第4話 藤の花房 

 「花まつり」、もしかしたら、普通の人にはあまり馴染みのない言葉かもしれない。これは、四月八日、お釈迦さまの誕生を祝う仏教行事である。

 僧を父に持ち、お寺で育った私には身近であり、楽しい行事のひとつだった。

 四月八日の朝、小さな誕生仏(赤ちゃんのお釈迦さま)を祀った花御堂を、近所の花屋さんが届けてくれる色とりどりの花で飾るのは、私と妹の役目だった。

 母は甘茶を沸かし、お祈りに来る信徒さんの為に、それをポットに入れ、紙コップを添えて、本堂入口、花御堂の脇に置いた。

 甘い雨が生まれたばかりのお釈迦さまに降り注いだという伝説になぞらえて、誕生仏に甘茶を掛け、祈る。

 甘いような少し苦いような不思議な味の甘茶を飲む。

 一年に一度だけの楽しみである。


 

 

 ルンビニーの花園に憩われた摩耶夫人は美しく咲き乱れた一枝を手折ろうとされて、右手を差しのべる動作のうちに、王子の誕生をみた。

 無憂華の花は甘く咲き匂い、天地は歓びに満ちあふれ、甘露の雨は、匂い芳しき花びらとともに、この王子に降りそそぐ。

 時、四月八日。シッダルタ(全ての願望は成就する)と名付けられた。それは、釈尊仏陀の誕生の日のワンカット。

 それから、二千五百年の歳月が流れ、今この日本の地のそこここの寺院に、誕生仏を祀る花御堂を荘厳(しょうごん)し、釈尊誕生の仏教行事が展開される陽春。

 甘茶の葉をにだし、甘草を加えた独特の、口にしたあとにあのさわやかな甘さの残る甘茶は、ふっと子供の日の淡い郷愁につらなるのである。小さな瓶や、こっけいすぎるほどの大きな容器に甘茶を求めた童心の、ゆくりなくも甦る日なのだ。

 お大師様の大本堂の大きな提灯の下で、甘茶を嬉々として分けてもらったこの大師あたりの子供達は、幾年かのち、必ずそんな昔を心の糸にたぐり寄せることができるのであろう。

 「瓶にさす藤の花房短ければたたみの上にとどかざりけり」は、誰の一首であっただろうか。

 朝まだき、小さな私は、大きな籠とはさみをもって、築山の岩場から生えて、大きな花房、一尺もあっただろうか、をつける藤の花陰に至る。

 むらさきの藤の一本と白藤の一本、あわせてわずか二本の藤の木は、それでも幾百という花房を池に映して垂れる。それは、あたかも、上からも下からも咲き溢れる白とむらさき色のシンフォニー。

 花の露に濡れながら、私は籠にいっぱいの白とむらさきの藤の花房を摘とる。摘終わるころ、暖かい陽射しに目ざめた虻の群は、蜜を求めて、羽音をひびかせてやってくる。少しはやめに咲いた紅つつじの花もいくつか添えると、竹籠は花の色でこぼれんばかり。

 朱と黒に塗りわけられた花御堂は、まえの日にきれいにぬぐわれて、広い本堂の廊下の正面に置かれて、飾られる花を待つばかり。黒びかりする小さな誕生仏のえまいは、私の心をいっそう優しくする。花が花御堂の屋根から落ちないように張られた木綿糸は、父の工夫ででもあったのだろうか。

 朝食も満足にとらず葺きあげる花御堂は、白とむらさきのその色ばかり。

 そんなとき、つつじの早咲きのいくつかが、くれないの点景を添えて、私はすっかり満足してしまう。

 たまたま学校が休みの日であれば、一日に何回も本堂に通う。そして、二度、三度、甘茶を誕生仏に注ぐ儀式。

 そのあとが、本当は目あてだったということを白状しなければならないのかもしれない。美しいお重に盛られたお団子の甘さが欲しくて、この花御堂に通っていたのだ。それを皆は知っていた筈なのである。それでも、末っ子の私は、すべてをゆるされていたのであろう。まだ誰も起きないうち、厨口から、一人朝もやの中に池の淵の滑りやすい岩かげに花摘みにゆく私。そんな役目であったのは、誕生仏に供えられたお団子の味との交換条件であったのかもしれない。

 また学校から帰ると、「今日は何人お詣りに来たの?」と首を傾けて聞く私だった。

 その頃、「飴屋のおばあさん」と家の誰もが呼んだ老人が近所にいて、花まつりの日は、誰よりも早くお詣りに来るので「今日は飴屋のおばあさんは…」とも聞くのが常であった。

 国定公園に指定された南房総は桜の季節も終わるのであろう。山藤や陽炎のゆらぐ陽春がいっぱいの、そんな昔とかわらぬ自然を保っていてほしい。館山の豊津の丘の遠い追憶に重なる想いなのである。

 「飴屋のおばあさん」も、花御堂を私に飾るように仕向けた僧の父も、すでにない。来年も花がたくさん咲くようにと、伸びすぎた藤の蔓を摘み取っていた、手入れ好きの父の姿が、私に花まつりの行事を忘れさせないでくれるのであろうか。

 雨の日も、風の夜も、布教伝道にはげんだ仏陀釈尊の遺徳を忘れないことを、この花まつりの行事を通してつくづくと感じてほしいという気がしきりにする。

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