ミヅキ パニック③

「え?」

 急に腕を掴まれたことに、驚き振り返る。

「まだ帰らないで」

「なんで?」

「だ、だって……」

 神原さんは伏し目がちに、何かを言いづらそうにしている。

「だって?」

 俺が先を促すと、口ごもりながら言葉を続けた。

「また出るかもしれないじゃん」


 呆れて神原さんを見つめる。

「いや、そんなこと言ったら、いつまでも帰れないじゃん」

「そりゃ、そうだけど……」

 神原さんは変わらず伏し目がちに、眉を八の字にした。それから、少し間があって、顔を上げてこちらを見てきた。

「じゃあ、いち……いや、2時間だけ待って。それで出なかったら、もういないと思えるから」

「本当に? なんでそう言えるの?」

「理由なんかねえよ。何となくそう思うから」

 あっけらかんと答える神原さんに、なんと言っていいか困った。なんていうか、この人、いいかげんだな。


「なあ、頼むよ。お願い」

 神原さんは、顔の前で両手を合わせると、上目遣いでこちらを見てきた。

 この人、自分の上目遣いが武器になるのを知っていて、わざとしているだろ。そんなことを考えながら、神原さんの困ったような顔を見つめた。

「分かったよ。2時間だけね」

「まじで。ありがとう、平吉」

 そう言うと、神原さんは嬉しそうにニコニコしながらこちらを見てきた。それに対して、少し照れながら、頷いて答えた。


 それから、神原さんは部屋に戻ろうと、扉に手をかけた。だが、すぐに扉から手を離すとこちらを見てきた。

「あのさ、ちょっと待っててくれない」

 神原さんはそう言い残すと、一人で部屋の中に入っていった。

 大方、見られたくないものを片付けるのだろう。既に見てしまったので、手遅れな気はするが、それでもこれから一緒に過ごすのに下着やらを置いておけないのは間違いない。

「入っていいよ」

 1分ほどして、部屋の中から顔を出した神原さんが、こちらに呼びかけてきた。その顔は心なしか赤く見えた。


「とりあえず手洗っていい?」

 神原さんの許可が下りると、部屋に入ってすぐに洗面所へ向かった。直接あいつを触ったわけではないが、さっきからなんとなく手が気持ち悪かったのだ。

 洗面所は部屋とは対照的にキレイに片付いていた。洗濯洗剤のせいか、石鹸のせいか分からないが、何か良い香りがする。そこで初めて、女性の部屋に入っているんだとハッキリ自覚して、急に緊張し始めた。


 洗面所から出ると、ベッドに腰掛けている神原さんが目に入った。Tシャツにショートパンツのラフな格好をしているせいで、白く細い、スラッと伸びた足があらわになっている。それが目についてしまい、ドキッとした。

 変に緊張しているせいで、さっきまで気にもならなかった神原さんの格好が気になり始める。なんとなく見てはいけない気がして、意識して目を背けるようにした。


 どうしていいか分からず部屋の前で立っていると、神原さんが話しかけてきた。

「適当にここにでも座ってて」

 神原さんはベッドの前に置かれた座椅子から物をどけると、ぽんぽんと2回叩いた。「おう」と情けなく返事をすると、素直に指示に従って、そこに座った。


 部屋の中が静まり返る。聞こえてくるのは近くを走る車の微かな音だけ。緊張のせいで心臓が強く脈打つのを感じる。神原さんを背にして座っているため、そちらの様子を覗うことはできなかった。

