第10節 -幕開け-
ブダペストから車で走り出してしばらくが経過した。現在三人が乗る車は目的地に向けて高速道路を南下中である。
車内には時折マリア達と会話する声以外に音はほとんどない。走行音が外から僅かに伝わってくるのと車内空調の音が微かに聞こえるのみである。世界一静かと言われる車内はとても静かだ。
高速走行中の車体はほとんど揺れることなく地面を滑るように走っていく。魔法の絨毯と形容されるのも納得の乗り心地である。
飲み物を勧められてオレンジジュースをグラスに注いでもらい、今は後部座席中央のホルダーに置かれているが、その液面もほとんど揺れる事は無い。
これ以上は無いと思えるほど限りない快適な乗車空間だが、フロリアンにとってはそれがかえって落ち着かなかった。
車内の天井にはスターライトが美しく輝く。インテリアはマリアとアザミどちらの好みなのだろうか。広々とした車内空間は車体色とは反対に上品な白色で纏められていた。
いくつかガラスアートが設置されており華やかさもあるが、決して華美過ぎず気品のある空間が演出されている。
いつまでも緊張している様子がマリアに伝わったのか、途中で後部座席に備え付けられているデバイスから映画やゲーム、音楽なども楽しめると勧められたが、落ち着かないので遠慮した。
マリアは落ち着かない様子の自分をすぐ横から時折眺めては楽しんでいる節がある。
「あと三十分弱といったところかな?」
「はい。丁度日が落ちる頃に到着します。」
マリアの言葉にアザミが反応する。
この季節、欧州の日暮れはとても早い。ハンガリーでは母国ドイツの同じ時期よりも少し早く、午後四時頃には完全な日没となる。
窓の外では既に太陽が西へと沈みかけていた。
* * *
午後3時半。ハンガリー国際会議場ではレオナルドとフランクリンが各国首脳や外相らと挨拶を交わし終え、スケジュールの確認を行っていた。
三十分後には議長による特別総会の開会宣言が行われ、すぐに議題採択が行われる予定となっている。
議題は【難民問題解決に向けた取組みに関する緊急協議】である。
各国は議題採択時に当該議題について議論する事に対し反対を表明する権利を有するが、今回反対を表明する国はないだろう。
その後は一般討論に移り、採択された議題に対して各国代表が自国の立場表明や現在の取り組み、解決に向けた手段の提起等を対外的に発信する為の演説が行われる。
世界特殊事象研究機構は国家ではない独立国際機関であるが、国際連盟より招待され参加した今回は特例として発言が認められており、一般討論演説に登壇する対象として発言国リストである【スピーカーズリスト】に登録されている。
レオナルドはその場で機構としての考え方や立場などについて演説を行う。予定通りに進行すれば午後六時頃に演説の順番が回ってくるはずだ。
「先刻、挨拶時に各国の事情も聞いてまわったが、やはり難しいな。」レオナルドがフランクリンにだけ聞こえる程度の声で呟く。
「受け入れを行った後の事を考えれば、慎重にならざるを得ないのが実情でしょう。現に、遠い昔から受入れを積極的に行っている国の現状を見れば及び腰の意見が多くなるのも頷ける話です。」
「財政的な側面もあるが、法的な側面からも課題が多いと言っていた。」
「加えて偽装難民の問題もあります。」
「そうだな。かつては寛容に受け入れていた国も、それが原因で現在は受け入れに対して消極的になっているか、又は審査自体がとても厳しいものとなっている。」
この総会においては最終的に各国の主張は平行線に終わり、世界が協力をして問題解決に向けた努力を継続することで一致という結論に達するだろうというのが大方の見方だ。
だが、その中で今回機構がどういう発言を行うかという点に対しては世界中から注目が浴びせられている。言い換えればその為に設けられた特別総会と言っても過言では無い程に。
国家でもなく、難民問題を直接扱う専門機関でもないという立場上、過去においては資金や物資提供、支援活動などの援助以外の面について言及される事は無かった。しかし時が流れ、情勢が移り変わった今となっては話が異なる。
国際的に活動する巨大な独立機関であり、場合によっては一国家以上の運営規模を誇る機構も当該問題について直接的な責務を負うべきだとの声が世界各国から日に日に高まっているのが現状だ。
機構は自律型の経済で成り立つ組織ではない。世界各国からの援助を受けて成り立つ国際機関である。国際連盟に所属する専門機関でもない為、直接協定を結ぶ各国との協調性がとりわけ重要だ。
難民問題に対する責務を負う事を求める声が高まる中、この総会において協定を結ぶ各国との関係性に水を差すような施策を講じる発言をしてしまえば、機構そのものの運営に関わる重大事になりかねない。
世界との関係性と機構としての在り方。複雑に絡み合う事情を考慮しながら最善の施策を発表する必要がある。
故に、現在レオナルドの双肩には機構の未来がかかっているといっても過言ではない。
時刻は間もなく午後4時を迎える。機構の将来を占う大舞台の幕が上がろうとしていた。
* * *
午後4時前。アシュトホロム村の記念公園の木陰で男は日が暮れるのを待っていた。
夜だ。夜に移動を始めよう。暗闇に紛れる事さえ出来たらいかに高性能なAI監視カメラや赤外線カメラで警備を固めても自分の姿は捉える事が出来なくなる。警備ドローンの行動パターンや監視ルートも把握しているからまず見つかる事は有り得ない。
次の目的地はまだ決めていない。昨日の興奮を越える快楽を味わう為に向かうとすればどこが良いだろう。西に進みケルビアを越えてトンパに向かうか、東に進みモラハロムに向かうか…
男が頭の中で次の目的地について思考していると眩しい光が遠くから近付いてくるのがはっきりと見えた。車のヘッドライトのようだ。やってきた一台の車が付近に停車する。
その車を見て男は目を細めた。この場所を訪れるにしては随分と場違いな車だ。物の価値について無頓着な男でも、それが恐ろしく値が張る車だという事くらいは分かる。
どこかの組織の連中が自分の事を嗅ぎ付けてこの地に来たのだろうか。それにしては目立ちすぎる。男は思いつく限りの可能性を頭の中で一斉に思考し始めた。
どんないけ好かない連中が中に乗っているのかと陰から様子を窺っていると、中から二人の女と一人の男が降りてきた。
一人は金色の髪に黒いドレスを着た十代くらいの女。もう一人は長身で全身黒い服を着た女。素顔は帽子に隠れて見えない。そしてもう一人は二十代くらいの男。他の二人の女に比べると男の方は随分と身なりが貧相に見える。
男はじっと三人の動きを見つめる。向こうがこちらに気付く様子はまるでない。
偽善者かぶれの金持ちの道楽の一環だろうか。これは良い鴨になるかもしれない。まとめて仕留める事が出来ればこんな生活ともすぐにおさらばできるほどの大金に変えられるはずだ。
特にあの女二人は遠目から見ても一目で分かる程の美貌の持ち主だ。傷付けずに捕まえて物好きな奴に売り飛ばせば一生遊んで暮らせるだけの金に換えられるだろう。
背丈の小さい方はやや幼さが残る気がするが、その手の女が趣味の輩なら札束をいくら積み上げてでも欲しがるに違いない。
車は足が付かないようなルートで売り払い、身なりの貧相な男は自分の快楽殺人の餌食になってもらおう。
男は単純にそう考えると狩りの機会を窺う肉食獣のように木陰に潜んだまま、たった今公園にやってきたばかりの三人の動きを注意深く観察する事にした。
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