第22節 -嘘と本音の二項対立-
警察が周囲の捜索を進める中、アザミは公園へと戻りマリアの傍へと歩み寄った。遠い目をしたままその場に立ち尽くしている。
フロリアンは現在、警察のパトカーの中で事情聴取を受けている最中だ。
マリアが抱いていた子犬の亡骸は警察により回収されていった。体内に残った弾丸の鑑定を行い、銃火器の入手ルートなどの調査を行う為のようだ。その後は専門の動物墓苑に運ばれ丁重に埋葬される予定だという。
アザミが傍に戻った事を確認するとマリアはただ一言だけ声を掛けた。
「終わったかい?」
「はい、何もかも。」アザミは短く返事をした。
「アザミ、私は私の目指す世界をこの手で必ず実現して見せるよ。絶対に。」
マリアはそう言うと拳を固く握りしめた。
男は自身が発砲した銃弾によって死を迎えるはずであった。
その後、駆け付けた警察によって逃げられないと悟った男の自殺として処理される筋書きだったが、結果は銃弾を弾き返すよりも先に子犬が射線に割り込んでしまった。
当初の未来予知による予定では犯人の男以外、誰も傷付かずに済むはずであったのだ。
「マリー。貴女の腕から子犬が飛び出した際、先程の結末を視たのですね?」アザミがマリアに問う。
「結局、私には何も出来なかった。私はいつだって無力だ。遠い昔も、今も。」俯いたままマリアは答えた。
アザミはあの時、マリアが預言によって誰かが傷付く未来を視たのだと考えていた。
マリアと自分の身体は撃たれた程度でどうにかなるものではない為、彼女の怯え方から察すれば、必然的にフロリアンか子犬のどちらかが傷付く未来であると分かる。
自分の意思とは関係なく垣間見る啓示は基本的に結末の改変が出来ない。つまり、そのような光景を予知したのであれば彼か子犬の内どちらかは必ず傷を負うという未来が決定されたものであり、何をしようと覆すことは出来ない。
それでも彼女はその未来に抗ったはずだ。フロリアンと子犬を自分の傍から揃って遠ざけたという事実が示すのはただ一つ。どちらが傷付くかまでは視えなかったという事である。
故におそらくは双方ともを危険から遠ざける意味で自らの傍から遠くへ引き離し、誰も傷付かずに済むという可能性に賭けたのだ。
実際、遠ざけた後の行動は早かった。珍しく焦っているようにも思えたほどだ。
「彼が助かったのは、きっとマリーの判断が正しかったからでしょう。貴女が彼を遠くへ遠ざけてなければ、彼は躊躇うことなく貴女の前に出て銃弾を受けていたでしょうから。もしかすると、あの子犬もそれが分かっていたのかもしれません。だから彼を別の方向へ連れて行こうとした。」
「都合の良い解釈だよ。子犬が何を思っていたのかまでは分からないからね。」
「しかし、それが人間と言うものでしょう。」アザミの返事を聞いてマリアは僅かに笑った。
人間ではないものが人間の考え方を語るなど道化のふるまいにも等しい。当のアザミ自身も、先程の自分の発言を可笑しな事だと感じていた。
遠くでパトカーからフロリアンが降車する様子が見える。
「さぁ、そろそろ彼ともお別れの時だ。目的は達した。これ以上、私達の傍に彼を置いておくわけにはいかないだろう。もう必要が無いからね。」
“必要が無い”
とても彼女の本心からの言葉とは思えない。アザミは直感でそう悟った。
間違いなく嘘だ。おそらくは彼女自身の立場から来る考えが彼女の本心を押し殺している。現に彼女は俯き、その表情も虚ろなままなのだから。
この事が後に悪い影響を与えるのではないかという不安がアザミを襲った。
聴取を終えたフロリアンが二人の元へ戻ってきた。フロリアンは先程まで不在だったアザミが戻ってきた事を確認すると安堵した。
「アザミさん、ご無事で良かった。」
「はい。貴方もご無事で何よりです。わたくしの事を気にかけて頂きありがとうございます。それと、マリーの傍に付き添って下さりありがとうございました。」
「その、何と言えば良いのか。」フロリアンはアザミの礼に複雑な表情を浮かべた。
「良いのです。貴方が気に病む事ではありません。傍にいながら何も出来なかったのはわたくしとて同じ事です。」言葉の意図を汲み取ったアザミは諭すように言った。
その隣でマリアは俯いたまま何も言わない。
フロリアンが何も答えられずにいると、警官が近くに寄って次の聴取対象としてマリアを呼んだ。マリアは促されるまま、何も言わずに警官の元へと向かった。
彼女がその場を離れるとアザミはフロリアンへ話を続けた。
「マリーは貴方に傍にいてほしいと願ったのでしょう?」
「え?」
