煙にふかれて
ポテトグラタン
ヘイキチ エンカウント①
「やっぱ、すごい美人だよな」
俺の前に座っている男が、急に隣の男を肘でつついた。肘でつつかれた茶髪の男は食い入るように見つめていたパソコンの画面から顔をあげると、講義室の前に目を向けた。
ちらりと見える男のパソコンには、明らかに講義と関係無い女性アイドルの動画が流れている。アイドル達がくねくねと不可思議なダンスを踊り、それに合わせて画面がチカチカと光る。
ほんとにいらつく。さっきから視界の端に映るその動画のせいで講義に集中できずにいた。
「
茶髪はそう言ってニヤッといやらしく笑うと、さっき肘をつついてきた、帽子をかぶった男に向き直った。帽子野郎はそれに同意するように頷く。
頷いたあと、帽子がずれたのか、つばに手をかけると左右に揺らしながら位置を直し始めた。帽子野郎の揺れる頭部を見ながら、いらだちはさらに募っていく。
「そんなに気になるなら、気にならなくなるように、どっかに弾いて飛ばしてやろうか」と心の中で悪態をついた。
そもそも講義中に帽子をかぶるのが理解できない。しかもキャップなら百歩譲って許せるが、こいつはハットをかぶっているのだ。そのせいで非常に前が見づらかった。
帽子野郎と茶髪が向いている方向を見ると、誰のことを噂しているのかはなんとなく分かった。
艶のある黒の長髪に、微かに見える横顔だけでも分かる整った顔立ち。一人だけ異質な雰囲気をまとっている女がいた。
女の周りもおしゃれで垢抜けた人で固まっていて、まるでそこら一帯だけ別の空間のようだ。
帽子野郎は相変わらず帽子を触りながら、茶髪に話しかけた。
「ラッキーだったよな、学部共通の講義受けて。まさか神原さんと一緒になれるなんて」
「まあな、でも一緒の講義を受けてるだけだからな。どうにかしてお近づきになれねえかな」
茶髪の言葉を聞くと、帽子野郎は自嘲気味に笑った。
「絶対無理だな。見てみろよ神原さんの周り、どうみても俺たちと住む世界が違うだろ」
帽子野郎の言葉に茶髪は同意した。俺も心の中で同意した。
「あーあ、俺たちは遠くから拝むことしかできないのか」
おまえらは女を拝む前に講義を拝め。
その時、ホワイトボードに今日の内容をまとめていた講師が急に後ろに向き直った。
「なんだ? 誰か質問があるのか」
講師の怒声に講義室が凍りついたように静まり返る。その声色には殺意に近いんじゃないかと思える感情が感じられた。白髪に立派な髭をたくわえた顔が、恐ろしさに拍車をかけている。
講師は明らかにこちらの方向を睨んでいる。どう考えても前の二人組に対して言ったのだろう。
当の本人達は下を向いて、あたかも自分達は関係ないですよと言わんばかりだ。ふざけやがって。
前の二人がうつむいたせいで、講師と一瞬目があってしまった。あまりの恐怖に一瞬体が硬直する。きっと猛獣に狙いをつけられる草食動物はこんな感覚になるのだろう。
「講義が嫌なら今すぐ受講を辞めていいんだぞ。今なら成績にも反映されないからな」
髭面の講師はそう言うと、時計の方をちらりと見た。時計の針はもう少しで講義の終わりを告げそうだ。
「邪魔が入ったから今日はここまでにしよう。次回までに配った論文を読んでくるように」
そう言うと髭面講師は自分の荷物をまとめ始めた。帽子と茶髪は気まずいとばかりにそそくさと講義室を出ていった。
帽子と茶髪が出ていくと、すぐに隣に座っている男がつぶやいた。
「前にいた奴ら、まじでうざかったな」
「そうな」
男の言葉に直ぐに同意した。
横を向くとサラサラ髪に丸眼鏡の一見好青年が、その顔に似つかわしくない険しい目つきでいる。
「田野丸の講義で喋るとか救いようのないアホだろ。あいつら自殺志願者かよ」
