第21節 -神罰の刻-

 男は公園の草むらに身を潜めていた。入口からは程遠いベンチのある付近だ。

 この町の中で一番国境に近付ける場所はここしか有り得ない。他の場所は監視カメラや警備ドローンの動きが多く、少し立入るだけで連れ戻されるはずだ。

 ここ以外の場所と言うのはとても立ち止まって話などが出来る状況ではない。

 男が自身の考察を名推理だと思いながら考えていると、公園の中に一台の車が入ってくるのが見えた。

 間違いない。あの車だ。昨日アシュトホロムに来た車。

 車から降りてくる三人を見て男はほくそ笑んだ。事は全てうまく運んでいる。

 生まれつき天運などというものが無かった自分にもようやくツキというものが巡って来たらしい。

 昨日の夕方から今日のこれまでが長かった。身を潜めて考え続けた。最高の狩りを楽しむ為に取るべき最上の手段。誰から仕留めるべきか、どういう順番で行動するべきか…

 まずはあの女二人を襲って拉致してしまうのが良いだろう。男を始末する前の人質にも盾にも使える。

 出来れば女は最後まで傷つけたくはない。そんな事をすれば実入りが少なくなってしまう。上物はより高値で売り飛ばしたい。


 男は目の前に訪れた幸運とも言うべき結果を見つめながら、狩りの実行タイミングを見計らう為に三人の動きを注視する事にした。


                 * * *


 リュスケの市街地から移動を始めておよそ十分後。フロリアン達は道路沿いにある公園に辿り着いた。

 特に何があるわけでもないただの広い空地だ。少し離れた辺りに外灯とベンチが見えるが、それ以外の周囲は枯れ木が立ち並び草むらが広がっているだけである。

 公園入口付近に車を停車させると三人は外に出た。


「ここが目的地なのかい?」周囲を見渡しながらフロリアンが言う。

「今の状況で辿り着ける国境線ギリギリの位置だよ。特にこの付近には拘留センターがあるからね。昨日のアシュトホロムとも違って格段に警備範囲も広い。ここから先は少し近付いただけですぐに警備ドローンがやってくる。」同様に周囲を見渡しながらマリアが答えた。

「とても静かだね。さっきの町中も閑静なところだったけど、ここはただ平穏な静けさがあるというよりは “そうあるべきだ” という意思によって作られたような静けさだ。」

