ミヅキ パニック①

 んん、うるさいな


 耳のそばで鳴る不快な電子音に、おぼろげながら朝が到来したことを知る。

 まだ半分眠っている意識のまま、苛立つように枕元のケータイを探し始める。なかなか見つからず、手が何往復か枕の周囲を行き交った後、ようやく枕の下に潜り込んだケータイを見つけ出した。

 すぐに画面に表示されたスヌーズの文字を押す。ケータイはそれでようやく黙った。


 何か良い夢を見ていた気がするが、その夢の情景は、蒸発するように、すっかり頭の中から消えてしまっていた。

 夢をどうにか思い出そうと、再びまぶたを閉じる。しかし、それらしい情景は1つも浮かんでこない。なんだかすごく惜しいことをした気がして、間の悪いアラームを理不尽にも恨んだ。


 そうして寝るでもなく、起きるでもなく、ただしばらくまどろみの中を漂っていると、再びアラームが鳴った。それでようやく起きる気になって、重いまぶたを無理やりこじ開けると、けたたましく騒ぐアラームを消した。


 まだ完全に開ききらないまぶたのまま、視線を部屋の中に向ける。部屋は紺のカーテンに締め切られ、朝にもかかわらず夜中のように暗い。その中でカーテンの隙間から漏れる一筋の光だけが、朝であることを示していた。


 起きたばかりで意識はまだはっきりしない。ただ、なんとなく気分は重かった。

 これからの、今日一日を考えたときに、いつも通りの刺激の無い、これといったおもしろみの無い一日が頭をよぎり、それが心を曇らせた。

 別に今の生活が苦痛なわけではない。そうではないが、ただ充実してるとも思わないので、それがなんとなく不満なのだ。しかし、解決しようと積極的に動くこともないので、ここしばらくはよく同じような朝を迎えていた。


 ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。光が容赦なく顔を照らし、その眩さに顔をしかめた。

 それから、歯磨きをして、朝食のシリアルを食べると、寝汗を流すためにシャワーを浴びた。


 一日の中で幸せを感じる時間は数少ないが、朝に浴びるシャワーはそんな貴重な時間の1つだ。

 まだ覚醒しきらない頭にシャワーの水滴が当たると、それが心地良い刺激になる。少し汗ばんだ体がシャワーで洗われていくのは軽い快感だ。そんな感覚を味わえる朝のシャワーに淡い幸せを感じていた。

 そうして、風呂場から出てくるときには、すっかり目が覚め、起きたときに感じていた軽い憂鬱は不快な汗と共に流されていた。これもまた、いつものことだった。


 それから、着替えを済まして、髪を上げる形に簡単にセットすると、いつでも大学に行ける準備が整った。

 ここまでが俺の平日朝のルーティーンである。


 時計を見ると、2限の講義に間に合うバスの時間には、まだ余裕があった。

 こういう場合、俺は基本的に本を読んで過ごしている。しかし、この過ごし方には1つ欠点があった。それは、熱中して読んでいるといつのまにか時間の感覚が無くなってしまうことだ。その結果、バスを逃して、何度も遅刻をしかけたことがある。

 それは今日も例外ではなく、バスの時間に間に合うぎりぎりの時間になって家を出ることになった。


 バス停に着くと、バスを待つ待機列が既にできていた。時計を見ると、急いできたおかげでバスの到着までにはまだ少しだけ時間がある。ふうと息をつくと、すぐに自分もその列へと加わった。


