ヘイキチ フェスティバル①

 額ににじむ汗を、肩にかけたタオルでぬぐった。

 目の前に広がるアスファルトは、頭上でさんさんと輝く太陽の日差しを、余すことなく照り返し、容赦なくその熱をこちらへ送ってくる。そのせいで、タオルでぬぐった端から、額には元のように汗が湧き出してきた。

 テントの影に隠れているので、直接日光を浴びなくて済んでいるのだが、それでも恐ろしいほどの暑さだった。ゴールデンウィークの時期って、こんなに暑かったっけ。


 人でごった返す目の前の往来から、ハンチング帽をかぶった中年がこちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。

「すいません。ビールください」

 男は手に持った団扇うちわで、しきりに自身の胸元を扇いでいる。よほど暑かったのだろう、男の着ているグレーのTシャツは所どころ汗で濃いシミになっていた。

「500円になります」

 男から金を受け取ると、目の前の氷水が入った大きなクーラーボックスに手を入れる。氷できんきんに冷やされた水の中に、ざぶんと手が沈むその瞬間だけが、この焦熱地獄唯一の癒やしの時だった。ほてった体から熱が奪われる感覚が、なんとも心地良い。

 氷水からビールを取り出して、その表面についた水滴を拭き取ると、男に手渡した。

「ありがとうございましたー」

 男は団扇を扇ぐ手を止めると、缶の蓋を開け、旨そうにビールをあおり始めた。それから、背を向け、人ごみの中の一人へと戻っていった。


 今日はこうして、かれこれ半日近く、祭に立ち並ぶ出店でみせの1つとして、飲み物を売り続けていた。

 歩行者天国になった街の大通りには、あちらこちらに隙間なく出店やイベントスペースが出ていて、そこを人波が、朝から切れ目なく右へ左へと流れている。そんな人の動きや、喧騒、大音量で流される音楽が交わり、辺りには祭特有の大きなエネルギーが満ちていた。

 県内でも有数の大きな祭なので、当然俺も何度か来たことはあったが、まさか自分が店側になるとは思ってもいなかった。


 腕時計に目を落とす。時間は既に昼の1時を過ぎていた。慣れないことをするせいか、時間が経つのが早く感じる。そろそろ、交代の時間なのだが、交代要員はタバコを吸いに行ったきり、しばらくその姿を見せていない。正直、この暑さと空腹とで、既にへとへとなので、早く休ませて欲しかった。


 気楽に受けたバイトだったが、まさかこんなに大変だとは思わなかった。単に飲み物を売るだけだから余裕だろうと、高を括っていた2日前の自分に、出店はそんなに甘いもんじゃないとじっくりと叱ってやりたい。

 そんなことを考えながら、バイトを受けた日のことをぼんやりと思い出した。


 その日、俺は飯と朝風呂を済ました後、せっかくのゴールデンウィークなのに特にやることもないので、昔読んだ小説を引っ張り出して読んでいた。正直、何度も読んだ小説なので、結末も知ってるし、おもしろくはない。でも、暇を持て余すままにぼーっと1日を無駄に過ごして、寝る前に「やってしまった」と後悔するより幾分かマシだろうと、自分を騙しながら読んでいた。

 不意にケータイが鳴ったのはそんな時だった。こんな朝っぱらから連絡してくるのは、どうせ航だろう。そんなことを考えながら、読んでいた本を、ページを開いたまま机の上に置くと、代わりにケータイを手に持った。明日のドライブは何の曲をかけるかって、いつもの相談に違いない。


 なんで、わざわざそんな相談をしてくるかと言うと、あいつの悪癖が原因だった。

 航には厄介な趣味があって、人けの無い場所を車で走る時に、ヘビメタを音量を上げれるだけあげて、爆音で流したがるのだ。最初のドライブでそれをやられた時は、本気で鼓膜が破れるんじゃないかと恐怖したのをよく覚えている。


 始めの頃は、「運転してもらってるし、我慢するか」と爆音ドライブに何度か耐えていた。だが、さすがに何回も続けられると本気で耳がバカになりそうだったので、あるドライブの時に、頼み込んで、渋々ヘビメタを流すのはやめてもらった。これでようやく平和なドライブを楽しめる。そう思って、航の車に乗り込んだのだが、その期待も虚しく、次はユーロビートの爆音地獄が待っていた。