 気まずい。何か話した方がいいのだろうか。しかし、話すにしても話題は何も思いつかない。今から2時間もどうしよう。絶対、間が持たない。


「なんか飲む?」

 不意に後ろから声をかけられた。少し驚いて、振り向く。

「え、あ、うん。お願いします」

 俺の情けない返事を聞くと、神原さんはベッドからおもむろに立ち上がり、玄関横の冷蔵庫に向かった。それから、冷蔵庫を開けると、独り言が微かに聞こえてきた。

「あれ、酒しかないじゃん」


 神原さんがこちらを向いて、呼びかけてくる。

「なあ、酒でもいいか? 発泡酒かチューハイがあるんだけど」

「酒しかないなら、別にいいよ」

「あれ、酒飲めないのか?」

「いや、飲めないわけじゃないんだけど」

 神原さんは冷蔵庫から缶を2つ取り出すと、手に持ってこちらに歩いてきた。


 酒は飲めないわけじゃない。強くはないが、弱くもない。ただ、出会って間もない女性の部屋で酒を飲むのは、何となくモラルに反する気がして、気が引けた。

 神原さんの表情を伺うと、俺の感じる後ろめたさとは対照的に、何も気にしていない様子でけろっとしていた。ほとんど赤の他人なんだから、もう少し警戒したらいいのに。そんなことを考えて、不用心な神原さんの私生活を少しだけ心配した。それとも、俺が気にし過ぎなだけなのだろうか。


「飲めないわけじゃないけど、なに?」

 神原さんは背の低いテーブルに缶を置くと、不思議そうにこちらを見てきた。

「あー、なんかもらうの申し訳なくて」

 俺のことを警戒した方がいいですよ、なんて当然言えるわけもなく、適当に誤魔化すしかなかった。

「いいって、遠慮するなよ。こっちは助けてもらってるんだから」

 神原さんはそう言うと、どっちがいいの? と言わんばかりに2つの缶を交互に指差し始めた。それで退けなくなって、発泡酒を手に取った。


 神原さんは残ったチューハイを手に取ると、俺の横にあぐらをかいて座った。

 二人でほぼ同時に缶を開ける。ぷしゅっ、という炭酸の音が部屋に響いた。神原さんはすぐに缶をあおると、喉を動かしながら飲み始めた。俺はその様子を見ながら、発泡酒にちびちび口をつけた。


「何しよっか、2時間も」

 神原さんは、缶から口を離すと、こちらを見てきた。

「うーん、テレビ見たり、ケータイいじったりしてればいいんじゃないかな」

 俺の言葉を聞くと、神原さんは口をへの字にする。

「はあ? どうせなら楽しいことしようぜ」

「楽しいことって?」

「例えば、こういうのとかさ」

 そう言うと、おもむろに四つん這いになり、こちらへ近づいてきた。

 咄嗟に神原さんの方から顔を背ける。体勢のせいでTシャツの胸元が大きく開き、そちらをまともに見ることができないのだ。本当にこの人は油断しすぎじゃないか。


 俺の目の前まで来ると、手で払うようなジェスチャーをして邪魔だと伝えてきた。

「ちょっとそこどいて」

 素直に指示に従って、その場に立つ。神原さんは俺の前を四つん這いのまま進んでいき、テレビ台の前まで行って止まった。

 それから、しばらく何かを探していたが、目当ての物が見つかったらしい声を出すと、それをこちらへ見せてきた。


「ほら、これやろうぜ」

 その手にはゲーム機のコントローラがあつた。

「ああ、ゲームね。神原さんゲームなんてするんだ」

「私、結構ゲーマーだぞ」

 そう言って笑うと、再びテレビ台から何かを探し始めた。

 神原さんがゲームをするのには意外な感じを受けた。見た目から勝手に判断していただけだが、むしろそういうことに理解が無いのかと思っていたのだ。

 全く別世界の住人だと思えた人が無邪気にコントローラを掲げる姿を見て、案外離れた存在ではなかったのかもしれないな、と思った。


 神原さんは薄いプラスチックの箱を何個か取り出して、こちらへ見せてきた。

「どれするよ?」

 そこにはカートレースや、多人数乱闘ゲーム、シューティングゲームなど、あまりゲームをしない自分でも知っているような有名タイトルが並んでいた。

「えーと、どれでもいいけど、俺あまりゲームしないから下手だよ」

 俺の言葉を聞くと、神原さんは意外そうな顔をした。

「え、平吉ゲームしないの? だって理系だろ?」

「理系の男なら皆ゲームをすると思うのは間違いですよ」

 冗談混じりにたしなめるように言うと、神原さんはきまりが悪そうに少し笑った。もっとも、自分も神原さんに勝手なイメージを持っていたのだから、同じ穴のむじなではあるのだが。


