ヘイキチ エンカウント②
目の前でタバコを吸う女が
神原さんはどこを見るでもなく、ただ
なんでこんな所にいるんだ? それよりもタバコを吸っているぞ、大学ではあんなに清楚な感じだったのに。
そんなことを考えるのと同時に、その姿に不思議と魅力を感じている自分に気がついた。
口元にタバコを運んでは、少しそれを離して、薄く白い煙をはく。一連のその動作がなぜだか美しいもののように感じた。
神原さんがキレイだからそう感じるのか、そもそも女性のタバコを吸う姿に心惹かれるのか、それは定かではない。女性がタバコを吸う姿をまじまじと見るのはこれが初めてだった。
世にはタバコ、それを吸う人を嫌う人が多くいるけれども、俺はタバコに対して別段に良い印象も悪い印象も持ち合わせていない。それはきっと親父のせいだろう。
小さな頃から親父がタバコを吸うのを見ていたせいで、その姿やにおいは馴染み深いものだった。子供の頃は、大人になると皆タバコを吸うようになるものだと考えていた。タバコを吸って、初めて子供は大人になるのだと本気で信じていた時もある。
そういう成り立ちだから、タバコというものの印象を加えず、純粋に目の前の姿や動作に見惚れたのかもしれない。
どうやら彼女の姿に惹かれるのは自分だけではないようで、喫煙所にいる男や、近くを通りがかる男もちらちらと神原さんの方を見ていた。
美人がタバコを吸う姿に美しさを感じているかは分からないが、多くはその美貌とそんな人がタバコを吸う珍しさに視線を向けているのではないかと思う。
そんなことを考えながら、少しの間見つめていると、不意に神原さんがこちらを向いた。その瞬間、少しだけ目があってしまい、心臓がはねた。思わず喫煙所の方向から顔を背ける。
やばい、目があってしまった、どうしよう。
急なことに狼狽えると、その場から逃げるように本屋の方へ歩き始めた。
なぜだか分からないが焦り、自然と早歩きになる。見てはいけないものを見てしまったように感じ、少し恐ろしい感じがした。
それから喫煙所を背にしばらくそのまま歩いた。その間も何かに追いかけられるような感覚で早歩きが続いていた。
そうしてしばらく歩いた後、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。すると、何で自分は狼狽えているのかと、ふと疑問に感じ始めた。
そもそも神原さんがタバコを吸うのはみんな知っていることかもしれない。ただ、自分が勝手なイメージで吸わないと思い込んでいただけで、別に見てはいけない姿ではないかもしれないじゃないか。
それに、例え見てはいけない姿を見たとしても、そもそも神原さんは俺のことを知らないはずだ。それなら、こんな逃げるように離れる必要はなかったんじゃないのか。きっと神原さんは、その他大勢の中の一人としてしか俺を認識していないだろう。
そう思うと、少しほっとして胸をなでおろした。それから、何気なく後を向いた。
その瞬間、また心臓が大きくとびはねた。
そこには眉間にしわを寄せ、こちらを真っ直ぐ睨んで歩いてくる神原さんがいた。あまりの迫力に、あるはずもない怒りのオーラが一瞬周りに見えた。
いやいや、追ってきてるじゃないか。まじでやばいぞ。
すぐに前へ向き直ると、さっきよりも早い速度で歩き始めた。もう本屋へ行こうとも考えておらず、とにかくこの場から急いで離れることしか頭になかった。
学生やサラリーマンで混み合う横中駅前を、人の間を縫うように歩いていく。何度か人とぶつかりそうになり、すいませんと謝りながら、それでも速度を早めて歩き続けた。
ここで速度を緩めると後ろから迫る鬼に取って食われてしまう、そんな気がして恐ろしかった。
それから駅に隣接する商店街を通り抜け、ガード下を通って横に曲がると、古いアパートの立ち並ぶ路地に出た。
これだけ駅から離れれば大丈夫だろうと思い、そこでようやく歩く速度を落とした。