 バスを待つ間、少しだけ眠気がぶり返して、大きくあくびをした。そうして、ぼんやり過ごしていると、駅の喫煙所でタバコを吸う男が目に入った。

 男は旨そうにタバコを吸うと、口元から大きく煙を吐いている。その様子を何気なく見ていると、あの時の記憶が不意に蘇ってきた。


 細い指に挟まれた白いタバコ。どこを見るでもなく宙に視線を向ける美しい横顔。口元から吹かれる薄い煙。

 あの日、あの場所で神原さんを目撃してから一週間近く経つが、その姿は鮮明に思い出された。それだけ印象的な姿だったし、出来事だった。


 あれ以来、神原さんとは顔を合わせていないし、連絡を取ることもなかった。

 だから悲しいとか、嬉しいとかは無いのだが、本当にあの日の出来事は存在していたのか、夢じゃなかったのかと少しだけ変な気分になることはあった。


 もちろんタバコの件については誰にも言っていない。約束したことを守るのは当然だが、それ以上にあれだけ悩んでいる神原さんの様子を見て言う気になるはずもなかった。


 きっとこのまま、何も無かったかのように元の他人に戻るのだろう。それが神原さんにとって一番良いことだろうから。一人でそんなことを考えて、勝手に納得していた。


 また一つ大きなあくびをすると、喫煙所から目を離した。それからバスが来るまでケータイをいじって過ごしていると、すぐに頭の中から神原さんはいなくなってしまった。


「おー、お疲れ」

 講義室に入ると、気の抜けた挨拶が聞こえてきた。声の方向を見ると、眠そうな目で座っている航がいる。1限から来ているせいか、既にお疲れの様子だ。

「お疲れのようだな」

 挨拶に簡単に答えると、その隣に座った。

 航は俺が座るのを、眠そうな目つきのまま横目で見てきた。

「やっぱ、朝一の講義は辛いっすわ。1コマ90分が長すぎるんだよな」

 そう言うと、眠気を飛ばすように、手にした背の高いエナジードリンクをあおった。


 こいつはエナジードリンクの、超が付くほどのヘビーユーザーだ。一日に1本は必ず飲むし、多いときは3本飲んでいるのを見たことがある。ほとんど中毒と言ってもいいだろう。

 俺もたまに飲むことはあるし、その独特な濃い味や効果はよく知っている。飲んだあとの体がカッと熱くなって眠気が飛ぶ、あの感覚に助けられたことは何度もある。

 だからこそ、それを毎日、ましてや一日に何回も飲む気にはなれなかった。航が毎日飲んでいるのを見ると、時折その健康が心配になる。


「おまえ、それ好きな」

 エナジードリンクを見る俺の視線に気付くと、航は少し拗ねたように口を開いた。

「なんだよ、おまえも飲むなって言うのか?」

「いや、そんなこと言ってないだろ。誰かに言われたのか?」

 航は渋い顔になる。

「ちかが飲むなって言うんだよ。こんなの毎日飲んでたら体壊すぞってさ。こんなんで体壊れるわけねえのによ」

 航の言葉に苦笑した。正直、俺もちかちゃんと完全に同意見だった。

「おまえのことが心配なんだろ」

「そりゃあ、分かってるけど。でも、これ無しじゃもう生きていけねえよ」

 ジャンキーみたいな発言をしながら、手に持った缶を左右に振った。缶からチャプチャプと小さく波立つ音が聞こえてくる。

 その様子を呆れて見つめた。


「完全に中毒だな」

「否定はしないね。今じゃ、これ飲まないとスタートラインにすら立てなくなってるんだから」

「それはまじでやばいだろ。本当に止めたらどうだ」

「へいへい。ぼちぼちね」

 航はめんどくさそうにそう言うと、再び缶をあおった。その様子を見て、こいつのしばらく止める気がないことを悟った。


 航は飲み干した缶を机に置くと、こちらを見てきた。

「話変わるけどさ、おまえゴールデンウィークどうするの?」

 航の言葉を聞いて、間近に迫る連休のことを初めて思い出した。

 連休にはこれといって予定はなく、そのため特に楽しみにもしてなかった。そのせいか分からないが、今のいままでその存在を忘れてしまっていた。

「特に予定ないな」

「じゃあ、どっか行こうぜ。俺、車出すからさ」

「おお、いいな」

 航の誘いに笑顔で答えた。

 この誘いは単純に嬉しいし、ありがたかった。どう足掻いても暇を持て余すであろう連休を救ってもらえた気がした。

 