「その袖口を見れば分かります。それはあの子がとっさに掴んだものなのでしょうから。」
フロリアンは自分のコートの袖口を確認する。するとマリアが握った位置に子犬の血で塗れた痕がついているのが見て取れた。
その血痕を見て血溜まりに沈んだ子犬の最期が脳裏に蘇る。助けられたかもしれない命だった。
しかし、子犬が犠牲になっていなければ銃弾は確実にマリアを打ち抜いていたに違いない。あの子犬よりも自分が早く駆け付ける事が出来ていれば何かが変わったのだろうか。
今となっては考えても意味の無い事が頭の中を駆け巡る。
フロリアンがとりとめのない思考に囚われているとアザミが再び言葉を掛けてくれた。
「貴方が傍にいてくださった事で、あの子の心は救われたはずです。何も出来なかったなどと思わないでください。あの子にとって、あの時は確実にそれが大きな支えとなったのですから。」
その言葉を聞いても尚、フロリアンは自分の中で問答を続けていた。
もっと出来たことがあるのではないかと。どうする事が正解だったのかと。
答えの出ない問答を巡らしている内にマリアが戻ってきた。かなり早い。まだこの場を離れて数分と経過していないはずである。
次にマリアの口からは意外な言葉が飛び出した。
「三人とも、もう帰宅しても良いそうだ。明日以降も何かを聞かれる事は無い。ブダペストに戻ろう。」そう言うと車に向かって歩き始めた。
何を話したのだろうか。フロリアンは彼女の言葉に少し違和感を感じた。どんな話をしたのかは見当もつかないが警察がそう言うのであれば良いのであろう。
アザミとフロリアンも彼女の後に続く。
先を歩いていたマリアがふいに立ち止まる。そして後ろを歩くフロリアンの方へ少しだけ振り返りながら一言だけ言った。
「フロリアン、ありがとう。」
その口元は決して憤りなどを表すものではなく、むしろとても穏やかなものに見えた。マリアは手短に一言だけ伝え終えると再び歩き始める。
マリアの様子を見たアザミは、それがある種の安堵からくる感謝の言葉だと感じていた。肝心なところで不器用になる彼女らしい伝え方だ。
目の前で子犬の命が散る様を見て傷付いていないはずがない。今でも精神的には相当に堪えているはずである。
しかし、彼が傷付く事だけは回避できた。その事実だけで彼女の心は救われている。
彼という存在が彼女の中でどれだけ大きなものとなっているのかは想像に難くない。自分の横では、肝心なフロリアン本人が戸惑った様子を浮かべてはいるが。
問題はこの後だ。マリアはフロリアンに何を話すのか。それとも何も話さないのか。
自分達の素性を含めて、この場合は何も話さずに別れて、その後も連絡を絶ってしまうというのがセオリーであると思うが…
車に到着するとアザミが後部座席のドアを開き二人を先に乗せる。その後自分も運転席に乗り込みエンジンをかけると、間もなくその場からブダペストへ向けて出発した。
時刻は午後4時を指そうとしている。西の空では太陽がその姿を完全に隠し、夜が訪れようとしていた。
* * *
午後4時。ブダペストの国際会議場では各国の演説が終了し、代表者による質疑応答へと移行していた。
各国の代表からは昨日の機構の発表に対する意見も次々と浴びせられた。
そして、ある国家の代表から今まさに機構に対する質問が行われようとしていた。
「世界特殊事象研究機構にお伺いしたい。ヴァレンティーノ氏、まず貴方がたが昨日提示された提案は素晴らしいものでした。国家という枠組みを超えて、国際機関の一つである貴方がたが共に問題解決に取り組もうとする姿勢に我が国は心より賛同の意と敬意を表します。さて、その施策に関して質問ですが、昨日の演説においては受け入れが実現するまでにかかる具体的な期間の提示が無かったように思うのですが、その点についてもっと詳細を聞かせて頂けませんか?」
代表質問に対してレオナルドが答弁に立つ。
「先の質問の件についてお答えします。我々が現段階において明確にお伝えできるのは、昨日申し上げた内容が全てです。世界が抱える問題を共有し、共に解決する道を歩む。その為に当然出来る限り早く受け入れを行っていく所存です。次の九月に開催される国際連盟総会の時期には成果が発表できている事でしょう。」
「貴方は演説の中で現在世界が抱える難民の数を具体的な数字を持って提示されました。つまり、今後一年の間にどれだけの難民が増加していくかはよくご存じのはずです。世界は九か月もの間待っている余裕はありません。」
「現在も受け入れの準備に向けて機構の隊員たちが精力的に活動してくれています。具体的な時期を申し上げる事は出来ませんが、より一層迅速に体制を整えられるよう努力すると誓いましょう。」