「そっか、じゃあ初心者でも簡単なのがいいな」

 そう言うと、カートレースのソフトをゲーム機に入れた。それから、コントローラを持った手をこちらへ伸ばしてきた。

「これが平吉のな」


 神原さんは元の場所まで戻ると、手元のコントローラを操作してソフトを起動した。

「とりあえず簡単なレベルからしようか」

 そう言うと、チューハイを片手に、何やらゲームモードを選択し始めた。その後、何の説明もされず、よく分からないままにキャラクターとカートを選択させられ、すぐにレースが始まった。


 それから4戦ほどレースを走った。結果は言わずもがな、コンピュータ含めて12人中12位のびりっけつ。神原さんは当然のように毎回1位を獲得していた。


「平吉、おまえほんとに弱いのな」

「だから言ったじゃん。全然ゲームしないから下手だって」

 少し拗ねたような口調で言った。

「いや、いくら下手だからって弱すぎるぞ」

 神原さんは呆れたようにこちらを見てくる。

「だって、神原さん走り方とかアイテムの使い方教えてくれなかったじゃん」

「途中、教えただろ」

「いや、最初に教えてよ」

 俺の言葉を聞くと、神原さんはバツが悪そうに笑った。

「じゃあ、ちょっと練習する?」

 そう言うと、一人用のゲームモードを起動して、自分の持っていたコントローラをこちらによこした。


 それから、机の上のタバコとライターを掴むと、おもむろに立ち上がった。

「私、ちょっと一服してくるわ」

 神原さんはカーテンに近づき、それを開けた。どうやら、窓の外はベランダになっているらしい。灰皿代わりに使っているであろう四角い缶が置いてあるのが目に入った。

 ベランダに出て、タバコに火をつけると、口元から白い煙を吐いた。暗がりの中で、その姿が部屋の明かりに薄っすらと照らされている。

「ベランダで吸うんだね」

「当たり前だろ、服に臭いつくの嫌だし」

 神原さんはこちらを見ずに、煙をふかしながら答えた。


 それから、しばらく一人でゲームをしていた。神原さんは1本目を吸い終わると、2本目に火を灯し、ぼーっと外の景色を見ていた。不意に話しかけてきたのは、2本目のタバコが終わりかけた頃だった。


「今日は、その、悪かったな」

 小さなその声は申し訳なさそうだった。

「いいよ、別に」

 ゲーム画面から、ちらっと神原さんの方に目を向ける。部屋の明かりが届かないその顔から、表情を伺うことはできなかった。

「また、何かお礼するから」

「いいって、お礼なんか」

「いや、ここまでしておいてもらって、それはダメだろ。それじゃ、私の気が済まない」

 意志の固さが、声の調子から伝わってくる。この人、めちゃくちゃなこと言うけど、根はやっぱり良い人なんだよな。

「今度、飯でも奢るよ」

「本当にいいって、これぐらい」

「おまえ遠慮しいだな。こういうのは素直に受け取ればいいんだよ」

 神原さんはそう言うと、ベランダから部屋に顔を出した。その口調は優しく、明かりに照らされて見えた顔は言葉と同じくらいに優しかった。それを見て、感じていた後ろめたさが少しだけ和らいだ。

「じゃあ、そこまで言ってくれるなら、お願いしようかな」

 俺の言葉を聞くと、神原さんはニッと笑い、大きく頷いた。


「神原さんは――」

 俺が口を開くと、神原さんは急にそれを遮った。

深月みづきでいいよ」

「え?」

「私、名字で呼ばれるの好きじゃないんだ。だから、名前で呼んで」

「お、おう」


 突然なことに狼狽えた。

 名字で呼ばれたくないと言われたことに、そんな人がいるのかと驚いたが、それよりも女性を名前で呼ぶということに強く動揺した。

 ただ呼び方が変わるだけなのは分かっている。しかし、その呼び方1つが俺には重大なことに思えた。関係性が突然、激的に縮まってしまうような、心と心の距離が急激に近づいてしまうような。単なる呼び方に、そんな重要な意味を感じてしまって、それが名前で呼ぶことを躊躇させた。それは俺にとって、体同士が密接してしまうぐらいに非常で、照れくさいことに思えた。

