度した。

「なるほど。ただ、残念だが俺では力になれない。専門ではないし、下手に手出しすると彼女が危ない。」

「そんな。」

肩で大きく呼吸をしながら僕はうなだれる。

「だがな、ユウナさんなら何とか出来るかもしれないぞ。」

「ユウナ先生ですか。」

「あぁ、彼女の部屋は命術科の一番端の部屋だ。場所は分かるな。」

「はい、どうもありがとうございます。」

急いで向かおうとし背を向けた時、「気を付けて行けよ。」と声が聞こえた。弱々しい声、彼なりに力になろうとしたが力量不足を痛感し、己を攻め立てているように思えた。


 僕は急いで向かった。ユウナ先生の部屋、窓から光がのぞく、そして在籍通知版にも「在籍」と書かれている。大丈夫だ。まだ落ち着いていたのか、コン、コン、コンと三度ノックをしその後息を整えることが出来た。少し間を置いたのちに「失礼します。」と声を出す。

はい、と声が聞こえた後に扉が開いた。中から小柄な女性教師が顔を出した。

「どうしたの? そんなに慌てて。」

「アネットさんが、三年生の命術科の先輩の様子がおかしいんです。」


§


 僕は図書館に向かいながら彼女に説明をした。机で突っ伏していたこと、力なく倒れたこと、紫表紙の「時空間命術基礎理論」の本が開かれていたこと。そして、彼女頭から伸びる一本の光の糸が、球状の物体になっていること。

これらを話しているうちに、彼女は何か納得したような素振りを見せた。

「原因は分かったわ。でも、彼女を助け出すとしたならばちょっと時間がかかるかもしれない。」

「それは、どういうことですか。」

「まずは、彼女を私の研究室に連れていきましょう。もうすぐ閉館時間だし、皆に迷惑がかかっちゃうでしょ。」

空は赤色から青へと変貌していた。夕日が沈み、夜がやってくる。そうなると、図書館も閉館することになる。

「それに、カレル君。あなたのバッグも図書館に忘れているでしょ。」

「あ、本当だ。」

相当、冷静さを欠いていたようだ。背中の重さにも気付いていないくらい僕は慌てていたようだ。


 そして、本日二回目の図書館の五階。僕が倒れている彼女を背負い、リュックサックと書籍はユウナ先生が持った。

「さ、落ち着いて行きましょ。」

今、僕は一人の命を背負っている。さっきみたいに慌てて駆け下りるだなんてできない。彼女の指摘通りにしよう。

そして、改めて光の球状の物体を観察してみると、光の糸自体はぷつんと切れるような様子もない。また、それにつながる球状の物体も糸に引っ張られる風船のように着いてくる。なんとも不思議な光景だと改めて感じた。


「彼女はソファの上にでも横にしてあげてね。」

 研究室に着いた僕に、真っ先に先生は言った。そして、そのまま光の球状の物体に手を当て何かを始めた。

「先生、まずこれは一体何なのですか?」

時空間に関わる命術と言うことだけは何となく想像は出来る。ただ、時空間に関わる命術だなんて普通は聞かないものだ。何故、そんなものにアネットさんが関わっているのか、僕には全く理解できない。

「そうね、まずはこの術の正体についてからね。」

先生はそう言うと球状の物体から手を放し、室内にあった一枚の白紙とペンを取り出した。

「まずこれは、と言われる時間に関係する命術の一種なの。」

「つまり、別の時間に行くための命術なんですか?」

「えぇ、ただしプロトタイプで、理論上はタイムリープのだけどね。」

彼女は語りだした。


 この術の正体は「タイムリープ プロトタイプβ―Failure」。通称「記憶跳躍メモリーリープ」。

通称が全てを語っている通り、命術を発動した術者の記憶媒介にし、その記憶を術者に見せるというものとのことだ。目的と乖離しているが故に命術名にと銘打たれた数少ない命術の一つでもある。

「この命術はね、時間跳躍を目指した命術者達の苦肉の策の一つなの。」

時空間に関わる命術を作ろうとした術者達は、命力を元に時間についてとある考察を生み出した。

極力簡単な言葉を使うとするならば、「命力は常に世界に溢れている。そして、命力はどの時間にも同じように存在している。つまり、その命力を紐伝いにすれば過去にも未来にでも行けるのではないか?」と言うことらしい。なるほど、分からん。

この考えはあまりにも突拍子もなく、賛同する者は少なからずいたものの多くの術者からは非難された。あまりにも非現実的過ぎたのだ。そして、少数ながらも精鋭たちの努力の末、一年の後に一つ目の術を完成させた。それが「タイムリープ プロトタイプα」。