意味のない議論だ。もし、今の機構と同じ立場となる他の国家があったとして、同じ質問を提示されれば同じようにしか答える事は出来ないだろう。
彼らは機構が具体的な答えを出せない事を知っていて執拗にその質問への回答を迫っている。
何度質問されても同じだ。答え無き議論には答えない。ここで迂闊な事を言って言質を取られるような事になれば自分達の首を絞める事になってしまう。
かといって何も答えなければ曖昧な表現に終始したとして批判を浴びるのも明白だ。
故に具体的ではないが “次の総会までに一定の成果を上げる” というどちらとも取れる回答に終始する。
未来の事など誰にも分かりはしない。今できる最善を踏まえた上で出来る事だけを答えるべきだ。
先程の代表は別の国に対する質問へと移っていた。思ったよりは随分と淡白な質疑であった。
このような答弁が後何度繰り返されるのか。
次に待ち構える質問の中には各国が担う機構に対する拠出金の話も含まれてくるだろう。
目の前で繰り広げられる終わりの見えない議論に胃の痛みを感じ始めた時、隣からフランクリンが耳打ちをしてきた。
「総監、彼女達からメッセージです。例の件は片付いたと。」
例の件。難民狩り事件の事で間違いない。
あの二人に何事も無かったであろう事は幸いだ。なぜ自分達にその事をわざわざ火急に伝えたのかは分からなかったが、心の奥底で感じていた懸念はすっきりと晴れていった。
「それと、最後にもう一文。 “午後九時にエルジェーベトの目で待つ” と。」
待ち合わせの誘い?会って何を話すというのか。考えられるとすれば例の事件の詳細についてだろう。
エルジェーベトの目。濁した書き方ではあるが、この街で【目】と言えば思い浮かぶものは一つしかない。
おそらくエルジェーベト公園にある観覧車、【ブダペスト・アイ】の事を指していると思われる。
どんな話をするにしても相手が相手だ。誘いを無下にするわけにもいかないだろう。
「分かったと返信しておいてくれ。」
「承知しました。」
レオナルドはフランクリンに了承の返事を送るように促した。これ以上胃の痛みが加速する話ではない事を祈りつつ、頭を総会の質疑応答へと切り替えた。
次の国家代表の質問に入るようだ。再度自分達に繰り返し問われるであろう内容を想像しながら、レオナルドは資料に目を落とした。
* * *
リュスケからブダペストへ戻る途中の車内はとても静かだった。
無理もない。彼女は目の前で子犬が無残に殺される光景を目の当たりにしたのだ。
フロリアンは日が落ちて暗くなった外の風景を眺めていた。とはいえ特に何が見えるわけでもない。
広大な大地と枯れた樹木、市街地と道路を遮るフェンスなどが見え、時折自分の顔が窓に映りこむくらいのものである。
視線を前に移したとしても、車のヘッドライトが照らす百メートル先の道路しか見る事は出来ない。
車の窓に反射して映る自身の顔は酷いものだった。まったく意識していなかったが存外に疲れているらしい。
しかし今は自分の事よりもマリアの事だ。公園を出る直前に “ありがとう” とただ一言言われたきり何も会話をしていない。
当然ではあるが先程の事件の直後から、笑顔を絶やすことが無かった彼女から笑顔は消えたままだ。ずっと力無く虚ろな表情をしている。
フロリアンはこういう時にどういう言葉を掛けるべきなのか分からなかった。
ふとマリアの方を向く。窓に反射して映る彼女は静かに目を閉じていた。フロリアンはその様子を見つめていた。
しばらくしてマリアは目を開き、窓に映る姿越しにフロリアンと視線が重なる。
するとマリアは軽く微笑んで見せた。しかし、明らかに無理をした表情だ。その表情からは悲しみが見て取れる。
マリアは車外を向いたままフロリアンに話しかけた。
「陰鬱な顔ばかりしてすまない。」
「仕方ないよ。あんな事があった直後だもの。人はいつも笑顔でいられるわけじゃない。悲しい事があれば、泣きたい時だってあるはずだよ。」
「君はどこまでも優しいんだな。結果として危険な目に遭わせてしまった私を責めたりしないのかい?」
「まさか。可能性はあったにせよ、あんな出来事が起きるなんて誰にも分からなかったんだから。」
フロリアンの言葉にマリアは黙り込んだ。そして声のトーンを落として呟くように言った。
「違うんだ。私は…私達はそれを予め知っていた。」
フロリアンはその言葉を聞いた瞬間、息が止まりそうだった。彼女が何を言っているのか理解できない。
予め知っていただって?あの場で起きる出来事が予め分かっていた?
