ヘイキチ フェスティバル②

 航は驚いた様子でこちらを見ていた。いつも病的に白い肌は、気温のせいか、今日は少し色を帯びている。

 それから、もう一人、航の横に遠慮気味に立つ女の子がいた。少し暗めの茶髪をミディアムにした、背の低い子で、はにかんでこちらを見てきている。ちかちゃんは、相変わらず人見知りを発動しているようだった。

 そんな二人が仲良く手を繋いで目の前に現れた。この炎天下で手を繋ぐのはさすがに暑いだろうと思うのだが、恋はそんな人間の感覚も麻痺させてしまうのだろうか、二人は平気な様子で固く手を重ねていた。経験の無いおれには、その光景が不思議でならない。いつか、俺にも分かる日は来るのであろうか。


「なにしてんの、おまえ? バイトなんかしてたっけ?」

 航が怪訝そうな顔をする。

「あー、えーと……ちょっと友達に手伝い頼まれてね」

「友達? 誰? 大学のやつか?」

 しまった、俺はアホか。余計なことを言ってしまった。まさか深月に頼まれたなんて言えるわけがない。そんなことを知られたらマジで最悪だぞ。航の性格的に、根掘り葉掘り聞かずにはいられないはずだ。俺の口から深月の秘密を暴露することはないにしても、何をきっかけにバレてしまうかは分からない。それだけは避けなければ。

「こ、高校時代の友達だよ。そいつが今日熱出しちゃったから、ピンチヒッターで頼まれちゃって」

 焦る気持ちを気取られまいと、必死に平静な様子を演じて、適当な嘘をついた。俺の波立つ心とは対照的に、航はさして興味が無い様子で、「ふーん」と静かに呟いただけだった。その様子に、ほっと胸をなでおろした。


「平吉くん、お久しぶり」

 航の尋問が一段落すると、ちかちゃんが遠慮気味に話しかけてきた。ちかちゃんと会うのはこれで3度目だが、まだ慣れてもらえてないらしく、航の影に隠れるようにしている。

 ちかちゃんは素が明るい子なのだが、人見知りの気があるので、本当の表情はなかなか見せてもらえない。前に航と一緒に飲みに行ったときは、かなり仲良くなれたと思っていたのだが、期間が空いたせいかその距離はまた離れてしまったようだ。あの時は、ちかちゃんお得意のシマウマものまねを披露してくれるぐらいに仲良くなれたのに、残念なことだ。ちなみに、そのものまねにドン引きしたのはここだけの話だ。


 ちかちゃんは航の手をしっかりと握り、もじもじとこちらを上目遣いで見てきている。

 航いわく、こういう控えめなところと素の明るさのギャップがたまらなくキュートだそうだ。俺にはキュートかどうかは分からないが、航が惹かれるのは何となく納得できる。人は対照的な人に惹かれると聞いたことがあるが、まさしく無遠慮な航と、遠慮がちなちかちゃんを横に並べると、対照という言葉の説明にもってこいなカップルだった。


「ああ、久しぶりだねちかちゃん。元気だった?」

 通り一遍の挨拶を返すと、ちかちゃんは照れたように笑って頷いた。その姿は実に微笑ましい。何となく守ってあげたくなる笑顔だ。この気持ちが保護欲っていうものなのかもしれないな、と一人で合点がいった。


「せっかくだし、飲み物買っていくか」

 航がちかちゃんの方を向く。それに対して、ちかちゃんが笑顔で軽く頷いた。

 正直な話を言うと、二人には早くこの場を離れて欲しかった。ここに深月がいつ帰ってきてもおかしくない。航と深月がバッタリなんて想像するだけで気が滅入る。全く切り抜けられる想像ができなかった。


