ヘイキチ フェスティバル③

 午後の後半戦に入ると、イカ焼きでパワーチャージをしたおかげなのか、二人してしばらく元気に店番をしていた。そのおかげかは分からないが、午前よりも売上のペースが上がって、深月は「ボーナスもらえるかも」と一人でウシシと嬉しそうに笑っていた。

 

 ボーナス制度があるのかどうかは知らないが、実際深月はそれを貰うにふさわしい活躍をしている。体感だが、売上の7割は深月のおかげなんじゃないだろうか。

 理由は明白だ。深月目当ての男がひっきりなしにやってくるからだ。これまで来た客のほとんどが男で、しかも深月が店番をしているときにやってきていた。

 ちらちらと遠慮気味に見る男もいれば、露骨に連絡先を聞く男まで、傍から見ていると「自分は女目当てでやってきました!」と主張しているのに等しいような男ばかりだった。彼らを見ながら、男っていうのは悲しき生き物だなと、自分を含めて哀れに思った。

 一方の深月は慣れたもので、何も気にしない様子で華麗なスルーを決め込んでいた。連絡先を聞かれたって、嫌味を含めて「お買い上げありがとうございました」の一言で片付けている。これまでも似たような目に合ってきたのは想像に難くない。それを見ながら、美人は美人で苦労しているんだろうなあと、いろいろ想像して勝手に同情を膨らましていた。


 そんな感じで二人でしばらく頑張ってはいたのだが、そのバイタリティも長くは続かなかった。陽が少し傾いてきたせいで、テントの中に容赦無い熱い光線が差し込み始めた頃、その熱にやられたせいもあって、二人して精根尽きた様子で椅子にへたりこんでしまった。

 目の前の深月は気怠そうな顔をしながら、パタパタと団扇でその顔を扇っている。それでも熱に対する涼が足りないのか、白い首筋を何度か汗がつたっていった。

 俺はその様子をぼーっと見ながら、コンビニで買ってきた凍ったペットボトルを首元に当てて、冷やされた血流が全身に運ばれる感覚をおぼろげに楽しんでいた。

 周りの雑踏は気力を失った俺達とは対象的に、むしろどんどんと活気を得ているように感じる。こんなに暑いのによく歩き回る気になるなと、信じられないという目でそれを眺めた。


 そうして二人してしばらく死んだように人混みを眺めていた。彼ら彼女らがやってきたのはそんな時だった。


「あれ? 深月ちゃん?」

 不意に甲高い女の声が聞こえてきたと思ったら、いつのまにか店の前に大学生らしき女が立っていた。短い髪を2つ結びにした女は、人の良さそうな顔を少し驚かして、深月の方を見ている。

 一方の深月は、その客の到来を予想していなかったのであろう、団扇を動かす手が止まり、口を半開きにして固まっている。その表情は分かりやすくまずい状況になってしまったと物語っていた。


 女は少し目を細めて、骨董品を見極めるかのようにじっくりと深月の顔を見つめ始める。それからすぐに、パッと明るい表情をその顔に浮かべた。

「ああー! やっぱり深月ちゃんだ!」

 女が甲高い声を上げると、その声に引き寄せられるように、一緒に来ている仲間であろう集団が「なんだ? なんだ?」という様子で店の前に集まってきた。

「お、本当に神原さんじゃん」

 どうやら目の前の集団は深月の知り合いらしく、深月を見ると、はしゃいで口々に挨拶を投げかけ始めた。

 深月はそれに観念した様子でその場に立つと、困ったように笑いながら、小さな声で「おつかれ」と言葉を返した。


「髪型いつもと違うから、最初人違いかなーって思ったよー。何? バイトしてるの?」

「うん、バイト」

「そっかー。だから、深月ちゃん今日一緒に遊べないって言ってたんだね。それならそれでお祭でお店してるって言ってよー、水くさいなー。そしたら、みんなで応援に行こうってなったのに。ねえ、みんな?」