「どういうことだい?」フロリアンは、こういう時に誰もが返すはずのありきたりな返事しか出来なかった。
「私はあの場に難民狩りの犯人が現れる事を知っていたんだ。どういう経緯で知ったかは言えない。けれど、あの場で犯人と出会う事は最初から分かっていた。」
フロリアンは状況が全く呑み込めなかった。
そんなはずはない。そんな事が出来るはずがない。
「私はね、あの時間、あの場所に行けば難民狩りを行っている犯人と遭遇すると分かった上で君を巻き込んだ。実際の所、その方が都合が良かったからね。さらに言えば昨日もそうだ。アシュトホロムの公園に奴が潜んでいる事も知っていた。知った上で私たちが今日リュスケへ向かう事をわざと奴に “聞こえるように伝えた” んだ。」
「どうして…」フロリアンがそこまで言いかけた時、マリアはその言葉を遮って話を続けた。
「どうして警察や国境警備に言わなかったのかについても言えない。どうして君を巻き込んだのかについてなら “利用価値” があったからだ。私達だけで行くより君がいる方が確実に狙われると思った。君のような凡人がいてくれた方が警戒心無く狙ってくれると踏んだからだよ。」
少しの間をとってマリアは話を続ける。
「酷い話だろう?私達の言う “予定” とは初めから犯人との遭遇だった。そして私達は君と出会い、君と行動を共にし始めたその瞬間から、この目的の為に君を利用するつもりでしか無かった。国境付近へ連れて行ったのは君の事を思ったからなどではない。私達の目的の為だ。犯人を捕まえてやるという目的の為だけだ。それ以上でも以下でもない。そしてつい先ほど目的は達せられた。私達にはもう君は…必要無い。」
そこまで話すと一瞬言葉を詰まらせる。
「…醜くて、汚くて、どこまでも穢れている。最低な女だと蔑んでくれたって良い。」
そしてマリアはフロリアンの方を向いて言った。
「フロリアン。私は君が私に対して憧憬にも近い視線を向けている事にも気付いている。だが、私は決して君が思ってくれているような綺麗な女では無いんだよ。」
言葉の強さとは反対に、その目には涙が湛えられ、表情は今にも泣き崩れそうなものだった。
話を終えるとマリアはすぐに視線を逸らした。
自分を突き放すように言っているが、本心では無いのではないかと思った。自分勝手な解釈に過ぎないが、仮に本当に騙して利用するだけならもっと別のやり方があったはずだ。
何より、その事を今ここで “言う必要がない”。
“嘘は言っていないが本当の事も言っていない。”
そう思えて仕方なかった。
「違う、違うんだよ。僕が聞きたいのはそう言う事じゃない。どうして、どうしてなんだマリー。君は “どうして自分が危険な目に遭うと分かっていて” そこに行ったんだ。」
フロリアンはマリアの小さな両肩を持って言う。マリアは唐突に肩を持たれたことに驚いた様子だった。
それでも視線を合わせようとしない彼女に構う事無くフロリアンは話し続けた。
「君の言葉に乗って国境付近へ行く事を選んだのは僕だ。例え君が僕を最初から利用するつもりだったとしても、そこに行く事は僕自身が決めた事だから後悔はしないし、君を恨んだり、憎んだりも決してしない。君の事を醜いとも汚いとも思わない。」
「正気で言っているのかい?私の口車に乗ったせいで、あの子犬ではなく君が撃たれて殺されていた可能性だってあったというのに。」
「その可能性があったという事実は確かに怖いけど、君は嘘をついている。さっき公園で疲れたからと言って僕と子犬を草むらの方へ行かせたのは、危険から遠ざけようとしたからじゃないのかい?犯人がその場にいる事が最初から分かっていたなら、そういう事だって出来たはずだ。僕を本当に鴨として利用するつもりだったのならそんな事をする必要が無い。反対に僕を囮にして自分達が助かる方法を取るのが普通だ。でも君はそうしなかった。」
マリアはずっと目を背けたままだ。しかしフロリアンの言葉はしっかりと聞いている様子だった。
「正気を疑われるかもしれないけど、僕は僕自身が選んだ決断でそういう目に遭っていたのなら納得するしかないと思っている。それが仕組まれたものだったとしてもだ。僕が見過ごせないのは、君自身が危険な目に遭うと分かっていた上で敢えてその選択をした事についてだ。」