理論上は、過去にも未来にでも行けるはずだった。しかし、彼らの考えが及ばないことが一つあった。

それが、だった。時間に重さがあるのか? 正確には違うのだが、表現としてこのような言葉が使われている。ある学者は、時間を川の激しい水流として考えている。時間を戻すということは、一定の方向に流れる水流に逆らい、押し返しながら進む行為である。つまり、時を戻す行為と言うのは、川の水を全て受け止めながら押し返し続け、目的の場所まで進行するという行為である。この表現なら分かると思うが、最下流から川の源流までの水量を持って運べるか? と考えればよい。普通に考えて無理だ。

彼らは、プロトタイプを発動し、世界の時間を一時間戻そうとした。しかし、叶うことは無かった。言ってしまえば、彼らは深海に潜り、海の水全てを空の果てまで押し出そうとする行為の何万倍も大変なことをやろうとしていたのだ。

そして、プロトタイプの失敗の後にある術者が諦めの境地の末一つの考えにたどり着いた。「自分が過去に戻った気分を味わえるならいいのでは。」という現実逃避を行うことだった。結果、プロトタイプβが完成してしまったのだ。もちろんだが、名前に失敗の文字がついた通り、他の諦めていなかった学者達から批判され、負の烙印が押されたのだ。

「と言う訳で、こんな命術が生まれてしまったの。」

彼女は真っ白だった白紙に、説明や歴史など色々と書き込み、一面全てを書き切ってしまった。

「でもね、彼らが亡くなった後にタイムリープは完成してしまったの。」

「それじゃあ、何故そんな便利そうな術が知られていないのですか?」

彼女は少々俯いた後、こちらを向いて悲しそうな笑顔で答えた。

「これね、禁忌術に指定されているからよ。」

ここから先の説明は聞いていて全く理解できなかった。タイムパラドクス、平行時間、選定事象……聞き慣れない単語の連続で頭がパンク寸前になってしまった。その様子に気付いたのか、彼女は話を中断した。

「さて、話はここまで。ここからが本題。」

彼女はさっきまで紙を裏返し、また何かを書き始めた。

「プロトタイプで失敗作だとしても、扱いを間違えればとても危険な術なの。そして、彼女はその術からのかのかどちらかと言うことになるの。」

「出る? それはどういう事ですか。」

彼女は円を描きその中に人型を描いた。そして、線を引き倒れた人を描いた。つまり、今のアネットさんの状況を図式化している。

「さっきも説明した通りだけど、彼女はこの術で作られた記憶の空間、図で言うならこの球状の物体の中に囚われている状態ね。そして、この物体は彼女の記憶をコピーした物。その中から彼女の座標を絞らなければならないの。」

「その座標はどうしたら分かるのですか?」

「外部からは探り当てるのは難しいわ。」

彼女はかなり深刻そうに言葉を吐いた。思う節があるのだろう。

「ただ、このような術を使う人は、って思いが人一倍強いはず。だから、それを手掛かりにするしか無いわ。」

「先輩の部屋、何かヒントがあるかも。」

「そうね、後は彼女の部屋なんだけど……」

「僕の住んでいるアパートの隣の部屋です。」

間髪入れずに言った。ハッとこちらを向いた後、先生はグッと親指を立てた。

「それじゃ、案内してくれるかしら。」

ナイスアシスト。とでも言いたげな顔に見えた。

助けることが出来そうだ。やっとだが一筋の光明が見えた。


§


 歩いて向かう途中、このまま先輩を放置するとどうなってしまうのか聞いた。もしも何もしなければ、水や食事を一切摂取しなかった場合と同じく四、五日がリミットだと言う。しかし、彼女の存在するポイントさえわかればその時点で救出が可能であると先生は言う。

また、僕が発動できなかったアンチスペルを発動した場合はどうなるのかと言うと、先輩も巻き込まれて消滅してしまうとのことだった。とんでもない量の冷や汗が流れた。あの瞬間、自分が臆病でじゃなかったら……そう思うだけでも指先が震えて止まらなくなる。

「この部屋です。」

僕がそう答えると、先生は人差し指を鍵穴に向けた。その後手首を捻る動作をすると、ガチャと金属の音が鳴った。

「さて、中を調べましょう。」

と意気込む彼女を背に。

「流石に女性の部屋に侵入するのは気が引けます。」

そう答えた僕に、彼女は目を細め微笑んだ。

「うん、それなら待っていて。」

そう言うと、彼女はさっさと中に入った。


 中は六畳ないし五畳半程の部屋。縦の空間がそこそこあるせいか圧迫感はない部屋だ。天井までの高さの本棚が二つ。一つは書籍類がびっしりと埋まっており、もう一つは写真や小物を飾っている。

