第11節 -善と悪-

 時計の針は午後4時を回ろうとしている。西の空へ夕日が沈みゆく中、マリア達一行はハンガリー南部にあるアシュトホロム村の記念公園に辿り着いた。ここから数百メートル先はセルビアとの境界となり、国境検問所が設置されている。

「長時間お疲れ様でした。到着しましたよ。」アザミは後部座席に乗る二人へ声を掛ける。

「ありがとう。君もお疲れ様、アザミ。」アザミの言葉にマリアが返事をした。

 アザミが車をゆっくりと公園脇に停車させると三人はすぐに車外へと降り立った。

 光は地平に吸い込まれ、代わりに暗闇が訪れようとしている。間もなく夜だ。日の光が届かなくなるにつれ、外気は一段と冷たさを増してくる。

「フロリアン、ドライブはどうだったかな?」マリアがフロリアンに話し掛けた。

「とても快適なドライブだったよ。こういった車に乗り慣れて無いから、凄く緊張してしまったけどね。アザミさんもありがとうございます。」マリアに返事をした後、フロリアンは改めてアザミに礼を言う。

 フロリアンの礼を聞いてアザミは無言で軽く会釈をした。

「あはは、素直でよろしい。しかし、いくら快適とは言ってもずっと座ったままだとやはり疲れるね。少し歩こうか。」マリアの提案により三人で公園内を散歩する事にした。


 華やかなブダペストの風景と違い、付近に大きな建物は無く見渡す限りの田園風景が広がる。

 とてものどかな村だ。道路を通る車は無く、村の人々の姿も見えない。

 時折吹く風は背の高い建物に遮られる事も無く、文字通り広大な大地を吹き抜けていく。

 フロリアンにはマリアがこの地に来た理由がまだ分からなかった。どうしても自身の目で実際の景色を見ておきたいと彼女は言ったが、取り立てて見るべきものはないように思える。

 目立つものといえば唯一、木をイメージしたような石柱の頂点に鳥の石像が設置されたものが遠くに見えるくらいだ。

 あれはおそらくハンガリーの建国神話に登場する伝説の怪鳥トゥルルの石像であろう。ハンガリー大公であるアールパードの剣先に止まり彼を導いたと言われる怪鳥である。

 その石柱以外は平原が広がるばかりで、それ以外と言えば公園の隅に僅かに茂る木々が見える程度であった。


 マリアは公園内を国境方面に向かって歩き、アザミとフロリアンもそれに続く。3人が土を踏みしめる音だけが周囲に響く。

 そして公園を取り囲む柵に行き当たったところでマリアは足を止めた。先刻まで見せていたような無邪気さは影を潜め、真剣な眼差しで国境方面を見据えている。

 フロリアンが立ち止まったマリアに先程から感じている疑問について尋ねようとしたとき、マリアの方から話をし始めた。


「この先、数百メートル向こう側にはこの国とセルビアとの国境がある。今から十五年余り前、数十万人を超える難民達がこの地に押し寄せた。EU各国への移住を目指し、シリアやアフリカから百万人規模の難民が地中海や欧州南東部へ流入してきた難民危機と呼ばれる事件が発端だ。その出来事をきっかけとして両国の間には国境を遮る為の強固な鉄フェンスが設置される事になった。」

 フロリアンは自身が直前まで言おうとしていた言葉を胸にしまい込みマリアの話に耳を傾けた。

「以後、二重の鉄フェンスは両国を遮ったままそこに聳え立っている。そしてフェンスの向こう側では国境を越える事を目指す人々が今でも集まり難民キャンプを築いている。」


 日は完全に沈み、冷気が周囲を支配するように包み込む。吐く息の白さは、外気の冷たさがどの程度のものなのかを物語る。

 公園に設置された照明によって自分達の周囲は比較的明るく見えるが、既に遠くの景色を見通す事は出来なくなっていた。

 暗闇と冷たさが満ちるこの場所で、マリアはその視線を国境に向けたまま話を続ける。

「そこに集まっている人々は、皆それぞれが事情を抱えて祖国を離れた者達だ。フロリアン、君は難民とはどういう人々を指すのか知っているかな?」

「戦争や迫害によって自分の国に住めなくなった人々の事だと聞いているよ。」マリアの質問にフロリアンは答えた。

「そう。戦争によって住む場所や生活を奪われた者。人種の違いにより迫害を受けた者。そして自国から保護を受ける事が出来ず、また本人の意思によってそれを望まない人々の事を指している。中には難民ではなく、自らの意思によって経済的自由を求めた移民達ももちろん混ざっているけれど…そのキャンプはそういった人々が集まって作られた場所だよ。この寒空の下で今も彼らは、自らが求めた大いなる自由と安住の地をいつか手にする事を夢見て暮らしている。」