実際、髭面講師の田野丸は学内でも恐いことで有名だった。噂では講義中に私語をしただけで単位を取れなかっただとか、田野丸の研究室の学生がストレスで鬱になっただとか、その手の話は多く聞いたことがある。
「あいつらだけで苦しむならどうぞご勝手にだが、こっちまで巻き込んでくるなよな」
丸眼鏡の男、改め「横道 航」は余程頭にきているのか愚痴が止まらない。こちらはこちらで頭にきているので、それに乗じて毒を吐いた。
「特にあの帽子野郎いらついたわ。帽子のせいで前見えねえんだよ」
それを聞いて航は笑った。
「平吉、真後ろにいたからな。そりゃうざいわ。似合ってもねえ、帽子かぶりやがって」
それから帽子と茶髪を出しにひとしきり笑うと、航と二人で講義室の外に出た。
「でも、実際神原さんはやっぱキレイだよな」
講義棟の暗く、狭い廊下を二人で歩いていると、航が思い出したようにつぶやいた。
脳裏にさっき見た神原さんの映像が浮かんできた。長くキレイな髪、小さな頭にスラリと伸びる体、前をまっすぐ見つめる大きな目、ありありと浮かぶその姿は想像の中でも美しかった。
さっきから話題に上がる「神原さん」について、俺は今日になるまでついぞ聞いたことがなかった。てっきり航もそうだと思っていたが、この様子を見るにどうも違うらしい。
「航は神原さんのこと知ってんの? 有名なのか?」
俺の言葉を聞いて、「マジか?」と言わんばかりの顔つきでこちらを見てくる。
「平吉、おまえ神原さん知らないの?」
さも世間の常識のように言われるので、少し自分が情けないような感に襲われる。しかし、一同じ大学の女性を知らないぐらい普通じゃないかと直ぐに思い直すと、少しムッとした口調で続けた。
「知らねえよ。航こそ、なんで知ってんだよ」
航は呆れたような、愉快そうな顔をする。
「なんでって、入学式からその話題で持ちきりだったぞ。文学部にすげえ美人がいるって」
「へえ、そうだったんだ」
全く知らなかった。いや、知れなかったんだ。というのも、俺の大学生活は友達がいない状態から始まり、半年たって航と仲良くなるまでそれが続いていたからだ。どうやら、知らないところで皆の常識として広まっていたらしい。
「しかし、見た目は極上だが、実はひとクセ抱えてるんじゃないかと思うね」
航はそう言うと、意味有りげにニヤリと口元を動かした。
「どういうことだよ」
「いやさ、噂だと神原さん彼氏がいないらしいのよ。しかも大学に入ってから。めちゃくちゃ告白されてるのに。信じられるか? あんな美人がだぞ。こりゃ、何か裏があるとしか思えんね」
そう言って探偵よろしくあごを触った。
そもそも、どこからそんな噂が流れてくるのかとツッコみたくなったが、それよりも、そんな噂を流される神原さんに同情の念を抱いた。自分だったら、誰と付き合ってるだとか、誰に告白されただとかを広く学内で共有されるのはさぞ気持ち悪いだろうと思う。
もちろん航も悪意を持って話していないことも分かるし、単純な好奇心なんだろう。たぶん、その他大勢も航と同じだ。だが、その無邪気な好奇心が一人の女性を傷つけているんじゃないかと思うと、少し嫌な気がした。
「単純に好きな人ができなかっただけじゃないのか? 別に普通のことだろ」
「分かってるって。たぶんそうだと思うよ。でもさ、そういう謎めいた噂を聞くと一種のロマンスを感じずにはいられないのよ」
そう言って航は無邪気に笑うと、すぐに別の話題を話し始めた。
それから二人で大学前のバス停まで来ると、講義終わりの学生で既に行列ができているのが目に入った。
「やっぱり、この時期は新入生がいるから混むな」
航はわざと疲れたような声をだした。
「この時期の風物詩だな。まあ、もう少ししたら減るだろ」
大学も3年在籍していると、時期ごとにどんなイベントが発生するのか自然に覚えてしまった。