 首都や市街地と比べたときの隔たりを実際に感じたフロリアンは小さな声で言った。そこには言葉通りの空虚が広がっているように思えた。

 落ち着きや平穏、温もりなどといった市街地が抱く雰囲気とは違い、発展や栄華や希望といった首都が抱く雰囲気とも違う。

 近付いてはならない。早く通り過ぎなければならない。

 ここにあるのはそういった抑圧や忌避といった空気感だ。およそ誰もが “意思をもって避けている” という空虚。

 ただそこに佇んでいるだけでこの地が纏う寂寥が感じられる。


 日暮れが近付く。西へと下る太陽の光が公園を照らす。

 暖かさの象徴である太陽の光を受けて尚、この場が発する雰囲気が変わる事は無い。冬の寒風が通り抜ける音だけが辺りに響く。

 先程から感じている感覚をうまく言葉にして出すことが出来ないまま立っていたフロリアンだったが、ふと耳におよそこの場には似つかわしくない賑やかな声が聞こえてきた。

「犬?」

 鳴き声に気付いたマリアとアザミも周囲を見回す。

 すると草むらの中から一匹の子犬が飛び出してきた。首元には特徴的なオレンジ色の首輪を嵌めている。

「その首輪、君は昨日アシュトホロムにいた…」

 間違いない。昨日アシュトホロムの公園で遭遇した人懐こい表情が特徴的なあの子犬だ。

 その事に気付いたマリアが驚きの声を上げる。子犬は尻尾を振りながら無邪気な表情でマリアとフロリアンの方へ近付いてきた。

「ご主人様の所に帰ったんじゃなかったのかい?こんなところまでどうやって。」

 マリアはそう言うと子犬の首元を撫でた。撫でられた子犬は気持ちよさそうにして目を閉じる。マリアはそのまま子犬を抱き上げた。

「やはり昨日の子犬だね。どうやってここまで来たんだろう。」フロリアンも子犬を撫でる。

 フロリアンが子犬を撫でると子犬は閉じていた目を開き、一度だけ鳴くと突然マリアの腕の中から飛び出した。

 驚いたマリアとフロリアンであったが、子犬の行き先をすぐに目で追う。すると子犬は尻尾を振りながら草むらの先に向かって何度か鳴くとすぐに二人の方を振り返った。

「向こうに何かあるのかな?」

 フロリアンがそう言った瞬間だった。マリアの脳裏にある光景が次々と流れ込んできた。


                  *


 俯瞰風景。遠くから自分達を眺めている。ベンチのある方向に自分とアザミ、そしてフロリアンと子犬がいた。

 ノイズが走るように視界が乱れ場面が変わる。次に見えたのは銃を構える男の姿だ。男は何ら躊躇う事なく銃の引金を引いた。

 さらに視界が乱れた直後、映し出されたものは大地に広がりゆく血液である。

 何かが崩れ落ち、地面に血溜まりが広がっていく。黒い影である “何か” の正体は分からなかった。

 その影はおそらく自分でもアザミでもない。彼か子犬のどちらかだ。


 未来予知。天啓、啓示、或いは預言と呼ばれるもの。

 人智では見通すことが出来ない未来の事象が垣間見える。これらは自身の意思によって見る景色ではなく、先に起きる “結果” を見通すものだ。

 その結末を覆す事はほとんど叶わない。


                  *


 マリアは激しい動悸を感じた。悪寒が全身を駆け巡る。

 この場に留まれば彼が撃たれる。直感的にそう思った。

 青ざめた表情で硬直するマリアを見てフロリアンが心配の声を掛ける。

「マリー?どうしたの?気分でも悪くなったのかい?」

 マリアはその声で現実に引き戻される。何でも無いと言う為にすぐに作り笑いをする。

「いや、大丈夫。歩き詰めだったからかな。やはり少し疲れているみたいだ。私とアザミは向こうのベンチで少し休むよ。フロリアン、君は子犬が行きたがっている所を見て来ると良い。ご主人の居場所に繋がる何かが分かるかもしれない。」


 詭弁だ。自分自身でもそう思う。しかし、今この場に彼と子犬を留まらせるわけにはいかない。預言で垣間見た景色は “規定事項” として今から僅かな先の未来に組み込まれた。

 そうであるならば、 “自身の目の前で銃撃によって倒れる” という可能性から彼らを遠ざける為に、自分の目の届かないところまで行かせておく方がむしろ安全だ。

 それが例え覆す事が出来ない預言であったとしても、何もしないままでいるわけにはいかなかった。

 動悸は未だ止まることなく、自身の指先までも震えているのが知覚できる。アザミはその様子を何も言わずに傍で見守る。

「私なら大丈夫。隣にアザミもいるから。さぁ、もうすぐ日が暮れる。暗くならない内に見ておいで。向こう側なら警備ドローンなんかもいないはずだ。」


 無理をして笑顔を作っている事は明白だった。怯え切ったような表情を浮かべるマリアに強い違和感を感じつつも、フロリアンは彼女の言う通りに行動する事にした。

「分かった。すぐ戻るよ。マリーはゆっくり休んでいて。」

 そう言ってフロリアンは子犬と共に草むらの向こう側へと歩いて行った。

 その姿を見送ったマリアはアザミと共にベンチの方へと歩き出す。


「マリー。」ベンチに向かって歩く途中にアザミが自身の名を呼ぶ。

「大丈夫だよ。誰も傷付かないさ。」

 こんな嘘に意味は無い。アザミは全て分かっているはずだ。

 どうしてフロリアンと子犬を自身から遠ざけたのかも。今の言葉によって誰かが傷付く未来を自分が垣間見たという事実も。

 マリアはベンチの前に辿り着くと一度目を閉じて深呼吸をする。息を吐きながらゆっくりと目を開く。

 そして草地が広がる一見何もない虚空を睨みつけた。


                 * * *


 男が狩りの始め方について思考を巡らせていると草むらの中から犬が飛び出してくるのが見えた。

 やけに見覚えのある犬だ。昨日アシュトホロムにいたあの犬だろうか?どうしてここに?

