第3話 工都夕景

 その次は翌月3月の冊子に載る。

 川崎の市電について、江戸名所図会を引きながら綴っている。

 私は、川崎に市電があったことを知らない。工場地帯を走っていたために、朝夕以外は閑散としていた路線らしく、そもそも知名度が低い上、どうやら私が生まれる前年に廃止されてしまったようだ。昭和十九年から走っていたというこの路面電車、一度乗ってみたかった。


   

 川崎の市電は、いまだに十五円の運賃を保持しているというが。

 川崎に市電があるの?と、不思議そうに問う人の方が多いほど、川崎の市電の存在は、あまり知られていない。だが、「さいか屋」といえば、誰もが「あゝ、あのデパートか」というくらい有名で、品物もよく揃っているといえよう。その「さいか屋」の下がこの市電の終始点?なのである。

 ここを出た市電は、すぐに急カーブして左へ曲がり、第一国道を突っ切って、不器用にゆれながら、浜の方を指して鈍い車輪の音をひびかせてゆく。

 いくつめかの電停に、「渡田新町」や「渡田三丁目」それに、「成就院前」などという、珍しいひびきをもつ標識が立って種々様々な人々を乗降させている。

 朝は、工場へ向かう勤め人をいっぱいにつめて、それは工員や、オフィスレディや。昼間働きながら定時制の学校に通う若人や、そんな人達の夢とのぞみを乗せながら、いわば中心街を離れた通りを、それでもこの市電は、ひたむきに走るのである。

 昭和電鉄や日本鋼管などの工場群をめざす通りを、朝まだき動く市電は、工都川崎のまた一つのシンボルなのかもしれぬ。

 夕方は、工場帰りの人のむれにまじって買い物に出る主婦や、若い女の子達のボーリング場やスケート場に急ぐ思いをものせて、この市電は、その車輌の響きを遠慮しようとはしない。

 「江戸名所図会」は、一人の著者が短い期間に完成したものではなく、神田雉子町の名主、斎藤幸雄、養子の幸孝、幸成の三代が継承した努力の結果であったといわれているが、その中巻二には、前述の「渡田」あたりのことがあるので紹介してみたい。

「新田大明神の社」と題した項には、

「堀の内山王の社より、耕田を隔てて七十ばかり南の方、渡田村の道より右にあり。(渡田、昔は亘田に作る)例祭は七月二日なり。土俗云ふ、毎年正月元日と七月二日の暁には、必ず、軍馬の嘶く音することありといへり、相伝ふ河北矢口村に鎮座増します庶子義興公の神霊此社に来り給ふ故にしかりといふ。」

と、述べられている。なお本社の祭神のことにもふれ、「太平記」までも引用されていて詳しい。また、「成就院前」という電停があるように、「成就院」は、現存する川崎では由緒ある寺院の一つである。同じく、「図会」には、新田山成就院として、「聖無動寺と号す。同所一丁計南の方、同じ側にあり、新田大明神の別当寺にして、新義の真言宗六郷の宝幢院に属せり。本尊不動明王は、弘法大師の作にして、義貞公護持の霊像なりといふ。今別堂を建てて威怒堂と号し、かしこに安ず、門の内左の方にあり。相伝ふ、義貞公入間川に陣を布き給ふ頃、二童子の枕上に立ち給日、鎌倉退治の心願あらば、亘田の里に安置し奉る所の不動尊を祟信せよとなり。依て義貞公此の霊像に誓願をこめて、竟に高時を討ち亡し給ふといふ。」

と、細々と説明されていて、いたく興味をひかれる。

 この渡田のあたりは、アパートが非常に多い。そこに生活を営む人達にとっては、アパートの一室が、たとえ四畳半一間であっても、輝かしき愛の城であり、ささやかな夢のむすびをもたらす安住の巣である筈である。

 そんな変貌を遂げているこのあたりを、「図会」の作者がもし今の世にあらわれて眺めたとしたら、いったい何を感じるであろうか。なにも、それは渡田あたりにかぎったことではないことぐらい、百も承知してはいるがー。

 市電と浜川崎線を通る貨車の重くにぶい鉄のひびきが、その人達のささやかな夢を、倖せないとなみをこわすことがないように、そんな祈りにも似た心で、時たま車に身をゆだねて通り過ぎた日も幾度かあって、川崎に無縁でない自分を感ずることもあるのである。

 渡田という地名は、亘新左衛門尉早勝の居住の旧址にでも因むものなのであろうか。筆者はそれを知らない。

 「図会」の文にある成就院も、宝幢院も、川崎のお大師様と同宗派であって、ともにその歴史は古い。

 めっきり日脚の伸びたこの頃であるが、今日も川崎の市電は、さまざまな想いをのせて行きかう。夕暮の「さいか屋」の前に君を待って佇つ人の面影を偲びながら、市電のシートに黒瞳がちのかんばせをうつむかせた貴女が乗っているかもしれない車輌の音をきしませながら。

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