 神原さんは、そんな俺の気持ちをよそに、平気な顔をしてこちらを見ている。


 少しの間ためらったが、意を決して口を開いた。

「えっと、じゃあ、深月さん――」

「だから、深月でいいって。私達タメだろ」

「じゃ、じゃあ、深月って呼ばしてもらうけど」

 俺が照れながら話す姿を見て、深月は少しだけ、からかうように笑った。


「深月は大丈夫なの? もし誰かに、一緒に飯食べてる所見られたら、誤解されるかもしれないよ?」

「おまえと私が付き合ってるって?」

「うん」

「まあ、その時はそのときだろ。誤解は解けばいいよ」

 深月は何も問題に感じていないらしく、平然と答えた。

「そんなに簡単に解けるかな」

「友達なら、きちんと話して説明すれば分かってくれるだろ」

「知らない奴が、分からないところで噂するかもよ」

「そんな奴らのことなんか放っておけよ。そんなの考えるだけ無駄だぞ。その時は興味ありげに話してても、1週間も経てばどうせ忘れちまうんだから」

 深月の言葉は強がりでなく、心からの素直な考えに感じた。

 その言葉を聞いて、航の話していた噂を思い出した。深月は、きっと陰でいろいろと噂されていることを知っているのだろう。しかし、どうやらそれは深月にとって大した意味を持たないらしい。強い人だ。


「それに、そんなに簡単に見られやしないって」

「でも、タバコ吸ってるのは見られたじゃん」

 俺が少しだけ意地悪く言うと、深月は焦ったように口を開いた。

「あ、あれは、見られないと思ってたんだよ。まさかこんな辺ぴな場所に知った顔がいるとは思わないだろ。まじで不覚だったわ」

 深月はそう言うと、腕を組み、自らの言葉に納得するように何度か頷いた。

 その様子を見ながら苦笑した。ほんのついさっき心の強い人だと思ったが、もしかしてこの人、単に大雑把な性格をしているだけなのだろうか。これまでの発言や、行動を思い返すと、何だかそんな気がしてきた。


 深月は、のそりとベランダから部屋に体を入れると、俺の体をまたいで、元座っていた場所へと戻った。それからチューハイの缶をあおると、こちらを向いて口を開いた。

「ほら、もう十分練習しただろ。続きしようぜ」

 そう言って、俺の手元から自分の使っていたコントローラを取り返した。


 そこから何戦しただろうか。ハッキリ覚えていないが、深月が飽きるまでずっと付き合っていた。

 その間にレースの順位は12位から1つ、2つ上がることはあったが、基本的にそこらのケツに近い位置が俺の居場所だった。深月は、毎度余裕で1位を獲ると、そんな俺の様子を見ながら、楽しそうに茶化したり、たまにアドバイスをしてきた。


「平吉、下手だなー」

 ゲームを終えると、深月はコントローラを床に落とし、にやけ顔でこちらを見てきた。それを横目でチラッと見ると、わざとムスッとして目を合わせないようにした。非常に悔しい。

「こんな短時間で上達するわけないじゃん」

「うーん、コンピュータ弱くしてあるから、普通ならもう少し順位上がるんだけどなー?」

 わざとらしく、さも不思議そうに言ってきた。それに対して黙って苦い顔をすると、深月は嬉しそうにけらけらと笑った。


「嘘うそ、ごめんごめん。誰だって苦手なことはあるもんな」

 笑いながら、少しだけ申し訳なさそうな顔をすると、俺の背中をバシバシと叩いてきた。深月が叩くのに合わせて、俺の体が揺らされる。

「ひどいですよ、深月さん」

 俺が拗ねて言うと、深月は困ったように笑って、再び謝ってきた。


「悪かったって。そうだ、これ貸すから、持って帰って練習したら? それで、今度もっかいやろうぜ」

「え、いや、別にそこまでしてくれなくていいよ」

「もう一緒にするの嫌か?」

 深月は真面目な顔で、こちらをじっと見つめてきた。それにたじろぐ。

「えっと、深月はまたやりたいの?」

「だから聞いてんだろ。誰かと対面でゲームしたの、すごい久しぶりだったけど、やっぱ楽しいわ。ネットもいいけど、リアルの方が断然いい。やっぱ、誰かと話しながらやった方がおもしろいな」