 それとなく様子を窺っていると、間もなくして犬と男は別の方向に向かって歩き去って行った。


 好都合だ。絶好の機会。しかもお誂え向きに女二人の方からこちらの近くまで歩いてくるではないか。

 さぁ、狩りの始まりだ。夕日は西に沈みゆき、辺りを満たす光は徐々に輝きを失いつつある。目の前に迫り来る獲物が狂乱の叫びを上げる瞬間も遠くない。

 それこそが、自分がこの長い一日の間待ち望んだたった一つの瞬間。


 もっと近づいて来い。男は透明になったその身をさらに隠しながら身構える。

 二人の女が近くまで歩いてきた後、小さい方の女が深呼吸をすると視線をこちらへ移し睨みつけて来た。

 そして驚愕の一言を言い放つ。


「そこにいるんだろう?出てきたらどうだ?」


 小さい女の言う言葉に男は驚いた。擬装は完璧。見えているわけがない。

 しかし、奴は視線をこちらに向け見据えたまま動かそうともしない。女は続けて言う。

「難民狩り…いや、こう呼ぶべきかな?ライアー。自分だけでは何も成せない軟弱者、姿を晒す事すら拒む臆病者、自身より弱い相手しか狙う事が出来ない卑怯者。姿くらい見せたらどうだ。」


 嘘つき。確かにかつて自分はそう呼ばれていた。

 自分以外のものは全て敵であるという認識から平気で嘘をつき、騙し、貶めてきた。それを指して施設の看守が自分を呼ぶときに使った呼称だ。

 この女がそれを知っているということはただの一般人ではない。やはり美味い話だけがそう単純に転がってくるはずがないか。


 自分の位置や詳細がばれている以上隠れて襲うなどという当初の考えも通用しないだろう。その視線が自分を捉えて離さない所を見ると奴には確実に自分が見えている。

 となると、姿を見せずにここから逃げる事も出来なさそうだ。逃げる為に迂闊に動けばすぐに警備に通報されて面倒な事になる。

 体力は無さそうな女二人が相手。付近の警備に通報されるより先に力づくでねじ伏せる方が効率が良いかもしれない。

 ただし、力づくで抑えるにしても、奴らが通報の動きを見せるよりも先に抑え込む必要がある。

 どうやって?この位置から狙撃するか…いや、見えている以上は無理だろう。外せば取り返しのつかない状況を自らの手で招いてしまう。

 何にせよ、どうも傷を付けずに捕らえる事は難しそうな雲行きだ。

 確実に有利な状況で相手の動きを封殺する為には、まず僅かでも相手の警戒心を解くのが賢明といったところか。


 そう考えた男は一度相手の望み通りに姿を見せる事にした。

 男は姿を隠す為の絡繰りを解除して草むらから出る。

「よう、お嬢ちゃん。俺の事が見えたのかい?」


                 * * *


 全身に特殊な素材を使用しているであろう服を着た大柄の男が茂みから現れる。

 先程の男の問い掛けにマリアは答える。

「可能であるならお前など視界に入れたくは無かったけれど、こちらにも事情というものがあってね。」

 真っすぐに蔑みの目を向けたままマリアは男に言い放った。

 その瞳には怒りの色が浮かんでいる。漆黒の夜より暗く、奈落の底のような仄暗さを湛えた赤い目が男を射貫く。


「ガキの癖に言うじゃないか。それにさっきの口上は少し頭に来たな。軟弱者、臆病者、卑怯者だと?お前みたいな小娘が俺の何を知っていると言うんだ?」

「全て。お前の人生におけるおよそ全ての事は調べさせてもらった。知りたくは無かったんだけれどね。」男の質問にマリアが答える。

「ほぉ、それで?笑いに来たのか?知った上で蔑みに来たのか。お前達のような生まれついての恵まれた人間と言うやつが。生まれてすぐに捨てられ、両親というものを知らず、誰にも必要とされず、誰からも受け入られなかった人間の事が分かるとでも?」

