ミヅキ パニック②

「ここに来て?」

 画面に表示された文字を見て、小さく呟いた。


 どういう意味だ? 

 いや、言葉の意味自体は分かる。送られてきた住所に来いって意味だろう。

 俺が言いたいのはそういうことではなく。なんで神原さんがこんなメッセージを送ってきたか、その理由が分からなかった。


 地図アプリで送られてきた場所を確認する。どうやら、アパートの住所らしい。それも俺の家からそんなに距離が離れていない場所だった。

 これは神原さんの住んでるアパートなのだろうか? だとしたら、なんで俺を呼び出すんだ? 


 思い当たる節がないか、考えをめぐらせる。

 また、タバコの件で何か言いたいのか? いや、きちんと約束は守ってるし、わざわざ呼び出して言うことも無いはずだ。

 あるいは、単に宛先を間違えただけとか?


 ……まさか! 仲間内で俺をからかうために呼び出そうって気じゃないだろうな。

 脳裏に、トコトコとやって来た俺をバカにして笑う神原さんと、そのイケてるお友達が浮かび上がった。

 ……いや、いくら口汚くても、神原さんはそんな悪い人には見えなかったな。

 考えれば考えるほど、謎は深まっていく気がした。


 なんて返信したらいいか迷い、しばらく画面を見つめたまま考えていた。何度か文字を打ち込んでは消しを繰り返した後、一言「どうして?」と送り返した。


 それからすぐに、神原さんから返事がきた。

「いいから早く来て」

 答えになってねえ。しかし、どうやら誤送信ではなかったらしい。

 画面を睨んだまま、どうしたものかと悩む。理由を言ってこないのが胡散臭くて、一向に行く気にはならなかった。


「とりあえず理由を教えてよ」

 再び理由を問いただすべく、返信をした。

 すると、ほとんどノータイムで、ケータイから着信音が流れ始めた。それはメッセージ用の音ではなく、電話用に設定した着信音だった。


「いいから早く来て」

 電話に出ると、神原さんの大声が耳元で響いた。思わずケータイを耳から話す。

 その声色は何やら焦っている様子だった。


 恐るおそるケータイを耳に近づけると、電話の向こうにいる神原さんに話しかけた。

「あのさ。だから、なんで来て欲しいの?」

「理由なんて、とりあえずいいだろ。早く来て」

 いやいや、とりあえずよくないから。身勝手な言い分に軽くイラッとすると、再び口を開いた。


「いや、さすがに理由ぐらい教えてもらわないと行けないよ」

 俺の言葉を聞くと、神原さんは少しの間沈黙した。それから少し弱々しい口調になって、再び口を開いた。

「困ってるから……だから、助けて欲しいんだよ」

「困ってるって? 何に?」

「……あ、あいつがいるんだよ」

 神原さんの声は何かをひどく怖がっている様子だった。その様子にただならぬ気配を感じた。

 もしかして神原さん、思っているよりやばい状況に陥ってるんじゃないのか。そう思うと、急に焦りを覚えた。


「あいつ? あいつって誰?」

 焦る気持ちのままに、電話の向こうの神原さんに呼びかけた。しかし、神原さんから回答はなかった。代わりに、なにやらぶつくさと独り言を話すのが聞こえてくる。

「なんでだよ、最近は見かけてなかったのに。なんでまた現れるんだよ……」

「神原さん? もしもし? 大丈夫?」

 再び問いかけると、少しだけ間があって神原さんは答えた。

「とにかく早く来て。やばいから。このままじゃ私、家に帰れない」

 そう言い残すと、電話は切られてしまった。


 暗くなったケータイの画面を見つめる。

 いまいち状況は掴めなかったが、現在進行形で何らかの危機に陥っていることだけは分かった。しかも、わざわざ人に助けを求めるぐらいだ、そんなに軽いレベルのものではないのだろう。