ワークデスクは整理整頓されており、端にノート数冊と筆箱、写真立てがあるだけだ。

「この写真。」

ワークデスクに飾られた写真は大人の男女と少女が写っている。持ち主のことを考えると、アネットとその両親の写真だろう。そして、アネットの写っている年齢が初等科に入学するかどうかの年齢に見える。つまり、十四年程前の写真と考えることができる。

再度本棚を覗き込んだ。背表紙を読むと、死霊術ネクロマンスの文字がずらりと並んでいた。

「また、これも禁忌術か。」

本と本の隙間に挟まっているノートを一冊取り出して、ペラペラとめくってみた。中には、「蘇生」の単語と、どうすれば両親を蘇らせることができるかの考察が大量に書かれていた。

ノートを戻した後、その隣に古いノートを見やった。それを取り出し、これを読んでみる。どうやら日記のようだ。しかし、ある日付を境に白紙のページが続いた。

十四年前。きっと、そこで何かあったのだろう。

ノートを戻すと直ぐ様、玄関に向かった。


§


 ユウナ先生が部屋から出てくると、「大体掴めたよ。」と一言僕に声かけた。つまり、助け出すことができるのか。鍵を開けた時と同様に手首を捻るとガチャと金属音が鳴った。「さぁ、早く」と急かす先生と共に研究室へ速足で向かった。


 研究室に戻った僕たちは彼女の姿を再度確認した。やはりというか、彼女は目を覚ましていなかった。

「それじゃ、今から彼女の座標を特定させるからちょっと待ってね。」

彼女は自身のステータス板を出現させる。球状の物体に手を当てながら、パタパタと手元で何かを打ち込んでいる。正面にはよく分からない文字列が撃ち込まれている。彼女が一行文字を打ち込むたびに結果として数値が返ってくる。

よし、と彼女が言うと詠唱し始めた。あまり聞いたことの無い詠唱文だ、きっと外部から回収するための特別な命術なのだろう。

ボソリと「違和感見っけ」、と声が聞こえた。

「発見。」

スッと人差し指と親指で摘まむ動作をした。すると球状の物体から小さな光の玉が、光の線を伝い彼女の中に入っていった。アネットさんの顔を見たものの、まだ反応はない。僕は心配になり、ふと先生の顔を見た。

「きっと、目を覚ますまで時間がかかると思うよ。」

彼女はティーポッドを手に取り、茶葉を入れた。沸かした湯をポットに注ぎ茶葉を蒸らし始める。

「時間も相当遅くなってしまったね。後は私が面倒見ておくわ。」

今更なのだが、外はもう真っ暗だった。そんなにも時間が経っていたか。でも、僕は。

「いえ、最後まで居ます。」

「そう、ありがとね。待っている間お茶を飲んでゆっくりしましょうか。」

アネットさんから伸びていた光の球は、解かれた毛玉の如く散り散りになり消え去っていた。この命術からアネットさんが完全に開放されたのかと思うとようやく安堵感を得た気がした。


§


 夢の終わりは突然だ。目の前にいたはずの両親は暗闇の中に消えた。それも一瞬で。

ようやくあの日常を取り戻せたのに……うぅ、頭が、痛い。


§


 ユウナ先生から紅茶を差し出されたものの、中々喉を通らない。その心配が僕の顔からにじみ出ていたのか、ユウナ先生から「心配しないで。」「大丈夫だから。」「きっともう少し。」だとか無駄に気を遣わせることをしてしまった。

