第2話 純白の記憶

 ひとつ目の随筆のあとは、父の文章は「境内見てある記」という境内にある碑や建物の紹介が続く。

 昭和四十三年二月に、次の随筆が載る。

 父には双子の姉がいた。終戦の年に亡くなった早苗という名前のその伯母の話を、幾度となく聞いたものだ。まだ小学校三年生だった姉の分も、父は生きようとしていたのではないだろうか。


 

 

 昨年の秋から暮れにかけて、佐良直美の『世界は二人のために』という爽やかな歌が、みんなの耳に流れ聞こえたのは、それが、その年の新人賞を受けた彼女のレコード盤からだということで、おぼえていられよう。

 愛し合う二人にとって、すべては二人のためにある世界となるのだというのは若い二人の愛をかたって、甘く美しい。老いたる者には、青春の一ページをなつかしく繰るにも似て、若さへのノスタルジア。また、愛や恋を失った心にはこの歌の一語一語は、過ぎた日の追憶の魂の流離なのかもしれぬ。

 いま、諸行無常の一語に、愛の別れの心をおさめ、愛別離苦の道理に恋のおわりを納得させるのは間違いではないであろう。

 だが、間違いではないだけに、それらを失なったものの心は悲しくいたみ、うずくのである。だれがそれを責めることができよう。

 若い二人をみるたびに、よそごとながら、その若き二人の前途に幸あれと祈らずにはいられない。よけいなことかもしれぬ。だが、インスタント時代の中にあって、やはり美しいものは、人を愛し、人を恋う心ではなかろうか。

 人を愛する心をなくしたものに会うのは悲しい。人を恋するぬくもりを失なっては、どんなに着飾っても、それは人形の美しさだから。

 二十余年も前になろうか、房総は珍しく大雪に見舞われた。

 まっかな南天の実が、雪にかくれて、所々に赤い色がのぞく。

 当時小学生だった私達(姉弟とよぶべきか、兄妹とよぶべきか迷う。なぜなら私達二卵性双生児だったからー)は朝は、どうやら無事に学校に着いたらしい。

 その日の夕方、小学校から帰る二人は別れ別れであった。大通りを帰ったのかー、まさか、雪に埋もれた田の道を辿ったのではなかったろう。

 私は長靴を履いていったのに、寒さと心細さで泣きながら帰宅したのだった。彼女はなぜ雨靴をはかなかったのか、下駄に足袋のまま。帰りには、足袋をすっかり濡らしてしまって、それでも気丈に泪一つこぼさず帰りついたのは、私より大分遅くなってからだと記憶している。

 太平洋戦争の最中だった当時、私の家は、海軍の兵が多数分宿していて、その炊事の様子や訓練のさまを子供心にものめずらしく眺めていたことを忘れない。もっとも、敗色濃い頃で、防空壕を掘るのが、日常の作業の明け暮れであったようにもみえていたけれどもー。

 私達は、この兵等に可愛がられていた。兵等にとっては、故郷をはなれて妻子のことを偲ぶよすがであったのかもしれない。

 私達は、仲よくしてくれる兵にニックネームをつけて、楽しんでいたのを、ついこの間のことのように思う。

 その人たちの中には、終戦間近かに出動して、戦死したものもあったと聞いている。多くは、無事に帰省していったのであろうが、今でも、田舎の寺に過ごした数ヶ月や数年の日を思い出してくれるであろうか。冬の陽の淡い枯芝の上で、男女二人の小学生を相手に遊び楽しんだひとときのことを忘れてしまったのであろうか。終戦数年後、訪ねきた人があったというけれども、さだかではない。そんな思い出よりも、いまわしい戦時の記憶をうすれさすために、よけいなことを考えて、忘れ去ったものなのかもしれない。

 この兵等のくる前にはいわゆる海軍の予備学生が数十人、本堂を占領していたのを、微かな思いの中にたどることができる。

 私達二人は、早苗と乃武春といった。

 彼女の方が姉だと教えてくれたのは、やはり母であった。

 二人は大変仲がよかった、というと、いささか嘘になろう。かといって、かくべつ仲が悪かったわけでもない。意外に口を聞かなかったのではないかと思う。早苗は良く勉強するのに、お前はちっともしないといって、きょうだい達から責められたものだった。

 この雪の降る日からいくらもたたぬ終戦の年の秋、病を得て、物資の欠乏と医療の不充分なまま帰らぬ旅に出たのは、姉の早苗であった。

 先年亡くなった母は、何年たっても、その年ごろの女の子をみては、「ちょうど、早苗ぐらいだねえ」と、良く話すのだった。

 あの雪の白さの中を泣きもせず帰った、強いはずの姉が、あっけなく他界し、どっちかというと弱虫だった私が、今も命あるということは、私には生きねばならぬ何かがあるのであろう。

  「世界は二人のために」の引用は、色々な二人があるということをしってもらいたかったからに他ならない。

 恋人でもない、愛する人でもない、そういう二人の幼い命のふれあいが、どこかに、私の生命の中に流れているような気がしきりにするのである。この姉の墓は小さく、私が死んだら、早苗のわきに埋めるように、といいのこした母の墓と並んで、びわ畑を越えた小学校をのぞむ小高い丘に建つ。法名は僧であった父の手で「総善妙信童女」とつけられた。

 近頃はあたたかくなって、あまり雪もふらなくなってしまったといわれて、常春の安房の国の名をほしいママにしている館山あたりの、遠い日の、ちいさな出来事につらなる思い出である。


     昭和四十三年二月

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