 マリアは男の言葉を無言で聞く。

「この世に生まれた意味を見出せず、生きる意味も持たず、生きていく術すら教えられなかった人間の事が分かるのか?ガキの頃に世界にいる人間は皆が平等だと教えられたが、そんなものは嘘だ。クソくらえ。万人が等価値を持つ事など無い。この世界は強者が弱者を虐げるだけのものだ。生まれた場所、力、金。最初から恵まれた奴らというのは恵まれなかったものを蔑む事しかしない。可哀そうという言葉は幸福を享受している人間が、自分以下の存在を見た時に出す言葉だ。存在を否定され続け、価値が無いと罵られ、どこにも居場所が無かった俺が生きる為には他人から奪う以外に無かった。奴らがそうするように、力で奴らから奪う事で平等だ。」

「それで?」マリアは視線を逸らす事無く男を見据えたまま言う。マリアの言葉を聞いた男はホルスターから銃を抜くとマリアに向けて構えた。

「心底腹の立つガキだな。」

 銃を構えた男を前に、マリアは大きな溜息を吐いてから言った。

「やれやれ、何を長々と語りだすかと思えばつまらない話だ。お前は己の不幸自慢を嬉々として語るが、それしか語る事が無いのかい?誰との喧嘩に勝ったとか、日付が変わるまで働いたとか、昨日の夜は三時間しか寝てないと自慢する奴らと変わらない惨めさだ。そんな話で私達がお前に僅かでも同情すると思ったのかい?」

「黙れ。お前達みたいに生まれた場所が良かったというだけで恵まれた奴らに、俺のような人間の境遇や思いなど生涯をかけたとしても分からないだろう。」

「恵まれた奴らか。あぁ、分からないね。分かりたくもない。君はまるで罠にかかって尻尾を失くした狐のようだ。尻尾のない自分が惨めだからといって、それを他者に押し付けてはいけない。何なら私が “新しい尻尾の生やし方” でも教えてあげようか?」

 マリアは怒りによる蔑みを通り越した狂気の笑顔を男に向け挑発するように言い放った。

「けっ、調子に乗りやがって。お前のようなガキに教えられることなど何もない!見た目で高く売れそうだと踏んで傷つけずにおいてやろうと思ったが、そういうわけにもいかなくなったな。」

「おやおや、最初からレディを口説くつもりだったのならもっとましな話をするんだったね。誰かに必要とされるのは悪い気分ではないが、それは少々悪趣味が過ぎるというものだ。私にも選ぶ権利がある。」嘲笑を浮かべてマリアは男に言った。

「ふざけやがって。気が変わった。今この場で殺してやる。」

「あぁ怖い怖い。それは恐ろしいね。では “最期” に私から一つ質問だ。お前にその擬装を渡した人物は誰だ?」

「今から死にゆく者に答えてやる義理は無いが、冥土の土産に答えてやろう。実の所俺も誰かなんて知らない。男か女かすら分からない。奴は自分の事を “プロフェータ” と言ったがな。何の事か分からねぇが、『お前の望みを叶えるものをやろう』なんてほざいて面白い手土産を寄こしてきたから望み通り使ってやったのさ。なんでも俺が神に選ばれたんだそうだ。天啓が指し示したとか抜かしやがったな。」


 プロフェータ…預言者だって?その単語はイタリア語で預言者を示す言葉だ。それが示すものは分からないが聞きたい事は聞く事が出来た。

 大した収穫では無いが。


「結構だ。」マリアは短く答えた。アザミはその傍で一言も発することなくただ静かに佇んでいる。

「満足したか?では隣にいるでか物と一緒に、二人仲良くあの世に行きな。」

 男はそう言うと引き金に掛けた指を引いた。


                 * * *


 フロリアンは子犬が歩いて行く先に共に向かっていた。

「ここに何かあるのかい?」

 通じているとは思えないが、そう言って後を追いかける。子犬は自分がついてきているかどうかを時折振り返り確認しながら先へと進む。

 フロリアンは不思議に思いながらもその後を追いかけていくと、子犬はある場所で立ち止まった。

 そこには一台の農作業用に使われるであろうトラックが草むらの茂みに隠されるように乗り捨てられていた。

 背の高い草の茂みによって周囲の道路からトラックの姿は完全に隔絶されている。

「こんなところにトラック?これに乗ってきたのかい?」

 振り返った子犬が一度だけ同意を示すかのように声を上げた。

 どうやらこの子犬はアシュトホロムから目の前にあるトラックに乗ってきたようだ。その時、フロリアンの脳裏に朝のニュースで流れていた情報が浮かんだ。


 アシュトホロムで盗難された農業用トラック。

 国境付近で起きている難民狩り事件とトラック盗難の繋がり。

 リュスケに向かうと言ったマリアの言葉。

 昨日公園にいたはずの子犬。

 そして、その子犬はトラックでここにやってきた。


 それらが意味するものをすぐに理解した。この子犬はその事を自分達に伝える為にここまで誘導してきたのだ。


 すぐに引き返さなければ!マリア達が危ない!