 いや、俺が言いたかったのはそういうことじゃない。そう言って、航に音量を下げるよう説得を試みたが、曲は変えていいが、音量を下げるのだけは絶対に嫌だという、独特のこだわりによって、これまで俺の耳を守ることは叶わなかった。


 そこで作戦を変えて、今は爆音でも耳への負荷が小さいジャンルを探すことにしている。前回はクラシックにしてみたが、どれだけキレイな音色も、爆音にすると毒にしかならないという教訓を得ただけだった。


 今回は何にしようかと、重い気でケータイの画面を見る。しかし、そこに表示されていたのは爆音男の名前ではなく、タバコを吸う美人の方だった。

 まさか深月からメッセージが来るとは思っていなかったので、ちょっと驚き、すぐにメッセージを開いた。


「どれだけ上達したか、この私が見てやる! 今日の午後、ゲーム持ってうちに来い!」

 ケータイの画面に表示されたメッセージを見つめたまま、真顔になる。なんなんだ、その変なキャラ設定は。いつからあんたは俺の師匠になったんだよ。

 最初に深月を見たときは清楚で近寄りがたいイメージを持ったが、こういうイメージとかけ離れたことを繰り返されたせいか、それも最近はだいぶ崩れてきた。親しみやすいのは、それはそれで良いのだが、少しだけ昔の清楚な神原さんが懐かしくなる。


 しかし、文面はともかくとして、この誘い自体はやぶさかではなかった。予定が無くて、暇で1日を潰してしまいそうだったので、遊んでくれるのは非常にありがたい。それに、先日のリベンジを果たす機会を今かいまかと待ち望んでいたのだ。


 あの日の連敗は本気で悔しかった。どれぐらい悔しかったかと言うと、あの日帰ってから、何事も差し置いて、すぐに特訓を始めるぐらいには悔しかった。

 今までゲームなんかほとんど真面目にやったことがないのに、その日は夜遅くまで何時間も集中して練習をすることができた。それも全て、頭の中に響いてくる深月の煽る声が原動力となったおかげだろう。

「あれ? 平吉、いつの間に私を抜いてたの? っておまえ周回遅れか。悪いわるい」

「平吉、知ってるか? カーブは壁に激突するためにあるんじゃない。曲がるためにあるんだぞ」

 今でも鮮明に、数々の煽りを思い出せる。

 ……思い出したら、また悔しくなってきたな。


 とにかく、その集中力がすごかったおかげか、すぐにコンピュータの強い設定には勝てるようになった。

 勝てるようになると、今度は楽しくなってきて、段々と悔しさが薄まっていく中でも、一層練習に熱が入っていった。そういう良いループが回り始めて、今日まで毎日ゲームの練習は続いている。おかげで、自分で言うのもなんだが、最初の頃とは見違えるほどに上手くなっている。

 そういうわけなので、この上達したスキルで深月の鼻を明かしてやりたいと思っていたのが実のところだ。それとは別に、ゲーム自体が楽しくなってきたので、単に深月ともう一度やりたくなっていたのも素直な気持ちとしてあった。


 行ける旨の返信をして、会う時間の調整まですると、すぐにゲーム機の電源をつけた。残り時間は少ないが、ほんのちょっとでも上達しておきたかった。

 深月、おまえはまた俺をカモにするつもりなのだろうが、そうは問屋が卸さない。前の俺とは違うぞ。今度はおまえの悔しさに歪んだ顔を見てやるからな。

 そんなことを考えて、深月の悔しそうな表情を思い浮かべる。美しい顔が歪む姿が浮かぶと、それにモチベーションをかき立てられて、一層熱の入った練習になった。

 そうして午前中を全て特訓に費やした後、約束の時間が来ると、ゲームを引っさげて、意気揚々と深月のアパートへと向かった。


 深月の部屋の前に着き、インターホンを鳴らす。ガチャリという音を立てて扉が開くと、中から深月が顔を覗かせた。その姿は前回と変わらず、化粧っ気が薄く、ラフな格好だった。