 周りの集団は女の言葉に同調するように、頷いたり、軽いぼやきを言い始める。それに対して、深月は相変わらずの困り顔で笑って答えた。


「ごめんね、陽菜ひな。みんなに気を使わせたくなかったから黙ってようと思ってたんだ」

「深月ちゃん優しすぎるんだよね。私達にそんな気使わなくていいのに」

 陽菜と呼ばれた女は口を尖らせると、拗ねた子供のように深月を見つめた。

 深月はそれを見ると、申し訳なさそうに笑って、胸の前で手を合わせた。


 猛烈な違和感。目の前の光景に猛烈な違和感を感じる。例えるならば何だろうか……そう、母親が電話口で見せる外行きの顔を見たときのような、あの感覚に近い。

 目の前にいる、このはんなりとした立ち振る舞いの女性はいったい誰なんだ。これは本当にあの深月か? 優しそうな表情に声、上品な笑い方に振る舞い。まるで上流階級の令嬢、別世界の天上人、普通の人には感じない華が香って、近寄りがたい雰囲気なのだ。やること全てがさっきまで目の前にいた女とは真逆じゃないか。

 この状態の深月は遠目でしか見たことがなかったが、まさかここまで素の状態との乖離があるとは思わなかった。そりゃ、友達に本当の自分がバレるのを極端に恐がるわけだ。ようやく深月の抱える本当の気持ちが分かった気がする。


 陽菜さんは深月が謝るのを見ると、すぐに人懐こい笑顔で「冗談、冗談」と笑って答えた。

「そうだ。私、喉かわいてるから飲み物買っちゃおっかなー」

 陽菜さんが航と同じことを言い出した。人は知り合いの働く所に行くと、どうしても気を使って金を使わざるを得ない性を持っているらしい。

「無理して買わなくてもいいよ。申し訳ないから」

 一方の深月はさっきの俺と全く同じことを言い出した。さすがの深月もこの姿の時には人に遠慮をするらしい。


「違う、違う。本当に飲み物が欲しいの。深月ちゃんは心配性だなあ」

 困り顔の深月に、あははと陽菜さんが笑いかけると、どれにしようかなと指で語るように飲み物を選び始めた。それに続いて周りの連中が、俺も私もとクーラーボックスを覗き込み始める。

「みんな、なんかごめんね」

 深月は申し訳なさそうな顔をしているが、どこか嬉しそうにも見えた。優しい眼差しと言うのか、愛情の表出と言うのか、そんな感じの表情を浮べている。

 どうも、今目の前にいる人達は本当に深月と仲が良いらしい。深月の醸す雰囲気が何よりの証拠だった。


 それから続々と飲み物と硬貨が交換されていくと、クーラーボックスの前で悩む人間は残り一人となった。

 背の高い男で、ウェーブがかった黒髪、四角いメガネの奥に見える優しそうな目が印象的な男だ。男はアゴに手をあてて、優柔不断な様子でクーラーボックスの中を覗いていた。

「もう、西城先輩はまた選べない病が再発してるんですか?」

 西城と呼ばれた男は横に立つ陽菜さんの方を向いて、参ったなぁとばかりに笑って答えた。それを見つめる陽菜さんの顔は「からかうのって楽しい!」と書いてあるのに等しいほどのいたずらな笑顔をしている。


「ごめんね。すぐ選ぶから」

 西城さんは一瞬クーラーボックスに目を戻すと、すぐに顔を上げて深月に呼びかけた。

「深月さん、コーラちょうだい」

「あ、わ、分かりました。さ、しゃんびゃくえんになります」

 え?

 思わず深月の方を向いた。笑顔は引きつり、体が強張り、クーラーボックスからペットボトルを取り出す動きがぎこちない。100人に見せて、100人全員がコイツはテンパっていると断言してしまうような無様な有様だ。どうした深月。


 深月は強張る体で何とかコーラをすくい上げ、それに付いている水滴を拭こうとする。しかし次の瞬間、ざぶん! と盛大な音を立ててコーラは元の水中へと戻っていった。どうやらテンパって焦っているせいでリリースしてしまったらしい。

「ごご、ごめんなさい」

 深月が焦って氷水に手を突っ込む。その顔はのぼせたように真っ赤に染まっている。

「神原さんドジっ子か? かわいいな」

 周りの連中が笑って深月をはやし立てる。西城さんもそれにつられてクスクスと笑った。深月はそれに構う余裕も無いのか、赤い顔のままで一心に取り出したペットボトルを見つめて、それに付く水滴を拭いていた。