 問題なのは、「あいつがいる」という言葉だ。誰かのせいで危険な目に合っているようだが、肝心な何者かは結局聞くことができなかった。

 まさか、ストーカーにでも追われているのだろうか。有り得るな。あれだけ美人ならストーカーがいてもおかしくはない。

 神原さんがストーカーに襲われ、助けを求める姿が頭をよぎる。思わず、ツバを飲み込んだ。

 もし本当にそうだとしたら、早く行かないとまずいぞ。


 そんな考えに取り憑かれ、いても立ってもいられなくなった。

 すぐに玄関に向かうと、足を靴へ突っ込んだ。かかとがきちんと靴に収まらなかったが、そんなことには構わず家を飛び出した。


 だが、それから数秒も経たない内に再び玄関へと戻ってきた。

 万が一、変質者と対峙することになるかもと思ったら、さすがに手ぶらで行くのが心許なく感じたのだ。

 玄関に立って部屋を覗く。しかし、武器になりそうな物はどこにも見当たらなかった。仕方がないと諦めて家を出ようとした時、玄関横に立てかけてあったバドミントンのラケットが、ふと目についた。


 もう、これでいいか。

 武器と言うにはあまりに頼りなかったが、他に選択肢も無かったのでラケットを手に取った。それから、すぐに地図で示された場所へと走って向かった。


 送られてきた住所は、俺の家から大通りを挟んだ向かいの住宅街にあった。歩いたら20分、走ったら10分もかからずに着く距離だ。


 真っ暗な路地をラケット片手に駆け抜けていく。昼間の暖かさは消え失せ、肌に当たる空気は冷たかった。

 走り始めてすぐに息苦しくなる。ハァハァと荒い息をしながら、それでも速度は緩めず走り続けた。

 途中、何人かとすれ違ったが、皆怪しそうにこちらを見てきた。当然だろう。ラケット持った男が、ハァハァ言いながら走って来たら、見るなという方が無理がある。俺が逆の立場でも、きっと見てしまう。


 数分かけて路地を駆け抜け、大通りに出た。近くの横断信号に目をやると、ちょうど赤になる瞬間が見えた。目の前を車が右へ左へ走り出す。間の悪い信号に顔をしかめた。

 横断歩道の前まで歩いていき、その場で膝に手をついた。久々に走ったせいでひどく息切れしている。やはり、運動不足のようだ。


 信号はなかなか変わらない。それにやきもきする。この間にも神原さんの置かれた状況が悪化していたらと思うと、気がきでなかった。

 ケータイの画面をちらっと見るが、神原さんから連絡は無かった。

「大丈夫? 今向かってるから」

 心配になりメッセージを送るが、神原さんからの応答は返ってこない。それが不安な心に拍車をかけた。

 その後すぐに信号が青になったので、ケータイをズボンのポケットに収めると、再び走り出した。


 それから数分走って、ようやくメッセージで送られてきた場所に到着した。そこには2階建ての小綺麗なアパートがあった。


 すぐに神原さんへ電話をかける。呼び出し音が鳴っている間、早く出ろ、早く出ろと焦る気持ちで念じた。

 それから数秒して、神原さんは出てきた。息を切らしながら、電話の向こうへ話しかける。

「もしもし、神原さん。着いたよ」

「こっち。アパートの2階にいるから」

 アパートの方を見ると2階の廊下で誰かが手を振っているのが見えた。暗くてよく分からないが、たぶんあれが神原さんなんだろう。


 急いでアパートの2階へ駆け上がっていく。上がりきって、廊下を覗くと、廊下の照明に照らされて、うずくまっている神原さんが目に入った。黒のTシャツにショートパンツの、明らかに部屋着らしい姿でいる。