「おう、お疲れ。入っていいよ」

 深月に招き入れられ、中に入ると、相変わらず散らかった部屋の様子が目に入る。

 片付けできないんだな、この人。これじゃ、あいつがまた出てきても文句は言えないな。そんなことを思っていると、俺の心を知ってか知らずか、深月がこちらを振り向いて、口を開いた。

「散らかってるけど気にしないでね」

 深月の言葉に困ったように笑って答えた。

 普通、こういう場合って、「ごめんね、散らかってて」って申し訳なさそうに言うのが通例だよな。本当にこの人は潔いと言うか、なんと言うか。まあ、そういう気の置けないところは嫌いじゃないのだけれど。


 それから、一通りの世間話をしていたが、そんな話はそこそこに、すぐに二人でゲームをし始めた。

「おお! 平吉、上手くなってんじゃん」

 レースが始まるとすぐに、深月が驚きの声を上げた。まさかこの短期間で、俺がドリフトを使いながらカーブを華麗に曲がれるようになるとは思ってなかったのだろう。

 深月の反応に、「そうだろう、そうだろう」と言って得意気にニヤけた。


 レースは先日の内容とは打って変わって、終始互いに競り合うような内容になった。深月は走り始めてすぐに1位になると、それをキープ。俺はそれを追う形で、何度か追いついたのだが、あと一歩のところで追い越せずにいた。

 練習をして改めて深月のプレイを見ると、その上手さに感心する。あの時は初心者より慣れてる分、強いのだろうぐらいに思っていたが、実際は動画のお手本プレイみたいなキレイな走りだった。今だからこそ分かるが、この人相当やり込んでるな。


 レースがファイナルラップに入る。深月は1位をキープ、俺はそこから少し遅れて2位にいた。

「どうしたんだ平吉、姿が見えないけど? もう私ゴールしちゃうぞ」

 深月が笑いながら煽ってくる。それに対して、笑って答えた。

「見てろよ、余裕ぶっこいてられるのも今だけだぞ」

 じりじりと深月との間は詰まっている。既にコンピュータは二人の遥か後方に置き去って、1対1の形になっていた。


 それから膠着状態がしばらく続いたが、ゴール手前の最終カーブに差し掛かった時、ついにその時は訪れた。持っていたアイテムを使って、深月のカートを抜き去り、初の1位を奪ったのだ。

「おっしゃ! どうだ深月!」

 興奮して、思わず大きな声を出す。チラッと深月の方を見るが、焦る様子もなく冷静に画面を見ていた。

 それから1位をキープしたまま、ゴール手前数メートルのところまで来た。いける、このまま勝てる。そう思って勝利を確信した次の瞬間だった。急に俺のカートがスリップをし、その場に停止してしまった。一瞬何が起きたか分からなかったが、すぐに深月の投げたアイテムのせいだと分かる。深月は楽しそうに笑いながら、止まっている俺の横を抜けてゴールラインを越えていった。


「おいおい、そんなのありかよ。ひどいぞ深月!」

 深月の方を向いて、悔しさを滲ませた声を出す。深月はそれを聞いて、満足そうにニヤニヤした。

「バカ言え。勝つためなら何でもありなんだよ」

「俺に期待させるために、わざとゴール手前までアイテム使わなかっただろ」

「ふふ、バレた?」

 悪戯っぽく笑う深月を、恨めしく睨む。しかし、すぐに深月につられて、笑い始めた。

 正直、かなり悔しかったが、それよりも張り合いのあるレースができた楽しさが気待ちとして勝った。ゲームってこんなに楽しかったんだな。こんな気持ちになるの、小学生の時に友だちとやって以来だ。


「いやー、しかし、平吉めちゃくちゃ上手くなってんじゃん」

 深月は本気で感心する様子で口を開いた。それに対して少し得意になって、ニヤける。

「まあねー。あの後、悔しくてかなり特訓したからな」

「へえー、あんまり時間経ってないのにやるじゃん。なら、うかうかしてられないな。実際、さっきも危なかったし」

 深月はそう言うと次のコースを選び始めた。それから、選択を終えると、こちらを向いて笑いかけてきた。

「ふふ、楽しくなってきたな」

 その屈託のない笑顔に、一瞬だけドキッとした。女性として意識をしているわけではないのだが、それでもその美しい笑顔の持つ魔力には、時折心を奪われてしまった。大学中で噂になっているのも、この笑顔を見た後なら納得できる。