「無理して買わなくていいぞ、申し訳ないし」

「いいって。暑いから、ちょうど何か飲みたいと思ってたし。なあ、ちか」

 俺の言葉はただの遠慮だと思われ、航ご夫妻は仲良く飲み物を選び始めた。

 周囲にハラハラと目を向ける。今のところ視界に深月の姿は映らないが、戻ってくるのも時間の問題だろう。


「どれにするかなー。ちかはどうする?」

「私はお茶にしようかな」

「ふーん。じゃあ、俺はコーラにしよ」

 航の言葉を聞くと、ちかちゃんは、はぶてたようにぷくっと頬を膨らました。

「ちょっとー。なんで、お揃いにしないの」

 ちかちゃんは少し怒った様子で、航をじっと睨む。航は笑いながら、ちかちゃんの丸く膨れた頬をぷにぷにとつついた。

「バカ言うな。どうせなら別々の買って交換できた方がお得だろ」

 それを聞くと、ちかちゃんの顔はパッと明るくなり、子供が欲しいものを手に入れた時のように、無邪気に目を輝かせた。

「そっか! 航くん天才!」


 天才のハードルが低いなおい。心でツッコみながら、目の前のバカップルにげんなりした。いちゃつくのはお好きにどうぞだが、どっか別の見えないところでやってくれ。この暑い中でやられると、いくら友達とはいえ、さすがにイラッとする。


「じゃあ、お茶とコーラをよろしく」

 二人にそれぞれ飲み物を渡す。航は本当に暑かったのか、受け取るとすぐにその場でぐびぐびと飲み始めた。それから、爽快な様子でペットボトルから口を離すと、こちらを向いて話し始めた。

「いやーしかし、昨日のステーキ、めちゃくちゃ美味かったよなぁ」 

 おいおい、ここで別の話題を振ってきますか。そりゃあ、昨日のドライブは楽しかったし、ステーキも美味かった。普段なら楽しい会話になるだろう。だが、さすがに今は勘弁願いたい。そろそろ、本当に深月が帰ってくるからやばいんだよ。今以外ならいつでも、何時間でも付き合うから、頼むからこの場だけは止めてくれ。

 なんてことはもちろん言えるわけもなく、焦る気持ちを抱えながら、航の言葉に力なく笑って答えた。

「俺、マジで感動したから明日にでもちかと一緒に――」

 楽しそうに話す航に、どうしたものかと引きつり気味の愛想笑いを浮かべていると、突然ちかちゃんが航の話を遮った。


「航くん、あんまりお仕事の邪魔しちゃ悪いよ」

 ナイスだ、ちかちゃん! 今だけは本気で天使のように見えてしまう。

 本当のところは二人のデートを邪魔して欲しくないんだろうなというのが、表情から伝わってくる。だが、理由なんかどうでもいい。この場を助けてくれたというだけで、俺にとっては天使の名を冠するに十分だった。


「あ、ああ、そうだな。んじゃ、あんまり邪魔しちゃ悪いし、もう行くわ。頑張れよ平吉。また、大学で話そうぜ」

「おう」

 俺の返事を聞くと、航は背を向けて歩き始めた。ちかちゃんはその背中について行きながら、笑顔でこちらに振り向き、顔の横で小さく手を振った。それに手を振り返しながら、心の中で「ありがとう天使」と呟いた。

 それから二人が雑踏の中に消えるのを確認すると、安心が漏れ出すように深いため息をついた。


「知り合いか?」

「うお!」

 突然呼びかけられたのに驚き、甲高い間抜け声を上げた。我ながら情けない声だったが、安心したところに不意打ちをされたのでは、俺じゃなくてもこんな声になるはずだ。

 振り向くと、いつから居たのだろうか、すぐ後ろに深月が立っていた。


 白いTシャツに、長い髪をポニーテールにまとめて少し涼しげな格好をした深月は、歩き回って暑かったのだろう、頬の横に少しだけ汗をつたわしていた。

 その手元には、どこで買ってきたのか、茶色いタレでベットリと濡れたイカ焼きが2本、両手に握られていた。どうやら、これを買いに行って時間がかかっていたようだ。そのおかげで航との邂逅かいこうという最悪の事態を免れたらしい。深月に対して、心の中で親指を立てた。