「ど、どうぞ」

 深月がコーラを西城さんへ手渡す。その間も西城さんの顔を見ることはなく、視線は手元に注がれていた。

「ありがとね」

 西城さんは優しい笑顔を作ると、深月の空いた手の平にそっと小銭を置いた。深月は自分に向けられた笑顔をようやく一瞬だけチラッと見ると、恥じらう少女のようにさらに顔を赤くして手を引っ込めてしまった。

 これまた初めて見る顔だった。いつもの深月からは想像もできない表情。それにしても、なんて分かりやすい人なんだ……


 陽菜さんはその様子を楽しそうに見届けた後、深月に向かって口を開いた。

「じゃあ、あんまり邪魔しちゃ悪いし、私達行くね。お仕事頑張ってね深月ちゃん」

 それから、陽菜さんの号令に合わせて、集団は楽しそうに喋りながらゆっくりと店を離れて行った。

 相変わらずダルマみたいに赤い顔の深月は、それに対してフリフリと小さく手を振って見送った。


 集団が見えなくなったところで、深月は体中の緊張を吐き出すように大げさにため息を1つ。そして、焦った様子ですぐにこちらを向いた。

「わ、私変じゃない?」

「いや、めちゃくちゃ変だったよ」

 深月は立ちくらんだかのようにフラフラと体を揺らしたかと思うと、ヒザから崩れる形で椅子に収まった。それから手で額を支える形に俯くと、再び口を開いた。

「やっぱり、そうだったんだ。そんなに化粧崩れてる?」

「いやいや、変なのはそっちじゃないから」

「は? じゃあ、何?」

 深月は皆目検討付きませんと言わんばかりにポカンとした顔でこちらを見てきた。

 あんなに誰が見ても分かる形で取り乱していたのに自分で分からなかったのか? どんだけテンパってたんだよ。


「いや、西城さんだっけ? あの人前にしてから終始キョドってたぞ」

「え? マジで?」

 赤い顔から、今度は血の気が引いていく。人の血流はこうも簡単に行ったり来たりするものかと、くだらないことに感心してしまう。

 俺が頷いて答えると、深月は重力に加えて絶望の重みが加わった頭を再び手で支えた。


「あの人達は大学の知り合い?」

「ああ、同じ演劇部の人」

 考える人よろしく石像のごとく固まって落ち込む深月は、微動だにせずに言葉を返してくる。

「演劇部? 深月、部活やってたんだ」

 深月は重そうに頭を上げると、疲れた目つきでこちらを見て「うん」と小さく呟いた。


「ねえ、そんなに私キョドってたの?」

「そりゃもう、最初っから。顔は真っ赤でぎごちないし、300円のことを『しゃんびゃくえんになります』って言ってたぞ」

 少し茶化すつもりで深月の声まねをしたのだが、予想以上に鶏冠とさかに来たのか、ギロリと凶器のような顔つきを向けられる。

 その恐ろしい視線に堪らず、取り繕うように笑うと、すぐに言葉を続けた。


「あはは、えーと……も、もしかしてあの人が深月の好きな人なの、かな?」

「それがバレちゃうくらいキョドってたんだ私」

 深月が目を伏せる。

 まずった。さすがに配慮が足りなかったな。落ち込んだ様子でうなだれる深月を前にして、なんと言って声をかければいいか迷子になってしまった。

 辺りから騒音が聞こえてくる中で、俺と深月の間だけ沈黙で満たされる。その空気が張り詰めた世界で数秒を過ごしたが、さすがに耐えきれなくなって無理くり話題を生み出した。

「西城さん、物腰の柔らかくて、優しそうな人だったね」

「実際、優しいんだよ」

 こちらをちらりとも見ずに、まるで地面と会話するように一言だけ。それで深月はグローブを外してしまい、会話のキャッチボールは終了した。それからまた沈黙が訪れたが、続けて口に出せるようなまともな話題は何も頭に浮かんでこなかった。

 どうしたものかと、気まずい空気に顔を引きつらせながら必死に考える。しかし、深月の頭を浮上させられそうな有効な手立てはやはり思いつかない。だから二人して黙り込むしかなかった。


