父と語る

あきの うみ

第1話 大師春秋

 父は昭和12年の生まれである。

高校卒業後、僧侶となった。大学生活と二足の草鞋を履いていた時もあった。

 父は勤めているお寺の月刊の小冊子にずっと文章を書いてきた。初めの頃は境内の碑の説明、宗派の紹介のような文が多かったが、昭和41年の夏頃からは毎号随想を書くようになった。


 小学生になってからは、新しい号が出ると、父の文を読んだ記憶がある。もう少し大きくなると、下書きも読んだし、完成原稿を音読したりもした。父はまだ健在だが、健在である今のうちに若い頃の父に触れたくなった。

 黄ばんだ冊子の中には私が生まれる前の父が詰まっている。

 若き日の父が何を感じ、何に迷い、何を喜び生きていたのか、父の文章に触れるとその頃の父と語れるような気がしてくる。

 そんな父の随想を思い出と共に綴ろうと思う。


  

 『大師春秋』 昭和41年7月

 一万余坪の平間寺境内は、大本堂、不動堂、山門、大本坊、祈祷殿等、それに様々な付属建築物が瓦を連ね、一大法城の構えを見せて、幾百余年大師信仰の道場として栄えてきたことを物語っている。境内には、永い歳月を風雪に耐えた石碑や、歴史を刻んだ数々の小遺跡を見出すこともできる。

 私は、今こうした一隅を好んで散策するのが日課のようになってしまった。

 十一年前、私は房州半島南端の館山を離れ、当時別格本山と称したこの平間寺に入寺したのだった。

 その頃、広い裏にはには、春はすみれ、土筆、夏はきりん草、秋は芒のそよぎ、冬は花八手が白く淡い陽の中に光っていた。私は、いつも一人で、そんな四季の光と影の中に自分を見出していた。その故かどうか、私は今も一人よく庭を躊躇いがちに歩くのである。

 絣の着物をつけて、将来の不安や若い苦悩を抱きつつ、春の景色の庭を彷徨したり、京都の智山専修学院を了え、僧侶としての前途に夢を託して、夏の夜の星の散りばめられた空に深呼吸したり、遠く離れて、いつも私の瞼の中にあった父を亡くしたのもこの頃であった。父は、私が僧としての路を歩むことをいつも願っていたらしい。言葉としてあらわす父ではなかったけれども、親子であれば、愚鈍な私にも、それはわかりすぎるほどわかっていたのである。それだから、せめて今少し生き永らえていて、私の僧としての姿を認めてほしかったと、この頃から今に至るまで思わない日々はなかったのである。

 平間寺が大本山を呼称するようになったのは一昔前のこと、それに大本堂への遷座式が昭和三十三年の吉春、二十年ぶりの大開帳と大本堂、不動堂の落慶が昭和三十九年、私はこの十余年いったい何をしてきたのだろうか。浅学に加えて非力、無為の日々を慚愧するばかりである。今二十九歳という重みばかりが私の肩をせめる。それが自分自身の招いた結果であることを知りながら、とにかく姿勢を正そう。前向きになるように。

 「鈍は痛い。」これは、私が、子供の頃からきかされてきた田舎での格言(?)である。

 私がこの言葉を地でいくような失策をしたことを知っている人はあまりいない。自慢できることではないから、公表するのは少しく躊躇するのだけれども。

 それは、大本堂の宿直制度の確立しない頃の話。高さ三間ほどの鉄扉は、屯数であらわした方がよいくらい重量がある。あいにく、その日の夕方は、私一人でこの重い戸を閉めなければならなかった。それまで、油をささなかった扉は、うそのようにかたかったのだ。すくなくとも、その日の朝までは。それが、私が手をかけるや否や、羽根よりも軽く手元にしまってきて、手を引き込める間もあらばこそ、見事(?)右の人さし指を扉の折れ目に挟んでしまったのである。瞬間バリッという音がしたか、しないか。これは、ちょっとオーバーな表現。血はだらだら流れ出るし、その時は痛みも覚えなかったけれど、タオルに右手をくるんで宮川病院の外科にかけこんで、幾針か縫い終わって、麻酔の効かない指先を眺めたとたん急に激痛となって、怪我をした現実が実感となったのを、きのうのことのように覚えている。その日の昼、油を差してくれた人のいたことを知っていれば、こんな目にあわずに済んだのかもしれない。私は、この経験が例の「鈍は痛い」という事なのだと知り、自分の至らなさをつくづく感ずるのであった。そのために自動車交通安全の祈祷の錫杖を振ることが出来ず、他人に変わってもらい、仕事をなまけるなと、叱責され、「鈍は痛い」私は益々小さくならざるを得なかった。

 この傷のために通院約二ヶ月、冬はこの指だけが傷み、その扉のところに佇つたびに、疼く指をさすらねばならなかった。このために、修学簿の体育実技の欄が「優」でなくなるのではないかと思うこと幾たび。私はいつか卒業させられてしまったらしい。住所は太田区蓮沼にかわってしまったけれども、相変わらず私は大師の膝元にあって、お大師様の庇護の下にある時、心が安らぐのである。

 一万坪の境内は良く整備されて感傷的になるような場所は容易には見つからなくなってしまったけれども、私は今日もお天気さえ良ければ境内を見てあるくのである。故郷の病母に無沙汰ばかりする自分を責めながら。

 今までに私をささえてくれたものは、有形無形をとわず、如何に多くあったことか、今更のように恩を感ぜずにはいられない。人はおろか、あの重い鉄扉でさえも、私にとっては師のように尊い。

 大師の裏庭には、忘れな草が可れんな花をつける。ここだけは、自然の息吹が、川崎という工都の中にあって、何ものかを持しているように思えるのだ。一隅を照らす、という言葉があるけれども、私にその一隅を照らすほどの何かがあるのだろうか。



 


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