 フロリアンが振り返ると、子犬は既に自分よりも早く元来た方向へと全力で駆け出していた。その後を追いかけて全速力で走る。

 早く、早く、早く!どうか無事でいてくれ。

 フロリアンは走り出すと同時にスマートデバイスを起動し、そこから現地警察に向け彼女達がいる位置に対する緊急通報を送信した。

 脳裏に彼女の笑顔が浮かんでくる。フロリアンは二人の無事を願い全力で走った。


                 * * *


 男が指にかけた引金を引く。サプレッサー付きの銃から放たれた弾丸はマリアの心臓を狙ったものだった。


 終わった。発砲されて尚余裕の笑みを浮かべるマリアはそう確信していた。

 その弾丸が自身に届く事は有り得ない。届くより前にアザミによって “打ち返される” はずだ。

 彼女の手に掛かれば銃が発砲された後、その弾丸を目視した上で狙った場所に弾き返すなど造作も無い事である。

 人間の作った武器などわざと当たろうとでもしない限り当たるはずがない。

 弾き返された弾によってこの男は自らの命に終止符を打つ。


 そのはずだった。


 しかし、銃が発射された次の瞬間にマリアの視界に飛び込んできたのは信じられないものだった。

 マリアの目の前を黒い影が横切ったかと思うと、それは悲鳴にも近い鳴き声を上げて宙を舞い地面へ落ちていった。


 男が放った銃弾の直撃を受けたのはあの子犬だった。

 猛烈な勢いで茂みから抜け出し、二人を庇う為に一直線に男に飛び掛かった際に銃弾を浴びたのだ。

 子犬が落下した地面は瞬く間に血に染まっていく。崩れ落ちた子犬は僅かな間、震えて喘いでいたがすぐに動かなくなった。


「ちっ、あの時の犬か。人の楽しみを邪魔しやがって。」男は一発目を外した事に対して舌打ちをする。直後に少女の名を呼ぶ声が聞こえた。

「マリー!!」

「あのみすぼらしい男か。三人まとめて始末したいところだが分が悪いな。興も削がれちまった。クソが。」

 男は言葉を吐き捨てると茂みの奥へ走り去っていった。警察を呼ばれた可能性を考え撤退を決めたようだ。

「マリー!大丈夫かい!」

 彼女の元へと全速力で駆け寄る。その先には銃を持った男が走り去る様子が見えた。

 フロリアンは彼女の傍に駆け寄ると、その視線の先にある子犬を見て愕然とした。動かなくなった子犬からは止まることなく血が溢れ出している。

 マリアは目の前の子犬を見つめたまま呆然と立ち尽くしている。

 先程の男の銃で撃たれたに違いない。穿たれた場所は心臓付近だろうか。恐らくほぼ即死であり既に手遅れだ。

 マリアは静かに子犬に近付くと地面に屈む。そして血溜まりに沈む子犬を抱き上げた。

「馬鹿だな、君は。」まだ温かいがぐったりとした子犬を抱きしめるとただ一言小声でそう呟く。

 自らのドレスが溢れ続ける血で染まる様子など気にもせず、ただ肩を震わせながら子犬を慈しむように抱き締める。その目には涙が湛えられていた。

 フロリアンはすぐに周囲を見回し彼女の身に危険がないかどうかを見る。今は彼女と共に感傷に浸るより、彼女の身を守らなければ。

 辺りを見回したフロリアンは、つい先程まで彼女の傍にいたはずのアザミの姿が見えない事に気付いた。

「アザミさんは…」

 フロリアンがそう言って一歩歩こうとすると、マリアがコートの袖口を無言で引っ張った。

 行くなという意味だろうか。その時、ふとブダの丘のたもとでアザミが自分に言った言葉を思い出す。


【マリーと一緒にいる間、彼女が自ら望まない限り傍にいてあげてください。私が彼女の傍を少し離れる事があっても、貴方はマリーの傍から離れないようにしてあげてください。】