 次に沈黙を破ったのは深月だった。不意に口を開いたかと思うと、おもむろに顔を上げて気怠そうな表情をこちらに見せた。

「前、喫茶店で話したこと覚えてるか?」

「お、おう。素の自分を見せられないって話?」

「うん。あれからさ、お前の言う通り、少しは関係を進展させようと、ありのままの自分を見せてみようと思ったんだよ。でも、見てて分かっただろ。素の姿を見せるどころの話じゃないんだよ、それ以前の問題。まともに話すことすらできないんだから」

 深月が自嘲気味に笑う。その表情には、内に抱えるやるせなさが色濃く映し出せれていた。

 本気で悩んでいることが伝わってくる。さっきの無遠慮な発言が本当に申し訳なくなる。


「その……さっきは何か変なこと言ってごめん」

「何だよ急に。別に怒ってねえよ。黙ってたのは自分の情けなさに落ち込んでただけ。気にしいだな、お前」

「そっか……」

「あ。ただ、あのクソみたいな私のまねだけはちょっとイラッとしたけどな。私、あんなにブサイクな声してないだろ」

 やっぱりあそこは怒ってたんだ。そう思って少し笑うと、それにつられて深月もようやく少しだけ笑った。


「さっきの話だけどさ、いきなり変わるのは誰だって難しいと思うよ。焦らずにゆっくりいくしかないんじゃない」

「そうも言ってられねえよ。先輩は1年もせずに卒業しちまうんだから」

「なるほど、それは……きついね」

 二人して押し黙ってしまう。

 さっきの様子を見てると普通に話ができるようになるにも時間がかかりそうだ。それから仲良くなって、本当の自分を知ってもらって、好きになってもらう。これまで無理だったそれらのことを1年以内にするってことか。……無理じゃね。

 深月の方をチラッと見ると、どうやら俺と同じようなことを考えているらしい表情をしていた。


「……あーー、もう! どうすりゃいいんだよ、マジで!」

 深月の内でフツフツと沸いていたフラストレーションの圧力がついに限界を迎えたのか、突然爆発して大声を上げると、めちゃくちゃに頭をかき始めた。

 それには俺も驚いたが、店の前を通りがかる人は一層驚いたようで、もれなく全員が驚きとも恐怖とも取れる、通常祭の中では見ることがない表情でこちらに振り向いた。


「お、落ち着けって深月。人見てるから」

 思わず立ち上がり、深月をなだめに入る。

「落ち着いてられるかよ。もう絶対無理じゃん。絶対このまま何の進展もないまま先輩卒業しちゃうから」

 深月が若干の涙を瞳に蓄え、上目遣いでこちらを見てきた。

「分かった。じゃあ、こうしよう。俺で手伝えることがあれば手伝うから」

「はあ? 何してくれるって言うんだよ」

「そ、それは……これから考えるけど……」

 こいつ使えねえなという目で見てくる。

「何だよ、頼りねえな。……でもいいや。本当なんだな? 何でもしてくれるんだな?」

 何でもってなんだよ。そんなこと言った覚えないぞ。あんたが言うと何か怖いな。

「ま、まあ、できる範囲なら」

 俺の言葉を聞いてようやく落ち着きを取り戻したのか、ゆっくりと背もたれに背中をつけると、ふぅと小さく息を吐いた。

「じゃあ、また相談するわ」

 深月はこちらを見ずに、周りの音にかき消されそうな小さな声で呟いた。


 そこでようやく噴火がおさまったことを確認すると、疲れた体を元の椅子へと戻した。立ち仕事の疲れに多少の心労が加わったせいで、椅子に沈む体がさっきよりも重く感じる。

「お前こそどうなんだよ?」

「どうって、何が?」

 疲れた体をほぐそうと、軽く背中を反らしていると、不意に深月がぼやけた質問を投げかけてきた。その声は爆発の反動なのか、少し気落ちした様子だ。


「だから、お前は好きなやつとかいないのかよ。私ばっかり言わされるのはずるいぞ」

 いや、ずるいと言われたって、こちらから教えて欲しいと言った覚えはないのだが。誰が見てもそうだとしか思えないような分かりやすいヒントを出して自爆したのはあんたじゃないか。