 そこまで話すとマリアはフロリアンの方へ向き直り一言質問をしてきた。

「フロリアン。君は彼らの事をどう思う?」


 フロリアンは唐突なマリアの質問にすぐに答える事が出来なかった。

 難民問題についてはドイツでも度々ニュースで流れていたが、彼らの事を自分がどう思うかという事については思考したことが無かったからだ。

 十五年程前に世界を震撼させた難民危機が連日メディアで報道されていた当時は、まだちょうど物心がついたくらいの年頃で、正直なところ鮮明な記憶として残っているとは言い難い。

 その後も身近で起きているけれど自身には関係のない話。近いけれど遠い場所の出来事だと頭で考えていた。

 フロリアンは少し考えてから頭に浮かんだ事を答えとして返した。

「彼らも僕達と同じ今を生きる人々だ。望むような幸せを手にして欲しいと思う。」

「では、仮に君が彼らを受け入れる国家の立場に立つ人間だったとしよう。彼らの望みを叶える為に、国は無条件に彼らを受け入れるべきだと思うかい?」

「難しい質問だ。国によって受け入れられる限度があるだろうし、全てを引き受ける事は出来ないと思う。もし既に受け入れ許容の限界を超えていたら、僅かな人数でも難しいだろうね。」

 マリアが続けて問い掛けた質問にフロリアンは正直に思った事を答えた。するとマリアはさらに仮定の話として質問をした。

「仮に国家として受け入れが難しいと彼らに伝えたとしよう。その事に対して彼らが人道的観点からそれは誤った考えだと君を非難したとしたら、その時君は彼らの事をどう思う?」

「それは…」

 そこで言葉を途切れさせるほか無かった。答える事が出来ない。

 最後の言葉だけを切り取れば最初の質問と全く同一の内容だ。しかし、別の立場から考えた今は最初に伝えた答えは返せなくなっていた。

 問いに答えられずにいるとマリアは質問の内容を変えた。

「せっかくだ。もっと踏み込んだ質問をしよう。フロリアン。君は難民問題を解決する為にはどうすれば良いと思う?」


 それ自体は単純な問いではあるが、とても難しい質問だ。未だ世界が答えを導く事が出来ていない課題。

 思い当たる事はいくつもある。しかしそのどれもが満足できる回答ではないと感じられた。

 フロリアンが深く考え込んでいるとふいにマリアが穏やかな表情で言う。

「正解を言おうとしなくても大丈夫だよ。世界の国々が集まり議論を深め続けても結論は出ていない問題なんだ。正解など無いに等しいだろう。今は君が思った事を答えてくれれば嬉しく思う。ここに来る前、私は君に一緒に来て欲しいと言ったね。それは君とディスカッションが出来る事を期待しての事なんだ。他者とこうした話について議論を交わす事は滅多にあるものではないからね。」

「ありがとう。正直、さっきのマリーの話を前提に考えると難しいね。どちらの立場に立つかによって答えは変わってくる。そういった立場の話を抜きにしてあえて語るのなら、祖国か第三国、そのどちらかに難民である彼らが定住できるようになるのが望ましいと思う。祖国に戻って保護を受けるか、第三国の保護を受けるか、移住先に定住するか。」

「それは素晴らしい答えだ。君が意図したかどうかはわからないけれど、実はその答えというのはある国際機関が問題解決の為に定義している3つの解決策そのものなんだよ。」

 フロリアンはその事を知らなかった為、意図して答えた訳では無かったが結果としては悪くない回答だったようだ。

「けれど、先程君自身が答えに含んだように、立場の話を前提として考えるならば到底達成できるような解決策では無い事が分かる。あくまで理想論でしか無い。」そのままマリアは話を続ける。

「矢継ぎ早に質問ばかりですまないが、今度はまた違った質問をさせてもらう。フロリアン。君は友人や家族問わず、誰かとの間に何らかの問題が起きた時にどういう解決の仕方をするかな?」

「話し合いをすると思う。お互いの考えている事を話して、必要なら根拠を示して納得するまで意見を交わすよ。」フロリアンは自身が思う最善の解決策だと信じる意見を述べた。