 まさか、こういう状況を見越しての言葉だったのだろうか。冷静に考えて確かに今不用意にこの場を動くわけにはいかない。マリアを一人残す事は危険だ。

 間もなく警察と警備隊も訪れるだろう。それまでこの場を動く事は出来ない。

 フロリアンはマリアのすぐ傍に屈むと子犬と一緒に彼女をそっと抱き締めた。


                 * * *


 国境付近からパトカーのサイレンの音が近付いてくる。サイレンと共に警備ドローンが数機ほど公園内に到着した。

 周囲の状況が慌ただしくなり始めた。パトカーが到着するとすぐに警官が二人の元に駆け寄ってくる。

 フロリアンは駆け付けた警官に簡潔に事情を説明した。

 茂みの中で乗り捨てられていた車を発見した事、先程男が子犬を銃撃して逃走した事を話す。

 銃撃された子犬の様子を見て、警察はすぐに周囲へ捜索網を展開する。無線で付近の全道路の封鎖と検問の要請もしているようだ。

 乗り捨てられた車は犯人に再利用されるのを防ぐ為に間もなく押さえられた。

 慌ただしく動く周囲の音がまるで届かないかのように子犬を抱いたままマリアはそこに佇む。

 その温もりが消え去るまで、小さな命の最期を慈しむように。


                 * * *


 一方、公園から逃走した男は背の高い草の茂みと枯れ樹によって囲まれた、人目から隔絶された場所に逃げ込んでいた。

 遠くではパトカーのサイレンの音が鳴り響く。先程走ってきた男が呼んでいたのだろう。予想通りだ。

 おそらく既に付近の道路は完全に封鎖され、乗り捨てた車も押さえられてしまったに違いない。

 移動手段は徒歩のみ。しかし自分にはこの擬装がある。これを使用すれば誰の目にも、機械の目にも留まることなくどこへでも逃げることが出来る。


「ここまで来ればひとまず奴らも追いかけて来ないだろう。」

 息を切らした男が呟く。すると後ろから聞こえるはずの無い女の声が聞こえてきた。

「えぇ、そうですね。誰も貴方の事など追いかけて来ません。」

 慌てて男は後ろを振り返る。そこには先程公園で少女の横で黙り込んでいた長身の女が立っていた。

 後ろを付いてきていた?そんな気配は全く感じなかった。随分長い距離を走ったはずなのに目の前の女は息を切らしている様子も無い。

「お前さっきのガキの横にいた女だな。終始黙り込んだままで気味が悪いと思っていたが、お前は何者だ。」

 その女が発するただならぬ気配を感じ取った男は無意識にそう質問した。

「こんなところまできて、俺を捕まえて奴らに引き渡そうとでも言うのか?それとも、わざわざ殺されにここまで来たのか?」

 うすら笑いを浮かべた男は舌なめずりをしながら女を見据えて銃を構えた。

「丁度いい。さっきは犬の邪魔が入って白けたが、ここなら誰にも邪魔されずにお前を始末できる。あのガキの物言いにムカついてんだ。お前を殺すことで奴が絶望する顔が拝めるなら最高のショーになるだろうさ。せいぜい今のうちに神様とやらにお祈りでもするんだな。」