「あ、ああ、大学の友達。それより、いつのまに帰ってたの?」

「ちょうど今帰ってきたとこ。悪いな、もう交代の時間なのに。これ買いに行っててさ」

 深月が右手に持ったイカ焼きを、受け取れとばかりにこちらへ突き出してきた。思わずそれを受け取る。

 甘辛いタレのいい匂いが手元から漂ってくる。腹が減っているので、たまらない。


「食べるだろ?」

「お、おう。ありがとう。腹減ってたから助かるわ。いくらだった? 金払うよ」

「いいよ別に。今日手伝ってくれてるお礼だと思って」

 そう言うと深月は思い切りイカにかぶりついた。あまりに豪快にかぶりついたせいで、口の周りがベットリと茶色く汚れてしまったが、全く気にしない様子でモグモグと美味そうに口を動かしている。


「気を使わせて悪いな。じゃあ、ごちになります」

 一瞬、金を払うよと食い下がろうかと思ったが、すぐにやめた。深月のことだ、1度言い出したら、おごると言って聞かないはずだ。それなら、端から気持ちよく受け取った方が、深月としてもおごりがいがあるというものだろう。


 口元にタレを付けたわんぱくガールは、イカを飲み込むと、笑顔で口を開いた。

「うめぇ! やっぱイカ焼き最強だわ。祭といったら、これだよなぁ。このタレ考え出したやつにノーベル賞あげたいわ」

 深月に続いて、イカ焼きにかぶりつく。口いっぱいに甘辛くて、香ばしいかおりが広がる。肉厚のイカを噛むと心地よい弾力を感じて、イカの旨味によだれが湧き出してきた。腹が減ってるせいか、いつも食べるイカ焼きより5割増しに美味い。


「ぺいびちあ、あついにょたべぼお――」

 再びイカで口をいっぱいにした深月が、この世のものとは思えない言葉を話し始めた。イカが大量に詰まってパンパンに膨らんだ頬のせいで、大人びたキレイな顔は見る影もない間抜け面になっている。見た目と為すことがここまで一致しない人を見るのは初めてだ。

「深月、何言ってるか分からん。飲み込んでから喋ってくれ」

 深月は少しだけ恥ずかしそうにすると、一所懸命にしばらく口を動かしたあと、大きくゴクリと喉を動かした。

「平吉は、祭の食べ物で何が1番好き?」

「ええ、なんだろう……特に無いかな」

「無いってことはないだろ。なんか言えよ」

 そんなこと言われてもと思いつつ、考えてみる。こんなこと真面目に考えたことが無いから、パッとは答えが出てこない。そりゃ、イカ焼きやトウモロコシのようなお馴染みのメニューはもちろん好きなのだが、1番かと言われれば、何か違う気がする……

「そんなに悩むことか?」

 深月はイカを食い終わったらしく、口元をティッシュでしきりに拭いながら、悩む俺を見てきた。自分の口の周りが大惨事になっていることにようやく気づいたらしい。

 その様子を見ながら、ようやく頭の中で結論がまとまった。


「うーん……ベビーカステラ、かな?」

「え、なにそれ? ボケ?」

 口元を拭う手を止めると、疑わしそうな目付きでこちらを見てきた。

「いやいや、ボケじゃないって。大真面目だから。ベビーカステラ、めちゃくちゃ美味くない? 毎回買うんだけど」

「私、食ったことないんだわ」

「マジで? 絶対食べたほうがいいよ。素朴でクセになるから」

「いや、何となく味の想像はできるけど。あれが1番なのか? おまえ、ちょっと変わってるな」

「あれ呼ばわりはひどいぞ。全国のベビーカステラ屋さんに謝れ、ついでに俺にも」

「嘘うそ、冗談だって」


 深月は全く悪びれない様子で、おかしそうにそう言うと、イカ焼きの入っていた袋にティッシュを詰め込んだ。それから、それをゴミ箱に放り投げると、気持ち良さそうに大きく伸びをした。深月の伸びに合わせて、ポニーテールがふりふりと左右に軽く揺れる。