ほとんど走るような勢いで歩いてきたため、ハァハァと荒い息になる。後ろをチラッと振り返るが、あの恐ろしい姿はどこにも見えなかった。安心して、ふうと大きく息をつく。
さすがにここまでは追ってこないだろう。まあ、そもそも俺を追って来ていたのかも分からないが。
そう思って油断していた次の瞬間だった。突然、左の肩をグワッと思いっきり掴まれた。
驚いて勢いよく振り向く。
そこには、眉間にしわを寄せ、鋭く睨む神原さんが息を切らして立っていた。どうやら、彼女も相当な勢いで追って来ていたらしい。
「なんで逃げるんだよ」
神原さんは、その姿に似つかわしくない、ドスの効いた声で言った。突然のことに俺は声が出ない。その間も神原さんは、ハァハァと小さく息を漏らしていた。
「聞こえてんのか? なんで逃げるんだよ」
ようやく口が動くようになると、少しうわずりながら答えた。
「べ、別に逃げてな――」
「嘘つけ。おまえ私を見て逃げただろ」
俺が言い終わるのを待たず、神原さんが怒鳴った。突然の怒声に驚き、顔が引きつる。
神原さんは顔を近くに寄せて、真っ直ぐ俺の顔を睨んでいた。俺の左肩は相変わらず強く掴まれている。
近くで見ると、神原さんはより美人だった。透き通るような肌、絹糸のように繊細でキレイな黒髪、大きな目に筋の通った鼻、紅がのってぷっくりとした唇。全てがうまく噛み合い美しい造形ができあがっている。
そんな美しい人が荒い言葉使いで、少しだけタバコの香りをまとっている。それが変な感じを起こした。
恐怖と女性に迫られる緊張とで心臓がバクバクと強く脈打つのを感じる。
神原さんは怒鳴ったきり、こちらを睨みつけたまま黙ってしまった。俺もどうしていいか分からず、黙ってしまう。
目を背けたり、それからまたちらりと神原さんの方を見たりして、数秒ほど沈黙を過ごした。たった数秒だったが、そこへ時間が圧縮されたんじゃないかと思えるような、長い時間だった。
「おまえ、同じ大学の人間だよな? タバコ吸ってるとこ見ただろ」
神原さんは再びドスの効いた声を出した。目の前の美女から聞こえてくるとはとても信じられない。
こんなことを聞いてくるということは、やはりあれは見てはいけないものだったようだ。
「み、見ました」
嘘をついても仕方ないと思い、観念して正直に答えた。
神原さんは俺の答えを聞くと、ようやく肩から手を離し、頭を抱えてため息をついた。
その様子を黙って見ていると、突然小さくつぶやくのが聞こえてきた。
「――れろ」
「え?」
あまりに小さな声と、周りの雑踏の音で、その言葉は聞き取れなかった。
「だから、見たものを全部忘れろって言ってんだよ」
顔をあげ、こちらを睨むと、苛立ちを隠さず怒鳴ってきた。その迫力に思わずのけぞる。
周りを歩いていた人も何事かとこちらを振り向いた。
「わ、忘れます」
「嘘つけ、忘れられるわけねえだろ」
神原さんは俺の言葉を聞くと、さらに語気を荒げて怒鳴った。
そりゃそうだ、こんな事があって忘れられるわけがない。そもそも、そう思っているんだったら最初から言うなよ、と心の中でツッコんだ。
神原さんは再び頭を抱え、うなだれると、大きくため息をついた。
目の前でうなだれたまま、「終わった……もう終わった……」と小さくつぶやくのが聞こえてくる。
その様子を見て少し不憫に思った。目の前でここまであからさまに落ち込まれると、なんだかすごく悪いことをしてしまったような感覚に襲われる。いくら自分が悪くないとは言え、見られたくない姿を見てしまったことに少し罪悪感を感じた。
「あ、あのさ」
うなだれる神原さんに恐るおそる話しかける。
「なんだよ」
神原さんは顔をあげず、小さく答えた。
「誰にも言ったりしないから。本当に」
俺の言葉を聞くと、神原さんはゆっくり顔をあげた。さっきまでの鋭い目付きは無くなり、少し疲れたような、悲しそうな表情だった。