 男がそう言い放った時、僅かに周囲の空気が揺れた。

 先ほどまで吹いていた風が吹き止む。まだ太陽は沈んでいないはずだが、周囲は瞬間的に暗さを増した。

 明らかに異質だ。まるで時間という概念そのものが失われたかのような空間。とても現実的な景色ではない。

 女はその場に立ったままゆっくりと話し始めた。

「捕まえる?引き渡す?殺されに来た?丁度いい?さて、不思議な物言いをされますね。貴方はどうして自分が無傷で、しかも生きてここから逃げられると思ったのですか。」

 その時、男を支配したのはつい先ほどまで抱いていた殺人による快楽を満たす為の気分の高揚感では無かった。

 恐怖。人が本能として忘れかけていたもの。野生動物より退化して劣るはずの人間の危険察知本能を心底から蘇らせ、全身を震え上がらせるほどの圧倒的な恐怖。

 強烈な悪寒、吐き気と眩暈が襲ってくる。耳鳴りがするほどの静寂の中、自身の心臓の鼓動だけが頭へと響いてくる。

 立っているだけで窒息しそうな絶望感が男の周囲を取り囲んでいるようだった。

「ここには警察も来なければ、国境警備隊やドローンも管轄外で近付けない。その状況でお前一人で何が出来るってんだ?どう考えたって…」

 男はやっとの思いでそこまで言いかけたが、状況はその言葉を言い終わる事すら許さなかった。

 突如として腹部に激痛が走る。恐怖心に見舞われながら男が痛みの方へ視線を向けると、巨大な棘が自身の腹を突き破って突き出している。

 背後から現れた巨大な鋭い棘が男を刺し貫いたのだ。棘は赤く染まり、貫かれた腹部からは大量の血が溢れ出していた。


 周囲は不自然なほど暗い。まるで世界から色が失われてしまったような光景だ。

 自分の体から溢れる血液の色だけが鮮やかな赤色をしている。

「どう考えたって?何でしょう。」

 目の前の女が淡々と言葉を発する。表情一つ変えず、ただ目の前に立っている。

 男は女の背後で巨大な何かが蠢くのを見た。真っ黒な影の塊が獣のような姿に形を変えると、それは暗闇から浮かび上がるような薄暗い赤い色の目を開きこちらを見据えた。

 さらに言葉を発しようとした次の瞬間、男の両腕と両足を別の角度から棘が貫いた。

 それだけで終わりではない。さらに別の方向からも無数の棘は現れ男の体を次々と刺し貫いていく。

 何度も、何度も、何度も何度も。影のように真っ黒な鋭い棘は容赦なく男の体を串刺しにしていき、今や全身を貫いていた。

「いいえ、いいえ。何も喋らなくて構いません。先程あの子が言っていたでしょう?貴方の話は “つまらない” と。その痛みはあの子犬が受けた痛みに比べれば優しいでしょう。あの子が心に受けた痛みに比べればまだまだ足りないでしょう。」

 真っ黒な影の獣の前に立つ女は何一つ変わらぬ落ち着いた声で話を続ける。

「そういえば、先程『お前は何者だ』とおっしゃいましたか?そうですね。先刻、貴方がおっしゃったように、わたくしからも冥土の土産にお話しましょうか。わたくしは貴方がた人間が神と呼んでいたもの。貴方がた人間の手によって悪魔へと貶められたもの。貴方がた人間が化物と蔑むもの。わたくしの名が示すのは “報復” の理。貴方が他人に与えてきた痛みを全て返して差し上げましょう。誰にも認められず、誰にも必要とされず、誰にも愛されず、貴方はここで一人きりで死ぬ。誰にも同情されず、誰からもその最期を看取ってもらうことも無い。貴方にはとてもふさわしい結末です。」

 女が話している最中でも棘はどこからともなく無数に現れては男の体を串刺しにしていった。

 その状況に構う事無く女は話を続ける。

「ですが、せめてわたくしだけはその最期を看取って差し上げましょう。神であったものの慈悲として。」

 そして最後に男の顔面を無数の棘が一斉に貫く。間もなくして男は絶命した。


 無数の棘が男の体から突き出している。つい先程まで人間だったはずのそれは棘の上で真っ赤に染まり、まるでアザミの花のような姿を暗闇に浮かび上がらせていた。

「さぁ、御眠りなさい。永遠の暗闇へ、ようこそ。」

 その言葉を合図に、無数の棘は影が消え去るようにして跡形もなく消え去った。

 肉塊は空中から投げ捨てられ、血溜まりの出来た地面に落ちてしぶきを上げる。

「美食、とはとても言えない貧相な魂ですが、まぁ無いよりはましでしょう。それにしても “不味い” ですね。」

 女がそう呟くと地面に大きな影の穴が開き、肉塊は吸い込まれるように落ちて消えていった。

 男の存在を示すものはもはやその場に何も残されていない。


 女は背後で蠢いていた獣のような巨大な影と共に暗闇の中へと溶けるように消えていった。

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