「うーん……」

「お前だけ言わないなんて無しだからな」

 深月がいつもの恐い顔で逃げ道をふさいでくる。なんて理不尽なんだ。


「いるよ、俺も好きな人」

「マジで!」

 深月が嬉しそうに、昂ぶった様子の声を上げた。さんさんとした笑顔で前のめりになる。

「え、同じ大学の人?」

「いや、違うよ。別の大学」

「ふーん。どういう知り合い?」

「高校の同級生」

「高校の同級生?」

 そこで深月が何かに気づいたような顔をした。

「え? それって、まさか……」

「そのまさかだよ。前に喫茶店で話した高校の同級生。振られても、まだ好きでいるんだよ」

 深月は驚きとも、愉快とも取れる微妙な顔をすると、何度か軽く頷いた。


「あー、そうなんだ。そんなに好きだったんだな」

「まあね。気持ち悪いだろ。振られたのにいつまでも執着して」

 俺の自虐に、深月が焦ったように声を出す。

「ああいや、別にいいと思うぞ。好きなんだから、仕方ないじゃん。気持ちに嘘はつけないもんな」

 深月は腕を組むと、自分の言葉に納得するように、うんうんと何度か深く頷く。


「でも、前の話を聞いてたから、てっきりもう諦めてるのかと思ってたよ」

「諦めてるよ。もう関わる気は一切ない」

 深月は不思議そうな顔で、話の趣旨が分からないといった様子。無言で言葉の先を促してくる。どうもこのままでは終わらせてもらえそうにないので、進まない気持ちを抑えて、言葉を続けた。


「前の告白が失敗した時点でこの恋は終わったんだ。きっぱり振られたしね。だから諦めてる。ただ、頭ではそう考えていても、心がどうしても引きずられていて、忘れられないんだ。まあ、ただ最近ようやく気持ちも薄れてきたし、もう少しで未練も無くなると思うんだけどね」

 深月が地雷を踏んでしまったと言わんばかりに、あからさまに気まずそうな顔になる。それから、顔と同じくらいに気まずい声色で口を開いた。

「そんなに想い続けてるのなら、もう1回ぐらいチャレンジしてみないのか?」

「もういいんだよ、本当に」

 もうこれで話は終わりという意思を込めて、答えを返した。もうこれ以上話させられるのは嫌だった。

 それを察知してくれたのか、深月はまだ何かを言いたそうな様子だったが、それを飲み込むと、無理やりの笑顔を作った。

「……そっか。きっとすぐに新しい、素敵な恋が見つかるさ」

「おう」


「すいませーん」

 不意にクーラーボックスの向こうから、久しぶりの客の声が聞こえてきた。少し重くなった空気の処理に困っていた俺にとって、その客は救いの手のように思えた。俺と同じように感じているのか、深月が逃げるようにすぐにその対応へと向かう。


 深月の接客する様子を何気なく見ながら、頭の中を考えたくもないことがぐるぐると巡っていた。

 深月に語ったことは全て本当だ。好きな気持ちは確かだけれども、それを諦めるつもりでいる。一方で、実は深月には言わなかったもう1つの気持ちもあった。まだチャンスがあるんじゃないかと、今なら受け入れてもらえるんじゃないかと、時折心のどこかから、そんな希望を持った自分が這い出してくることがあった。

 そんな自分がどちらも嫌いだった。大人ぶって、物分りが良いようなふりをして、簡単に諦めようとする情けない自分が嫌いだ。甘く浮かれた考えをして、同じ失敗を繰り返しかねないバカな自分が嫌いだ。

 でも、本当に嫌いなのはどっちにも進めずに苦しみだけを生み続ける優柔不断な気持ちだった。どっちでもいいから心を決めてほしい。いつまで経っても次に進めず、両方の想いが交互に現れては真綿で首を絞めていく。そうやって自らの敵となって人生の邪魔をしてくる心が本当に嫌いだ。俺には本当の自分が何を望んでいるのか分からない。それがとても苦しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

煙にふかれて ポテトグラタン @potato_gratin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