「そこまで考えこまなくていいよ。こんな時こそリラックスしておくべきよ。」

ティーカップを口に運び一口だけ口に含んだ。彼女はその様子を見て優しい笑顔でこちらを見守っていた。

「ん……」

「あら、気が付いたのね。」

先生はティーカップをテーブルに置き、直ぐ様アネットさんの横に付き座り込んだ。

「意識はある? 気分はどう?」

上半身だけ起こし右手で頭を押さえている。

「良かった、無事だったね。」

「よ、か、った……?」

安堵の表情を浮かべる先生の横で彼女はわなわなと震え上がっていた。

「何が無事よ!!」

夜間の研究室に怒号が響いた。静寂に包まれていた空間に劈くような激しい感情が鳴り響いた。

「私は……私は……何も無事なんかじゃない!!」

押さえていた右手に徐々に力がこもり始め握りしめた。爆発した感情はもう彼女自身抑えることは出来なかった。何よりもその紅潮した顔がそれを表している。

「何で私からパパとママを奪ったの!? せっかく取り戻したのに、せっかくまた過ごす事ができたのに!!」

「残念だけど、あの術ではあなたの記憶を再現することしか出来ないわ。」

「例えそうだとしても、私は、あの日々が、欲しかった……もう、戻らない、あの日々が……」

彼女は力無く項垂れた。絶望、やっと手に入れた希望から深淵へと叩きこまれた状況。

「あなたの、ご両親に対する気持ちは理解できたわ。」

「何を分かった風に!!」

「でも」

そう言ってユウナ先生は立ち上がった。

「あなたは何も教えてくれないから、あなたの気持ちは全く分からない。」

彼女は踵を返し少し距離を取った。

「あなたのご両親、何があったかは分からないけどあなたが六歳の頃に亡くなっているわね。その後、どうしても両親に会いたいという気持ちから死霊術ネクロマンスに手を出した。」

「何でそれを。」

知られたくない一面を突き付けられたのか、彼女の目は丸く見開いていた。

「ごめんね、あなたの部屋に入らせてもらったの。」

パンと胸の前で手を合わせ謝罪のポーズをとったが、そのまま言葉を続けた。

「可能性は非常に低いけど、ご両親を蘇らせることは出来るはず。でも、あなたはそうしなかった。そして、今回の件もそう。時空間術の完成形ならきっと、ご両親を助けられたはず。でも、あなたはそうしなかった。ここからは私の推測だけど、禁忌術を使うことを躊躇っているでしょう。」

少しの沈黙の後、アネットさんは落ち着いた口調で喋りだした。

「ええそうよ。きっとこんなことをしてもパパとママは喜ばないって分かっていたの。でも、それでも会いたかった。」

爆発した感情の反動か、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれていた。

「本来、両親が亡くなることは誰もが通る道よ。でも、あなたの場合は早すぎたの。覚悟ができる年齢じゃなかった。でも、今なら乗り越えられわ。」

俯き涙を流す彼女に、先生はそっと抱き寄せた。それはまるで娘を抱く母親そのものだった。


 アネットさんが落ち着いた頃、ティーカップの紅茶は完全に冷めていた。

彼女は今までため込んでいた感情を爆発させたせいか、多少の疲労が残っているようにも見える。冷めていた紅茶を口に運んでいた。

「お騒がせしました。少し、冷静になって考えてみます。」

そう言って一礼すると、彼女は去っていった。

「カレル君。」

ドアが閉まり、彼女に声が届かないことを確認したうえでボソリと僕に声をかけた。

「彼女のこと、見てもらっていいかな。」

「僕で良ければ構いませんが。」

「何だか、まだ心配なのよね。」

彼女は意味深な言葉をつぶやいた。「何も起きなければいいのだけど。」と。


§


 そして日が経ち一週間。あの後、僕は一度もアネットさんと会わなかった。

残念なことに、三年生の先輩に知り合いは居ない為、講義に出席しているかどうかまでは確認できなかった。ただ、ここ数日の状況からするに、彼女は部屋から一歩も外に出ていないだろう。


 週の中にあった”命力・命術学基礎”の講義にユウナ先生は出てこなかった。代わりに臨時講師のリオン先生が現れた。彼曰く、「暫く帰ってこれない事情が出来たとのことだ。二日後までには帰ってくるから心配はしなくていい。」とのことだった。

また、その時の講義はそれとなく大変だったイメージがある。所謂美形のイケオジであるリオン先生に女子学生は好かれようと必死になり、一方で男子学生はユウナ先生がいない為やる気スイッチオフ。完全に溶けていた光景が目に新しい。

そして、その講義後。僕はリオン先生に呼ばれた。

「ユウナさんから色々と聞いている。君も大変だったな。」

「いえ、そんな。」

なぜか彼の耳にも先週のことが届いていたようだ。

「ところで彼女の様子は。」

「いえ、あれから何も。」

「そうか。」

言葉と言葉の間が重く感じる。彼の細く鋭い目に、強い威圧感を感じる。

「もし、何か異常があって、ユウナさんが居ないならば私を頼ってくれ。頼むぞ。」

そう言われた後、一礼して部屋を出た。正直なところ、何かあって彼を頼る事態にならないことを強く祈るしかなかった。


 そして今日の講義後。ユウナ先生にも同じようなことを聞かれた。

しかし、僕の答えは決まって同じく「何もない。」それだけだった。


§


 その夜。

何故か非常に疲れていた。その晩は、汗を流した後、買い合わせのものをさっと食べてそのまま横になった。眠りについたのは非常に早かったと覚えている。しかし、眠りは浅かったのか色々な夢を見ていた気がする。