「…やっぱり君は、筋金入りのお人好しなんだね。たかだか二日にも満たない時間を一緒に過ごしただけで、それほどまでに情が移ったのかい?こんな私に説教をして聞き入れるとでも?」
マリアは半ば自嘲気味に言った。それに対してフロリアンはマリアから視線を逸らさずに言う。
「君とアザミさんと過ごした時間は僕にとってかけがえのない大切な思い出になった。僕はもう君の事を赤の他人だとは思えない。こう言う事で君が危険な事をせずに、その状況から救われるならいくらでも怒るし説教だってするさ。」
そして大きく息を吸って呼吸を整えてから話を続ける。
「マリー。聞いてくれ。僕も本当は気付いていたんだ。君が僕に何か隠し事をしているという事を。国立歌劇場の開演前も、アシュトホロムの公園の時も、マーチャーシュ聖堂で聖歌を聞いていた時もブダ城で石像を見た時も。そしてさっき、リュスケの公園に到着した時だってそうだ。君は何かに後ろめたさを感じているようだった。君は目的に対して嘘はついていないけど、自分の心に嘘をついている。きっと後ろめたさを感じる度に誤魔化して僕を自分の本心から遠ざけようとした。あくまで僕を物として利用する為に。でも、君は最初から僕についてくることを強要しなかったじゃないか。僕はいつでも君の誘いを断る事が出来たんだ。それでも…その事に気付いていた上で一緒に行く事を選んだのは僕自身なんだよ。」
「まるで私の事を分かった風に言うんだね。それは全部憶測だよ。誘いについては君が首を縦に振るように私が誘導したかもしれないし、仮にあの時君がNOと言えば別の口車で篭絡したかもしれない。」
マリアはフロリアンの言葉に対してしっかりと返事をしているが、戸惑いを浮かべていることが見て取れる。
自分の言葉を憶測だと否定しつつも、それ以上に根拠のない憶測を自ら話してしまっている。
「君はそんな事はしない。じゃぁ、どうして嘘をついていた事を今僕に話したんだい?騙し通すつもりなら言わずに置けば良かったんだ。」
「それは…」
思った通り、そこでマリアは何も言わなくなった。言えなくなった。
フロリアンの質問に対して答える事は無く、別の質問をマリアが言う。
「どうして…どうして君は昨日出会ったばかりの素性も分からない、しかも今まで自分の事を半ば騙していた人間をそこまで信じようとするんだい?」
「僕が信じたいと思ったからだよ。」フロリアンは迷いなく答えた。そして決定的な一言をマリアに突き付けた。
「マリー、君は…本当は誰かに自分の事を分かってほしいと思っているんじゃないのかい?」
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
「それ以上話さないでくれ。どうやら君は、筋金入りの馬鹿のようだ。」
マリアは会話を強制的に終わらせにかかった。
大きな溜息をついて力無くそう言った彼女の肩は僅かに震えている。それは彼女の両肩を持つフロリアンの指先にしっかりと伝わった。
「馬鹿で良い。」それでも、フロリアンは決して彼女から視線を逸らさなかった。
再び二人の間に沈黙が流れる。
「すまない。感情的になった。疲れたから少しそっとしておいてくれないか。」
「ごめん。」マリアの言葉でフロリアンは自身も感情的になっている事に気付く。彼女の肩を掴んでいる手に力が入っている事に気付き手を離す。
マリアはすぐに体の向きを変えると再び車外に目を向けた。
フロリアンも複雑な気持ちを抱えつつ再び視線を車外へと向ける。
彼女の気持ちを慮ったつもりだったが、自分よがりの単なる説教になってしまった。
マリアの言う通り、全てはただの憶測だ。分かった風な口をきいたが、彼女の事を何も知らない自分が彼女の事を本当に理解しているとは到底言えないだろう。
これで完全に嫌われてしまったかもしれないとさえ思った。頭の中では思考が輪郭を保てなくなりぼやけ始めた。
どうするべきだったのか。昨日も今日も、今も。答えの無い問いを頭の中に巡らせるのは何度目になるだろう。
窓の外に流れゆく景色を眺めながらフロリアンは物思いに耽った。
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