「どうやってそれを信じろって言うんだよ」
「え?」
「おまえが言わないって保証なんかないだろ。信じられねえよそんなの」
答えに窮した。
俺が言った言葉に嘘は全くない。本当に誰にも言う気は無いのだ。
気の毒に思った気持ちは本当で、約束することは守るとそういう気持ちで言った言葉だった。そう思った以上、誰かとの話題に出すことは自分の品位を貶めるだけで、信念として決してそんなことはしない。
しかし、いざその保証はと言われると答えに困った。今言ったようなことを言ったところで、俺の考えや気持ちがそのまま伝わるわけでないし、納得はしないだろう。
神原さんが求めているのは客観的な事実として、こいつなら秘密を守るだろうと思える根拠だろうから。
「そ、それは……」
俺の困る様子を見て、神原さんは言葉を続けた。
「今は本当にそう思っているかもしれないさ。でも、いつまでもそう思い続けるとは限らないだろ。人間なんてすぐに気分が変わっちまうんだから。酒飲んで気が大きくなって、一回だけポロっと言っちゃいましたあ、なんて救えないからな」
なんとか言葉を返そうとするが、何も出てこない。
神原さんはふうと息をつくと、横を向いて黙ってしまった。
それからすぐに、何かを思いついたように心持ち目を大きく開いて、こちらを向いた。
「そうだ。おまえも何か秘密を教えろよ。そしたら、互いに秘密を言うに言えなくなるだろ」
良いことを思いついたと言わんばかりの晴れやかな顔でこちらを見てくる。
「そんなこと言われたって、秘密なんか持ってないよ」
「はあ? 秘密の1つや2つあるだろ、人間なんだから。なんでもいいぞ。実は下着泥棒やってる変態でーすとか、実はストーカーやってまーす、だとか」
「いや、何でそんな例ばっかり。そんな特殊な性癖持ってねえよ。本当に秘密なんか無いって」
変態呼ばわりをされて少しムッとして答える。その様子を見て神原さんは少しだけ笑った。
実際、本当に秘密なんか持っていない。特別な事情を抱えていないし、特殊な趣味も持っていない。大学では勉強をして、家では本を読み、たまに航と飲みに出る。俺の日常はそれの繰り返しだ。
「じゃあ、やっぱり信じらんねえな」
いよいよ、困った。どうにも埒が明きそうにない。神原さんはどうしても引き下がりそうにないし、俺も神原さんを納得させられるような答えを持っていない。八方塞がりだ。
そう考えながら、ふと辺りに目を向けた時に、一軒の立派な喫茶店が目に入った。洋風な三角屋根の建物で、ピンクに塗られた外壁が目を引いた。
それを見て一つ思いついた。
「じゃあ、こういうのはどう? 俺にコーヒーをおごってよ」
「はあ?」
神原さんは片眉を吊り上げ、怪訝そうな顔をした。
「神原さんは俺にコーヒーをおごる。俺はその代金の代わりに秘密を守る。これでどうよ」
「そんなことで言わないなんて信じられるかよ」
「だから、俺は端から言う気はないんだって。それに加えて何かをおごってもらったら、なお一層言うことはできない。俺はそういう律儀な人間なんだよ、本当に。信じてくれ」
俺の必死の訴えを聞くと、神原さんはあごを抑えて下を向き、何かを考え始めた。
その様子を固唾を飲んで見守る。この案が却下されたら万事休すだ。
それからしばらくして、神原さんは顔をあげてこちらを見ると、弱々しく言った。
「……まあ、それで本当に言わないっていうなら……もうそれでいいよ」
予想外の答えに呆気にとられる。まさか本気で受け入れられるとは信じていなかった。
神原さんは喫茶店の方へ足を向けた。
「おい、行かねえのかよ」
俺の呆けている様子を見て、神原さんが呼びかけてきた。それに対して、おうと情けなく答えると、二人で喫茶店へ歩き始めた。
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