イベントと言っても大層なものではなく、今目の前にいるフレッシュな新入生が、さぼりを覚えたり、原付や車を買ってバス停からいなくなることや、普段人のいない図書館が試験間近だけ混み合い出すこととか、そんな類のどうでもいいことだ。
二人で列の最後尾に並んだ。
4月も中旬が過ぎて、熱を取り戻し始めた太陽が辺りを白く照らしている。大学に植えてある桜もすっかり緑をまとって、所々にピンクの飾りを残すだけになっていた。
「この後どうするよ?」
航が聞いてくる。その肌は陽に照らされて、いつも白いものが余計に白く感じられた。
航がしているのは質問というよりも確認に近い。俺たちには金曜日の講義終わりに必ず行うルーティーンがある。それは、二人の住む町にある安い居酒屋で1000円分だけ飲んで帰るというものだ。
なんでこんなことを始めたかは覚えてないが、二人が酒を飲める歳になってから自然と始まったことだった。
別段盛り上がるとか、楽しいとか、そういう会でもなく、ただ二人が言いたいことがあれば話すし、無ければ黙って酒を飲み各々好きなことをする、そういうものだ。時には一言、二言しか話さず、ほとんど一人飲みと変わらない日もある。
きっと他人が見たら、つまらなそうと思うだろう。だが、自然体でいられて、それを一緒に共有してくれる人がいる、そんな時間が居心地良かった。きっと航も同じように感じているから、ずっと続いているんだろう。
「もちろん。行きますか」
大学から俺の住んでいる横中町までは、山を抜ける長いバイパスを通った後、街中をしばらく走ってだいたい一時間半ほどでつく。
横中町は駅前こそキレイなビルが立ち並んでいるが、少し内側に入ると古い店やアパート、小規模な商店街が立ち並ぶ、昭和の風情を感じる少しだけ哀愁の漂う町だ。そんな雰囲気が気に入って、大学4年間の拠点としてこの町を選んだ。
バスが横中町に着くまでに、うちの大学の学生はみんな降りていった。
そりゃそうだ、わざわざ大学から離れた所に住もうと思う変人はバスに残された二人以外にはほとんどいないだろう。
バスを降りると、仕事終わりのサラリーマンや、学生で賑わう横中駅の様子が目に入った。既に山の向こうに消えようとしている陽に照らされ、駅全体が暖かな色で染まっている。
「んじゃ、行きますか」
航はそう言うと、後ろも振り返らず、ずんずんと進んでいく。それに置いていかれまいと、少し早歩きで背中を追った。
「ちかちゃんは元気?」
「おー、げんきげんき。元気すぎて困るよ」
航には彼女がいる。名前は「ちかちゃん」といって、未だに本名は聞いたことがない。
2度ほど会ったことがあるが、快活で、かわいらしい、素敵な彼女だった。
だが、航いわくいろいろ大変なこともあるらしく、時折その愚痴を聞かされることがある。しかし、彼女のいない自分はどうしてもそれをのろけとしか思えなかった。
「毎日2時間以上、電話でみっちりとお話を聞かしていただいているよ。よくもまあ、話のネタが尽きないよな」
ため息混じりに話す航に同情して笑う。
「でも、それはそれで楽しい時間じゃないのか?」
航はこちらをちらりと見ると、再びため息をついた。
「そりゃあ、まあ、最初は楽しかったよ。でも、毎日続けられるとさすがにねえ……」
「嫌になると?」
俺の言葉に航は何も答えず、ただふんと鼻で小さな息を漏らしただけだった。
それから、駅前を出て交番を曲がったところで、航が突然つぶやいた。
「ちかの話をしてたら、何か忘れてるような気がしてきたな」
「何かって?」
「いやあ、何かとっても大事なことだったような……」
そう言って、目を閉じ、眉間をおさえて考え始める。しばらくそのまま歩いていると、不意に大きく目を見開いて、こちらを見てきた。
「あ、やばい。今日は抹茶記念日だ」
「は?」
航の言葉に混乱する。突然、こいつは何を言い出したんだ?