「さーて、そろそろちゃんと働きますか。平吉は休憩してて」

 そう言った深月の口元には、まだイカ焼きを食べた証が残されていた。

「深月、まだタレついてるぞ」

「マジで? どこ?」

 深月は見えるはずもないのに、口についたタレを見ようと、目を下に向けた。それからティッシュを取り出すと、全く見当違いの場所を一所懸命に拭きだした。


「違う、右の方についてる」

「ここ?」

「いや、もうちょっと上」

「ここか」

「もう少し上」

「もう分かんねえよ! おまえが拭いて」

 苛立った声を出すと、ティッシュをこちらに差し出してきた。俺がそれを受け取ると、深月は目をつぶって口元を突き出してきた。

 目の前で、深月のぷっくりと膨らんだ唇が拭いてもらうのを今かいまかと待っている。ティッシュを恐るおそるそこへ近づけると、心臓が痛いほど速く脈打ち始めた。

 恋愛経験が無い自分には刺激が強すぎる。こういうことを興味無い男にやらせるなよな。他意は無いと分かっていても、さすがに勘違いしてしまいそうになるぞ。それとも世の一般男性は、こんなことは平然としてしまうもので、俺が気にし過ぎてるだけなのだろうか。

 高価な美術品にでも触れるように優しく深月の口元を拭き始めた。ティッシュごしに伝わる人の肌の柔らかさに、変な気分になりそうになるが、余計なことを考えるなと自分に言い聞かせて、無心で茶色い汚れを拭き取った。


「取れたぞ」

 バクバクと鼓動を高鳴らせているのを知られまいと、わざと落ち着いた声で目をつぶった深月に呼びかけた。

 深月はゆっくり目を開けると、ニッと笑い、優しく「ありがと」と言った。その様子にまた少しだけ心臓の調子がおかしくなりそうになった。


「おお、おお。こんなに暑いのにいちゃついてくれちゃって。余計に暑くなるわ。勘弁してくれ」

 不意の声に二人してビクッと肩を揺らす。それから二人で示し合わせたように振り向くと、ニヤニヤと笑う老人が目に入った。

 山代さんは、「ヒューヒュー、お熱いねえ」と言わずとも、そう思っていることが分かるような顔で交互に俺達の顔を見てきた。


「い、いちゃいちゃなんかしてねえよ。気色悪いこと言うなよな」

 深月は焦った様子で口を開く。テンパっていたせいか、喋り出しが1オクターブ上がっていた。その顔は、恥ずかしいです、と主張するように真っ赤に染まっている。自分じゃ見えないが、きっと俺の顔も同じくらい赤くなってるだろう。

 山代さんは相変わらずのニヤけ顔で、深月の言葉を取り合わない様子だ。

「へぇー、そうですか。男に顔を触ってもらって、ニヤニヤしてるのはいちゃいちゃには入らないと、そういうことですか。いやー、最近の子はいちゃいちゃのハードルが高いねえ」

「だから、きもいんだよ、じじい」

 深月は赤い顔のまま、人を殺せてしまうんじゃないかと思えるほどの鋭い目つきで、山代さんを睨んだ。

 それにはさすがの山代さんも身の危険を感じたのか、困ったように笑うと、深月から目を背けてこちらを見てきた。


「おー、怖。見てみろ平吉くん、あんたの彼女、人でも殺しそうな顔しとるぞ」

「あはは。山代さん、自分と深月はそんな関係じゃないですよ」

 山代さんはいかにも納得できないという顔をすると、訝しげに見てきた。普段でもシワの多い目尻に、さらにシワが集まっている。

「下の名前で呼び合って、あんなにいちゃいちゃしてたのに、付き合ってないって言うのか? さすがに嘘が下手だぞ平吉くん」

 深月は我慢できない様子で、間髪入れずに割って入ってきた。

「だーかーらー。平吉と私はそんな関係じゃないって言ってるだろ、じじい。いいかげん黙ってくれ」

「まーた、深月は照れちゃって。わしには本当のこと教えてくれてもいいだろ」

 深月が目元をピクピクと引きつらせる。やばいな、このままだと爆発するのも時間の問題だぞ。

「や、山代さん。本当に俺達付き合ってないですよ。ただの友達です」

 深月の怒りが臨界点を超えそうなのを察知して、焦って誤解を解きにかかった。俺の言葉を聞いた山代さんは捨てられた子犬さながらの悲しそうな目つきでこちらを見てきた。


「本当にそうなの?」

 何も言わずに、1度だけ首を縦に振る。それを見た山代さんは、より一層悲しそうな顔をすると、この世のありとあらゆる絶望が一斉にやってきたかのように、大袈裟な声を出し始めた。