 その後、何戦かレースを走った。結局、深月から1位を奪うことは叶わなかったし、相変わらず深月は煽ってくるが、それでも楽しい時間だった。深月も終始キャッキャとはしゃいでいたので、楽しかったのだと思う。


 そうしてゲームをしている最中、深月がふと思いついたように口を開いた。

「そう言えば、平吉。おまえ、残りのゴールデンウィークって何か予定あるの?」

「明日友だちとドライブに行くぐらいかな」

「ふーん。バイトは入ってないの?」

「あー、俺バイトしてないんだよ」

 深月がさも驚いたように目を丸くしてこちらを見てくる。

「まじで? 金足りるの?」

「まあ、散財しなければね。仕送りでなんとか」

「へえー。バイトは面倒だからしたくないって感じ?」

「したくないと言うか、親父との約束でしてないんだ」


 俺の言葉を聞くと、深月は少しだけ不思議そうな顔をした。

「約束?」

「うん。学生の間はせっかくの機会だから勉強に集中しろって言われてさ。その代わり、学費と生活費は面倒見てやるって、ちょっと無理して仕送りしてくれてるんだよ」

 深月は納得した様子で、少しだけ頷いた。

「そうなんだ。良い親父さんだな」

「まあね」


 他の親の子になったことが無いので、他人と比べてどうかは知らないが、俺が思うに、うちの親父は確かに良い親だ。

 一見すると、坊主頭に強面なのだが、その実は突飛な冗談で人を笑わせるのが好きな茶目っ気のある男だ。

 高校の時は毎朝手作りの弁当を、しかも朝から揚げ物や、手ごねのハンバーグをするぐらいに気合いの入った弁当を作ってくれたり。高校の白シャツに、盛大にカレーを溢しても文句1つ言わずにシミを落としてくれたり。あとは焼き肉の時、必ず焼き奉行をしてくれたり。とにかく、良い親エピソードには困らない人だ。

 仕送りだって生活するのに必要な分だけじゃなくて、少しは遊べる分まで織り込んでくれている。

 母親不在の中で、自分も楽じゃないだろうに、そこまでしてくれる親父には本当に頭が上がらない。だから、バイトをせずに、その分勉強して良い成績を取るぐらいの孝行はしておこうと心に刻んでいた。


「そっかー。じゃあ、無理だなー」

 深月は困った様子の声を出した。

「無理って、何が?」

「んー、実はバイトのヘルプ頼みたかったんだよね」

「ヘルプ? 深月って何のバイトしてんの?」

「バー」

「バーって、あのオシャレな感じのバー?」

「まあ、たぶんおまえの想像通りなんじゃない」

 薄暗い店内。ちらつくロウソクの明かり。きらめく美しいグラス。そんな中で、深月が、シワ1つ無いキレイな黒ベストに身を包み、シャカシャカとシェイカーを振る姿が脳裏に浮かんできた。実に似合いそうだ。悪くない。


「すごいな。あれってめちゃくちゃ難しそうだけど、そんなのできるんだ」

 深月が呆れたような顔をすると、画面から目を離してこちらを見てきた。

「いや、なんか勘違いしてるな。バーテンはやってないぞ。私は裏方。つまみ作ったりとかしてるの」

「あ、そうなんだ」

 脳裏に浮かんだバーテン深月のイメージがしゅるしゅると萎んでいく。少しだけ、残念な気がした。


「あと、今回頼みたかったのはバーの仕事じゃないの。もうすぐビッグフェスティバルあるだろ。あれの出店を手伝って欲しかったんだよね」

「はあ、出店ね。そんなバイトもしてるの?」

「バーの延長線上でしかたなくね。その出店、町内会で出すものなんだけど、うちの店長が町内会会長だから、当然うちの店も手伝わなくちゃいけないの」

「なるほど、そういことね」

「そうそう。しかも聞いてよ。最悪なのが、明後日が出店の店番担当なんだけど、来るのうちの店の人間だけらしいの。頭おかしくない? だって、うちの店、店長と私しか働いてないのよ。しかも、店長じじいだから、ほとんど私が働かないといけないし。絶対無理だから、回せるわけないじゃん」