 神原さんは俺に気付くと、立ち上がって、こちらへ近づいてきた。


 近くに来ると、その顔が照明に照らされてハッキリ見えた。

 神原さんは黒いロングヘアーをお団子にまとめて、前に会った時よりも化粧っ気が薄かった。それでも、相変わらず感心するような美しい顔立ちだった。


 息を切らしながら話しかける。

「大丈夫?」

「あ、ああ。来てくれてありがとう」

 神原さんは少し疲れたような表情こそしているが、思っていたよりも落ち着いた様子だった。その様子に少し意外な感じを受けた。


「それで、電話で言ってたやつはどこにいるの?」

 俺が問いかけると、神原さんは困ったように眉を八の字にした。

「今、家の中にいるよ」

 そう言って、廊下の突き当りの部屋を指差した。

「え? 家にいるの?」

「う、うん」

 いやいや、めちゃくちゃやばい状況じゃないか。なんでこの人はこんなに呑気なんだ。逃げないとまずいだろ。


「警察は呼んだ?」

「警察? そんなの呼べねえよ」

「なんで?」

「なんでって、こんなことで警察呼んでも仕方ないだろ。絶対対応してくれないじゃん」


 そういえば、この手のストーカー事件は警察があまり動いてくれないと聞いたことがある。しかし、家の中にまで侵入されたんだったら、話は別じゃないのか。


「でも、家の中にいるんでしょ? さすがに警察の人も来てくれると思うけど」

「警察ってこんなこと対応してくれんの?」

 神原さんはそう言うと、訝しげに俺が右手に持つラケットを見てきた。

「それより、なんでおまえラケット持ってんの?」

「え、武器になるものこれしかなくって」

「は? 武器?」

「いや、だって、襲われたらどうするの。武器ぐらい持っとかないと」

 神原さんは納得できない様子の顔をする。

「うーん、たぶん、もうそれ必要ないと思うよ」

「え? どういうこと?」

「もう閉じ込めちゃったから」

「閉じ込めたって、どこに? 家に閉じ込めたってこと?」

「家っていうか、掃除機の中」

「え?」

 掃除機? この人は何を言ってるんだ。話が見えなくなってきた。


「え? ちょ、ちょっと待って。家の中にストーカーがいるんだよね?」

「は?」

「え?」

「なに言ってんのおまえ?」

 神原さんは理解に苦しむような顔をしてこちらを見てきた。そこで、ようやく自分が何か大きな思い違いをしているんじゃないかと気付く。


「えと、ちょっと待って。じゃあ、中には何がいるの?」

「だから、あいつだって」

「いや、あいつじゃなくて、もっと具体的に」

 神原さんは明らかに嫌そうな、何か気持ち悪いものを見るような顔をする。

「だ、だから、あいつだよ。虫が出たんだよ」

「虫? え、もしかしてゴキブリ?」

「あー! 言うなよ気持ち悪い」

 俺の言葉を聞くと、神原さんは耳を抑えて大声を出した。その様子を見て、全身から力が抜けていった。


 まじかよ。あいつってゴキブリのことか。

 神原さんはゴキブリをどうにかして欲しくて俺を呼んだ。それを俺はストーカーが現れたと勘違いしてしまった、ということか?