「なんだぁー。わしはようやく孫が彼氏を連れてきたのかと。いや、それだけじゃない、生きている間にひ孫が見られるんじゃないかと期待したんだぞ」

「知らねーよ。勝手に期待するな」

 深月はほとほと呆れた様子で、冷めた視線をバイト先の店長であり、実の祖父でもある老人へ向けた。


「ほら、もう年なんだから、車に戻って涼んでろって。私達で店は十分だから」

 首の角度をキレイに90度にして、がっくりとうなだれる老人の肩に深月が手をかける。

「なんじゃあ、じじいが邪魔だから、どけようってか。わしだって働けるわ」

「そんなんじゃねえよ。熱中症とかで倒れられたら敵わないから言ってるんだろ。いいから、大人しく戻れって」

「嫌じゃ、嫌じゃ」と、じたばた暴れる山代さんを深月が強引に押して、休憩所代わりの車へ運んでいく。どっちもパワフルだなぁ、とその様子を呆れて眺めた。


「ふん、もういいわい。邪魔なじじいは消えるから、二人で好きなだけいちゃついとけ」

 ようやく戻る気になったのか、山代さんは大声でそう言い捨てると、いかにも不満ですよと言うようにドシドシと大股で車の方へ歩いていった。

 深月はそれを見送ると、心底疲れた顔をしながら、こちらへ戻ってきた。

「おつかれ」

 深月は、体の奥底から疲れをこぼすように、はぁーと小さくため息をついた。

「あのじじい、ほんとにムカつく」

 眉間にシワを寄せ、鋭い目つきからは殺気が漏れ出している。あまりに凶悪な表情に若干血の気が引いた。さっきまで笑顔を見せてくれていた素敵な女の子の面影はどこにもない。よくここまで多様な表情を出せるなと、一周回って感心までしてしまう。


「山代さんっていつもあんな感じなのか?」

 俺の言葉を聞くと、深月はこれ以上鋭くできないだろうと思っていた目つきを、さらに1段階きつくしてこちらを見てきた。

「いや、なんなら今日の方がまだマシまであるな」

「そ、そうなのか。元気だなあの人」

「元気なんてかわいいもんじゃねえよ。あいつ、店に来る客に誰彼構わず私と付き合わねえかって冗談かましやがるから、マジで最悪なんだよ。たまに本気にする客がいて始末が悪いから止めろって言ってるのに、口だけハイハイって言って、すぐに忘れて同じことの繰り返し。マジでクソだよ、クソ」

 山代さん、さすがにこれは援護できないわ。あんた、少しは孫の気持ちを考えてやれよ。


「ひどいな、それ。バイト辞めたくならないの?」

「うーん……」

 俺の言葉を聞いた瞬間、深月が少しだけ表情を緩めた。てっきり、同じ調子で辞めたい意思を表明されるのかと構えていたので、ちょっと意外な反応だった。それから、深月は一瞬だけ間を開けて再び口を開いた。

「まぁ実際、何度も辞めてやろうかと思ったよ。でも、いざ辞めようと思うとちょっとかわいそうでさ。じじい、私のこと大好きだから辞めたら泣くだろうし。それに散々文句言った後だけど、良いとこもあるんだよあれで」

 そう言うと、少し落ち着きを取り戻したのか、さっきまでの般若のごとき形相から、憑き物が取れたように、少しだけ優しい表情になっていた。


「それに、こんなに良い時給のバイト、他に見つからねえだろうしな」

「そんなに時給いいの?」

 深月が指でVの字を作って、こちらに見せてきた。

「え、2000円?」

「正解」

 深月は少し得意気にニヤけた。

「マジで? すげーな」

「迷惑料だと思えば妥当な金額だよ」

 大学生で時給2000円のバイトなんか聞いたことがない。そりゃ、そんなにおいしいバイトを簡単に手放せるわけがない。

「なるほど。そっちの理由が本命だな」

「人聞きの悪いこと言うなよ。1番はじじいがかわいそうだからだって」

 俺の冗談半分に、深月はいたずらっぽく笑って答えた。

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