 深月は、かなりとさかに来ている様子で、愚痴をこぼし始めた。


「じじいもじじいだよな。こんな無理を二つ返事で受けてくるんだから。ほんと、外面だけは気にするんだから。少しはツケを払うこっちの身にもなって欲しいわ。あー! 思い出したら、ムカついてきた」

 深月の激情に応えるように、画面の中のカートが荒ぶり始めた。その様子に同情の意味も含めて、困ったように笑った。

「それはマジで大変そうだな。だから、俺にヘルプを頼みたいって訳ね」

「そういうこと」

 確かに一人で出店を回すのはきついだろうな。一日中立ちっぱなしで店番するのを想像するだけで嫌になりそうになる。そりゃ、深月もヘルプを出したくなるわけだ。さすがに不憫だな。


「そういうことなら、俺で良ければ手伝うよ」

 怒ったような、疲れたような表情でゲームをする、かわいそうな女の子を目の前にすると、自然と言葉が出ていた。事情を知った上で、そうなんですかと放っておけるほど、薄情にはなれない。どうせ、やることも無いんだし、それなら人助けに時間を使ったほうが万倍マシというものだ。

 深月は少し驚いた様子でこちらを見てきた。

「え? でも、親父さんとの約束があるんだろ。なんか悪いよ」

「いいって、人助けみたいなもんだし。親父もさすがに文句は言わないよ」

「そうか? ちなみに結構大変だけど、それでもいい?」

「大変? そう言えば、聞いてなかったけど、何の出店なの?」

「飲み物売るやつ。でかいクーラーボックスで飲み物売ってる店見たことあるだろ」

「ああ、あるね」

 いまいち、その出店が大変なイメージがつかない。だって、飲み物を売るだけでしょ? 確かに一人で回すのは辛いだろうが、交代しながらなら、さほどでもないような。たぶん、余裕だろう。

「大丈夫、大丈夫。特別な技術がいるわけじゃないんでしょ? 1日だけだから余裕だよ」

「そっか、じゃあ頼むわ。悪いな、なんかお願いばっかりしてて」

 深月はいじらしく、申し訳なさそうにしながら、少し小さな声で言った。

「いいって、気にするなよ」

 俺がそう言うと、深月は申し訳なさそうな顔のまま、少しだけ表情を緩めた……


 と、ここまでが、今こうして炎天下の中、ひたすら飲み物を売り続けることになった理由になる。人助けということで、引き受けたこと自体に後悔はない。……ないのだが、もう少し楽かと思っていたのが正直なところだった。

 立って物を売る、言葉にすると非常にシンプルで簡単に見えるが、この暑さの中で長時間していると、そんな単純作業もきつい仕事に変わってしまう。この世に楽な仕事なんかないんだよ、という良い戒めとして、今日のことは忘れないだろう。


 そんなことを考えながら、辺りを見渡した。わたあめに顔を突っ込んで食べる子供。自撮りをしながら歩くカップル。空高く舞う風船に、それを見つめて泣く女の子。その横では父親がりんご飴で機嫌を取ろうとしているが、それが逆効果だったのか、女の子はさらに気合いの入った泣き声を上げ始めた。

 変わらず人でごった返して混沌とする周囲の光景の中に、目的の人物は見当たらなかった。もう交代の時間だが、タバコを吸いに行った深月が戻ってくる気配はない。タバコを吸うだけにしては長いので、どこかをほっつき歩いているんだろうが、いったいどこに行っているのやら。

 こりゃ、もう少し立ち続けだな。そう諦めて、既にぬるみきったペットボトルを口に運んだ。

 その時、往来の中から、不意に聞き慣れた声が聞こえてきた。

「あれ? 平吉じゃん」

 いつのまに現れたのか、目の前には見慣れた丸眼鏡が立っていた。

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