「でも、いいのか? ちかちゃんと予定あるんだろ」

「いいんだよ。毎日会うわけじゃないし。男だけで遊ぶのは別腹だろ」

「そういうもんか? よく分からないけど」

 航の言葉に笑って答えた。


「どこ行くよ? なんか旨いもんでも食いに行くか?」

「そうだなあ。適当に景色を楽しめるドライブならどこでもいいけど」

「海か? 山か?」

「うーん、山?」

「ああ、いいねえ」

 航はそう言って、屈託なく笑うと、ケータイで何かを調べ始めた。


 一昨年の冬、航と俺は同じ時期に車の免許を取得した。

 俺の場合は、免許は取っておかないといけないという漠然とした義務感から取ったのだが、航には車を運転したいという明確な動機があった。そのため、免許を取ると、すぐに中古の軽自動車を買っていた。

 それから、航とはちょくちょくドライブに出かける。適当に目的地を決めると、ナビも設定せずにそこへ向かうのが俺達流だ。

 どう見ても車が通る道じゃない場所を走ったり、知らない街の中をぐるぐると彷徨ったり、たまに思いがけない絶景に出会ったり。そういう過程を二人で楽しんで、それが良い思い出になった。


「ここなんかどうだ? 県北の山越えた所にあるステーキハウス。評価高いぞ」

 航の向けてきた画面には、アメリカ風の内装の店と、旨そうにこんがり焼けたステーキが映っていた。見た瞬間によだれが出てきた。昼前の胃には辛すぎる画像だ。

「めちゃいいじゃん。そこにしよう」

 俺の言葉を聞くと、航は満足そうに頷いた。


 講義が終わると、航と二人で昼食を食べた。それから、二人で目的もなく大学の中庭へと向かった。中庭にはベンチで昼食を取る人や、キャッチボールをする人が、まばらにいた。


「4限までどうするよ。暇だな」

「あー、どうしような」

 二人で中庭の石段に腰掛けた。

 二人とも4限に講義を取っているのに、3限に何も取っていない最悪のパターンで時間割を組んでいた。この空いた90分は、暇を潰すのになかなか骨の折れる長さだった。

 取ろうと思えば取れる講義もあったのだが、あまり興味が無いものを取っても仕方がないと思い、履修をしなかった。だが今思えば、暇を持て余すぐらいなら取っておけば良かった。


 目の前で白い野球ボールが行き交い、左右からミットにボールが収まる、パンッという小気味良い音が聞こえてくる。

「俺達も何か持ってくれば良かったな。ボールとか、バドの道具とか」

「そうだな」


 それから、特にすることがないので春の暖かい日差しを受けて、二人でぼーっとしていた。

 すると、目の前に新入生と思わしき集団がやってきた。集団の先頭には見慣れた講師がいる。

「あれ、新入生のオリエンテーションだな」

 航は集団を見て呟いた。

「ああ、そうだな」

 講師は中庭を指差しながら、何か説明している。そちらの方向を真面目に見る新入生は少なく、大半は周囲の人と笑いながら雑談をしていた。


 その様子を何気なく見ていると、不意に航が前かがみの姿勢になり、何かを集中して見るように目を細めた。

「なあ、あの子かわいくない?」

 航があごで指す方向を見ると、明るい茶髪をツインテールにした、少し背の低い女の子がいた。たぶん、あの子のことを言っているのだろう。確かにかわいらしい見た目をした女の子だった。