 深月の顔は嬉しそうだった。どうも、本当に楽しかったらしい。

 本当の自分を隠しているせいで、これまで誰ともできかったのだろうか。あるいは、周りにゲームをする人がいないのか。どちらにせよ、生身の人間を隣にしてゲームをするのは久々だったらしく、それが嬉しかったようだ。


「平吉は楽しくなかった?」

 深月が少しだけ心配そうな顔をしてこちらを見てきた。

 実際のところ、どう思っているかと言うと、正直おもしろくはなかった。そもそもゲーム自体を熱中してやらない人間な上に、終始コテンパンにやられたせいで、後半は嫌気がさしていたのが事実だ。

 しかし、こんな表情をされて、あれだけ嬉しそうに楽しかったと言われたら、「俺は楽しくなかったですよ」なんて言えるわけがない。

「あー、俺も結構楽しかったよ」

「だよなー」

 俺の言葉を聞くと、深月は再び嬉しそうに笑った。それに合わせて、アハハと愛想笑いをした。


「じゃあ、またやろうぜ。これ持って帰れよ」

 深月はゲーム機のコードを取り外すと、立派な紙袋にそれら1式を入れて、こちらに渡してきた。

「持って帰るのにそれ使って」

「ああ、ありがとう。いつ返せばいい?」

「ん? 次来るときに持って来てくれればいいよ」

「あー、なるほど。オッケー」

 そこで、また会う約束をしたんだなと改めて認識して、なんだか不思議な感じがした。


「もうこんな時間だったんだな」

 深月は時計を見ると呟いた。時間は約束の2時間を少しだけ過ぎていた。

「ほんとだね。もう大丈夫?」

「あ、ああ。まあ、大丈夫でしょ」

 深月の顔は若干大丈夫そうではなかった。それを見て、少し心配になったが、まさか泊まるわけにもいかないので、その言葉を信じることにした。

「最悪、どうしようもなかったら、呼んでくれていいから」

「大丈夫……って言いたいところだけど、お願いします」

 しおらしく話す深月の様子に表情を緩めた。


 外に出ると、少しだけ肌寒く感じる風が、体を撫でた。辺りは暗く、しんとして、昼間の表情とは違った町の様子が目に入った。

 深月が部屋の中から声をかけてくる。

「そこまで送っていこうか」

 その言葉に笑うと、振り向いて答えた。

「いいよ別に。それに、送った後の深月が危ないでしょ」


 それから深月に別れを告げると、部屋の扉を閉めた。アパートの廊下を歩き始め、右手に持つ紙袋がそれに合わせて揺れる。そこで感じたゲーム機の重みに、ちょっとだけおかしな気持ちになった。

 今朝は、もう二度と会うことはないだろうぐらいに考えていた人と、一緒に酒を片手にゲームをして、名前で呼ぶことになって、さらには次に遊ぶ約束までしている。冷静になって考えると、奇妙な感じがした。

 まさかこんな関係になるとは思っていなかった。深月だって、微塵もそんな風に思っていなかっただろう。運命なんて大層なものだとは思わないが、何か見えない力が裏で働いているような気がして、ちょっとだけ不思議に思えた。


 そんなことを考えながら、アパートの階段を降りていると、不意に上から声をかけられた。

「おい、忘れ物だぞ」

 深月はそう言って、俺の頭上で何かをぶらぶらさせた。見上げると、俺が持ってきたラケットを持って、ニヤニヤしている。玄関に置いていたのをすっかり忘れていた。

「おう、悪い」

 深月は、俺の立っているところまで歩いて来ると、ラケットを差し出した。

「変態に襲われたらいけないからな。ちゃんと持っとかないと」

 そう言ってクスクス笑った後、じゃあなと言って、階段を上っていった。その後ろ姿を見ながら、少しだけ笑った。おちょくられているのは分かっているが、どこか愛嬌を感じてしまう。なんていうか、憎めない人だ。


 それから、誰もいない静かな夜道を、ラケットとゲームを両手に提げて、ゆっくりと歩いて帰った。普段通らないその道は、少しだけ刺激的に感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る