「抹茶記念日って何だよ。初めて抹茶が発明された日か何かなのか?」
「ちげーよ。抹茶記念日は、抹茶記念日だよ。俺とちかが初めて抹茶カフェでデートをした日なんだよ」
その回答に少し引いた。
「ええ、それって記念日になるのか?」
「ちかにとってはな。あいつがそうしたいって言うから、そうしてるんだよ。じゃないと、泣いちゃうし」
困ったようにそう言うと、顔の前に両手を合わして言葉を続けた。
「悪い。今日のところはいつもの会は無しということで。会いに行かないとさすがにまずいわ」
「ああ、別にいいよ。また、行こう」
俺の言葉を聞くと、航は申し訳なさそうな顔で何度か謝ったあと、もと来た道を走っていった。
一人残された後、どうしたものかと頭をかく。一人で飲みに行く気にもならないし、このまま帰るのもなんとなく気が進まない。
それから、しばらく歩きながら考えた後、ようやく結論が出た。
本でも買いに行くか。ちょうど積んでた本が無くなったし、何か良い本と出会えるかもしれない。
ほとんど趣味らしい趣味を持っていない俺の暇な時間の過ごし方は基本的に本を読むことだった。
昔から本を読むのが好きで、暇さえあればよく本を読んでいた。もちろんゲームだとか、映画だとか、そういうものもやったり見たりするが、ほとんどの時間は本と共に過ごした。
他の娯楽と違って、本を読んでいるときは自分がまるごとその世界に入っていくような感じがする。作者と直接対話をしているような感覚になる。その独特な感覚が好きで、いつのまにか他の趣味を抑えて一番になっていた。
思い立つとすぐに駅前の本屋へと足を向けた。
小説にしようか、はたまた新書でも買おうか、自分の気分と対話をしながら歩き続けていると、ふと駅前の喫煙所が目にとまった。
普段は全く意識をしない場所なのに、今日は不思議と目を惹きつけられる。何気なく喫煙所を見ながら歩いていると、ある違和感を覚えた。
なんか、キレイな人がいるな。
喫煙所には3人いて、一人は少し禿げたつなぎ姿の中年、もう一人はグレーのスーツを着た若いサラリーマン。
そして、もう一人若い女がいた。背が高く、スラッとしており、遠目でも分かるほど整った顔立ちをしている。長い黒髪は肩にかかり、白いシャツにジーンズ姿のラフな格好をしている。しかし、そんなラフな格好でも、その見た目のせいかおしゃれに感じた。
そんな女が親指と人差し指に挟んだ白く、細長い棒を口に運んでは、薄い煙を目の前に吐き出していた。
そんな姿に惹きつけられ、喫煙所の方を見ながら段々近づいていくと、なんだかその女に見覚えがあるような気がしてきた。
どこかで見たことあるのかな? 大学? それとも、昔の知り合いか?
頭の中の記憶をたどりながら、さらに喫煙所に近づく。そうして、女の顔がはっきりと分かる距離になって、突然昼間の記憶が蘇ってきた。
講義室の前に座り、まっすぐと前を見つめる美しい女。男たちの視線を集めるその後ろ姿。航の話す怪しい噂。
一度にいろいろな記憶が頭を駆け巡った。
間違いない、俺はあの
目の前の姿と記憶の姿が一致した女から目が離せなくなった。そこにはタバコを吸っては薄い煙を宙に吹く、神原さんの姿があった。
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