 ツインテールの子は人懐こい笑顔を浮かべ、身振り手振りを交えながら、周囲の男と楽しそうに話をしている。


「山中先生が引率してるってことは、うちの学部ってことだよな? へえー、あんなかわいい子が入ったんだ」

「みたいだな」

 嬉しそうに話す航に、適当に相槌をした。

「なんだよ平吉、興味無しか?」

「いや、興味ないっていうか。俺達には関係無い話だろ」

「別にノーチャンスってわけでもないだろ。同じ学部なんだし」

「いやいや、後輩なんか接点ないって。部活もしてないんだから」

「うーん。まあ、そうかもな」

 航は納得した様子で呟いた。

 実際、部活やサークルに入っていないと先輩や後輩と交わる機会はほとんど無かった。研究室に配属されれば、上との関係はできるだろうが、それも1年近く先の話だ。


 山中先生はようやく説明を終えたらしく、研究棟の方へと歩いていった。新入生達もその背中に続いて、ぞろぞろと中庭を離れていく。


 俺達はその様子を見届けた後、じりじりと肌を焼く太陽の熱に耐えかねて、図書館へと逃げることにした。それから時間が来るまでそこでだらだら過ごした。


 4限の講義が終わると、特に大学に残る用も無いので、すぐに横中駅に向かうバスに乗った。航はバイトがあるらしく、途中のバス停で降りていった。


 家に着いたときはすっかり日が沈んでおり、部屋の中は真っ暗だった。

 玄関横の照明スイッチを付ける。明かりに照らされて、いつもの殺風景な部屋が現れた。

 ベッドに、テレビに、ちゃぶ台に、コンポ、それから座椅子が一つ。あとは教科書や本を飾るための棚があるだけ。1Kの部屋に置かれた、家具らしい家具はそれぐらいしかなかった。

 それらの家具は黒や紺、茶色のような暗めの色で統一されてるので、揃えた自分が言うのも変だが、陰気な部屋だった。


 肩にかけていたバッグを投げるように床に置くと、そのままベッドに倒れこんだ。仰向けになり、天井の照明をぼーっと見つめる。そして、はあと小さくため息をついた。


 なんとなく体がだるい。大学に行って、2コマ講義を受けて、帰ってくる。たったこれだけのことで疲れてしまっていた。

 たぶん、運動不足なんだろう。高校を卒業してから、運動をする機会はとんと無くなっていた。たまにするのは遊びのボーリングや、バッティングセンターだけ。そりゃ、体力が落ちるのも仕方がない。


 正直、このまま寝てしまいたかったが、気力を振り絞って体を起こした。

 最低でも講義の復習と飯、寝支度は済ましておかなければいけない。こういうのは1度怠けると習慣を取り戻すのに苦労することを経験から嫌というほど学んでいた。


 重い体を引きずるようにバッグの所へ向かうと、講義の教科書やノート、筆記具を取り出して、ちゃぶ台の上に広げた。

 それからコンポでお気に入りのアルバムをかけると、進まない気持ちを押し殺して、教科書を開いた。

 最初は内容がなかなか頭に入ってこなかった。たまに教科書から目を離すと、流れてくる曲のリズムに合わせて机を指で叩いたり、ケータイを少しいじったりしていた。

 しかし、10分もすると頭が切り替わったようで、自然と集中して取り組めるようになった。それから30分ぐらい、集中して勉強に取り組んだ。


 集中力が途切れたのは突然のことだった。

 ピンコン、という間抜けな通知音が突然鳴った。誰かからメッセージが届いたらしい。

 最初はそれを無視する気だった。しかし、無視しようと思えばおもうほど気になるのが人間の性で、すぐに緊張の糸が切れてしまった。


 はあー、と深いため息をつくと、ケータイを取った。

 誰だよせっかく良い感じに集中できてたのに、と少し苛立って画面に表示された送り主を見る。

 その瞬間、予想外な名前に驚いた。


「神原さん?」


 思わず、小さく呟いた。

 ケータイの画面には神原さんからメッセージが届いたことを知らせる通知が出ている。急いでそれをクリックした。

 メッセージ画面が開くと、1通だけメッセージが来ていた。しかし、それは思っていたようなメッセージではなかった。


 なんだこれ? 住所?

 メッセージ画面には地図アプリで使う住所情報が、何の説明もなく表示されていた。

 え? なに? どういうこと?

 どうしていいか分からず、ただ画面を見つめていると、再び通知音が鳴ってメッセージが届いた。そこには、ただ一言こう書かれていた。


「ここに来て」

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