そして、あの瞬間、夢の光景が一瞬で強い赤と橙に染まり、息苦しさを覚えた時、体を叩き起こした。

「燃えてる。」

真っ先に出た言葉がこれだった。黒煙が室内に充満し、赤と橙の炎が室内を覆っていた。頭の処理が追い付いていない。かじ……火事だ。

直ぐ様、玄関を確認したが炎に覆われており脱出は出来ない。そして、後ろ、窓。そこまで来ていない。行ける。閉まり切った窓を開きそこから飛び出した。一階だったことが幸いし無事僕は脱出できた。

周囲には野次馬が大勢いることと、巡回の警備隊が水の命術を使って消火活動をしていた。

助かった……そう安堵したものの、頭をよぎったのは隣の部屋。

「アネットさん、まだ中にいるんじゃないか!?」

アネットさん!!そう叫びながら体は動きだしていたのだろう。その姿を見た警備隊に直ぐ止められ、僕は身動きが取れなくなった。

「中に、中に人がいます。」

「君、落ち着きなさい。そこの部屋の彼女は救出した。」

「じゃあ、彼女は。」

「病院だ。あと出火元は、彼女の部屋だ。それと、こんなものも。」

そう言われて渡されたのは焦げたレポート用紙が一枚。それを開いた僕は言葉を失った。


――ごめんなさい。やっぱり私、両親に会いたいのです。――


「そんな。」

「嫌な予感、当たっちゃったね。」

振り返るとタオルケットに身を包んだユウナ先生の姿があった。非常に悲しそうな表情を浮かべていた。

「きっと、彼女自身も必死に乗り越えようとしたけど、何処かで折れてしまったのね。」

「そう、ですか。」

正直、言葉を出すのも辛かった。彼女の境遇を考えると、こんな手段でしか彼女を救えることができないのかとまで思ってしまう。


「カレル君、家に来ない? 今、居場所がないでしょ。」

 その言葉に僕は面を食らった。思わぬ提案であったことと、それと同時に僕の生活の拠点が失われたことを理解したからだ。その時の僕はこう答えるしかできなかった。

「はい、お願いします。」

手元に残ったのは、ベッドのすぐ横に置いてあった財布、何時も着けていた腕時計、ただそれだけだ。それ以外は何も無い。今、この瞬間、改めて全てを失ったことを理解した。

「あの、先生。アネットさんはどうなるのですか?」

先生の家へ向かう途中、僕はどうしても気になって聞いた。

「きっと、病院の治療が終わった後、放火の疑いで捕まると思う。」

「そんな。」

「でも、これは彼女の選んだことよ。」

案外、冷たいのだと思った。

「本当は、もう少し早くにあの子に会えていたら、こんなことにならなかったのだと思う。」

「それは何故ですか。」

「彼女の両親に会ってきたの。そして、伝えておいてほしいって言われたことを聞いてきたの。」

今、さらっと言っているのだが、既に意味の分からないことを言っていた。

アネットさんの両親は既に亡くなっているのに会って来た? それって、とどのつまり。

「”死後の者が住まう世界”に行ったのですか?」

「はい、そうです。」

相も変わらず突拍子もないことを言う。彼女の発想がぶっ飛んでいる。もしも本当に行けたとしたのならば、「自称:神」じゃなくて本当に「神」なのかも。そう考えないとダメなんだろうな。

「だから、今回は私の落ち度でもあるの。」

だからか、彼女が悲しそうな顔をしていたのは。

そんな話をしながら着いたのは、アランドの王宮に近い城下町”ランベル・ロット”の一角にある居住区だった。

「さ、いらっしゃい。」

「失礼します。」

急だとは言え、流石に外を歩いたスリッパを使う訳にはいかないだろう。そう思い、室内履きだったスリッパを玄関で脱ぎ、中に入った。

室内は非常に落ち着いた雰囲気で、明るめのブラウンを中心とした家具で整えられた部屋だった。中央にあるソファに窓から月明りが差し込んでいた。

「さ、座って。」

彼女はソファに座るとポンポンとソファを叩いて座ることを促した。僕は彼女の言う通りソファに座ると、さっきまで彼女を包んでいたタオルケットの半分を僕にかけてきた。そして、その半分は彼女にかかっている。

「こういう時は、傍に人が居た方がいいの。」

そう言うと、彼女は僕の肩にもたれ掛かってきた。

「おやすみなさい。」

疲れもあってか、彼女の体温の温かさのせいなのか。

月明かりが差し込む中、僕はすんなりと眠りについた。

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