 ……うそだろ、それじゃあ俺はとんだ間抜けじゃないか。


 神原さんは俺の呆然とする様子を見て、少しニヤけた。

「おまえ、私が変態に襲われていると思って来たの?」

「ま、まあ、うん」

 神原さんはニヤけながら、茶かすような口調で言ってきた。

 バツが悪くて、顔を背ける。顔が少し熱くなったのを感じた。

「それで、変態と戦うためにラケット持って走って来たの?」

「……おう」


 俺の答えを聞くと、神原さんは腹を抱えて笑い出した。

「いや、さすがにないわ。普通、そんな勘違いするかよ。しかも、ラケットって。どう戦うつもりだったんだよ」

 恥ずかしさに思わず唇を噛みしめた。顔がかあっと熱くなるのを感じる。

「だ、だって、すごく怖がってる様子だったし。あんな意味深な感じであいつとか言われたら勘違いするって」

「アハハ、おかしい。まあ、でも、ありがとう。気持ちは嬉しいわ」

「そんなに笑うことないだろ」

 神原さんは笑いが止まらない様子だ。俺は恥ずかしいやら、悔しいやらで苦い顔をした。


「こんなことで呼び出すなんてひどいじゃん」

 笑う神原さんに、少しムッとした口調で言った。

 神原さんはようやく笑いのピークが過ぎたらしく、少し落ち着いた様子で口を開いた。

「いや、私にとっては一大事なんだって。本当にどうしようか途方に暮れてたんだから。来てくれなかったら、ずっと家に入れないままだったし」

 そう言うと、神原さんは少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

 正直、まだ文句は言い足りなかったが、その顔を見て言うのは止めた。困っていたのは本当なんだろう。文句を言う代わりに小さくため息をついた。


「なんで、俺を呼んだの?」

「他に呼べる人いなかったから」

「仲良い友達は?」

「友達は絶対呼べない」

 神原さんは強い口調で言った。

「なんで?」

 神原さんは少しうつむき加減になり、小声で言葉を続けた。

「だって……タバコ置いてあるし、部屋汚いし……」

 その様子を呆れて見つめた。

「それで、既にいろいろバレてしまった俺を呼んだって訳ね」

「うん」

 神原さんは消沈した様子で頷いた。


 また1つ大きくため息をついた。

「俺も正直、苦手なんだけど、あいつ」

「男だろ。どうにかしてくれよ」

「いや、あれに男も女も関係ないでしょ」

「頼むよ」

 神原さんは少し上目遣いでこちらを見てきた。潤んだ黒い瞳に、長いまつ毛の生えた大きな目が、少し困った表情を浮かべて、こちらをじっと見つめてきた。

 その姿を見て、反射的にかわいいと思ってしまう。思わず照れてしまい、顔を背けた。

 さすがにこんな風に頼まれると、断る選択肢は無くなってしまう。

 

「わ、分かったよ」

「ほんとに! ありがとう、平吉。助かるわー」

 神原さんの顔がパッと明るくなると、嬉しそうに笑った。

 神原さんがナチュラルに名前呼びをしてきたのには、なんだかむず痒い感じがした。この人は素でこういうことをするのか、意図してしているのか、何とも推し量れない。

「でも、これで最後にしてよ。こういうの」

「うんうん。するする。最後にするって」

 軽く答える神原さんに、本当かよと心の中で呟いた。


 神原さんの部屋の扉を開ける。中は明かりがついていて、少しごちゃごちゃした部屋の様子が見えた。

「あ、あんまり、ジロジロ見るなよ」

 俺の後ろで様子を覗う神原さんが、背中に向って話しかけてきた。

 そんなむちゃ言うなよ、と思いながら部屋の中を進んでいく。ゴミ屋敷、というわけではないが、お世辞にもキレイな部屋とは言えない散らかりようだった。

 教科書やプリント、化粧品、服、様々な物が床やベッドの上に転がっている。中には下着も落ちていたが、そちらの方はなるべく見ないようにした。

 神原さんが言っていた通り、タバコの箱も落ちている。しかし、不思議とタバコの臭いは全然しなかった。どうしてるかは分からないが、上手いこと対策をしているのだろう。


 掃除機は部屋の中ほどにあった。形を見るに、紙パック式のようだ。この中にアレがいると思い、少し鳥肌が立つ。乱雑に置かれたそれは、いつもの様相とは打って変わって、まるでパンドラの箱のように感じた。


「そこらへんに落ちてるビニール袋使っていいから」

 神原さんは、玄関で隠れるようにこちらの様子を見ている。

 近くにあったビニール袋を掴むと、掃除機の蓋に手をかけた。少しだけ深呼吸をする。それから、ゆっくりと蓋を開けた。

 危惧しているようなことは起こらなかった。ただ、掃除機用の紙パックがあるだけ。意を決して紙パックを取り外すと、素早くビニール袋の中に突っ込んだ。それから、袋の口を固く縛った。

 そこでようやく安心して、ふうと息を吐いた。


 袋を持って玄関に行くと、神原さんは過剰に嫌がる様子で後退った。

「こ、こっちに近づけるなよ」

「分かってるって。ごみ捨て場どこ?」

 神原さんは無言でアパートの下にある集積所を指差した。すぐにそこへ向かうと、ビニール袋を捨てた。


 それから、神原さんの所へ戻ると、安堵した様子で話しかけてきた。

「ありがとう。まじで助かったよ」

「いえいえ、助かったんだったら良かったよ」

 神原さんは本当に助かったらしく、安心したような表情をしていた。

 あまり気乗りする頼みじゃなかったが、その顔を見たら、素直にやって良かったと思えた。


「じゃあ、俺帰るから」

 そう言って、後ろを向き、帰ろうとした。すると、神原さんが俺の手を掴んできた。

「ちょ、ちょっと待ってよ」

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