「そうだね。世界中の多くの人々がまずは同じ方法を取るに違いない。しかし、世の中には話し合いだけでは解決しない問題というものも多い。そういう時はどうするだろう?」

「相手が納得できる根拠を示す、かな。自分の考えを明確にする為にも有効だと思うし、議論すべき事もより明確になると思う。それを踏まえて再度話し合うようにするよ。」

「根拠、証拠、物証。揺るがぬ事実。確かにそれらがあれば加速度的に議論は深まっていくだろうね。素晴らしい回答だ。事実に基づく根拠の提示を含めた話し合い。これら二つの方法を用いた議論というのは日夜問わず世界中で活用されている手法だ。個人に限った事では無く、会社でのプレゼンテーション、司法の場における裁判、その他社会に存在する大きな組織も含めてこの方法を活用している。例えば、国家政府や国際連盟のような巨大な組織まで含めて。まさに今日、この瞬間にこの国で行われている国際連盟の特別総会においても難民問題に対する問題解決の手段としてその手法に基づいた協議が行われている。私はその “話し合い” と “根拠の提示” の二つを用いた問題解決方法は人類が長い歴史を通して編み出した最高の叡智であると思っている。けれども…」


 そこまで言うとマリアはフロリアンから視線を外し、国境の方を向きながら言葉を紡いだ。

「その人類最高の叡智を用いた議論というものを行う事で、果たして難民問題は解決の兆しを見せているだろうか。」

 彼女の言おうとしている事は分かる。この問いに対する答えは間違いなくNOである。

 先程の思考中にも頭をよぎった考えではあるが、難民問題というのは未だ世界が解決に導く事が出来ていない問題の最たるもののひとつである。

 どれだけ長い時間の議論を重ねたところで解決に向かう兆しすら見せる事が無い。

「言わなくても君は答えを理解しているね。そう、答えは誰が見てもNOだ。残念ながら。」

 マリアはそう言うと溜め息に近い大きな息を吐いた。


 しばらくの沈黙の後、マリアが再び口を開く。

「これは余談なんだけど。人は何か問題が生じた時、それが良いものか悪いものかの二極だけで判断しようとしたがるものだと思う。そうでもしないと自らの行動や考えというものに自信が持てないからね。自分は正しい、何も間違っていない。間違っているのは相手だ。誰もがそう思うものだよ。例えば今も昔も勧善懲悪ものの映画や物語が人々に受け入れられるのは、こうした善悪二元論が人々の意識の中に根強く浸透しているからだとも言える。立場の違いというものによって自分が善で相手が悪だと無意識化で考える傾向が強い。それは人間の持つ本能に等しいのかもしれない。」

 視線は国境方面を捉えたまま、マリアは話を続けた。

「先程君が答えてくれた “話し合い” という解決方法は道徳的解決の仕方とも言える。ある立場における人々の善なる意思に基づく言葉の積み重ねによって、立場の異なる相手との間に生じている問題を解決しようとする考え方だ。この方法が成立する為には同じ立場に立つ人間が善だと認め、さらに違う立場にある人間も同じく善だと認めるある特定の共通した価値観や基準がなければならない。では、そこで共有されるべき互いにとっての善なるものの基準とは何か。人として守るべき秩序、善悪正邪を切り分ける為の普遍的な基準。これらは倫理観という言葉で表す事が出来る。例えば争いは良くないとか、盗みは良くないとか、困っている人は助けるべきだとかいう類のものだと認識して欲しい。そうした倫理観というものは古来から聖書や聖典といったものに認められてきた。」

 そこまで言うと、マリアはフロリアンへと視線を移して言った。

「君も聞いたことがあるだろう?右の頬をぶたれたなら左の頬も差し出しなさいという内容であったり、隣人を愛しなさいという教えであったり、或いは多くの麦を実らせる為に自分という一粒の麦は地に落ちて死ななければならないという、自己犠牲の精神が多くを救うという内容であったり。まぁ様々ではあるけれど、多くの人が “正しい” と認める統一的な価値基準というのはそうしたものに認められる事によって語り継がれてきた。故に私は対話という行為そのものにはある種の宗教的なアプローチが含まれていると思っている。」

「信じる者になりなさい、自分の敵も愛しなさい辺りもよく聞く教えだね。」

 フロリアンはマリアが話した内容の意味が何となくではあるが理解できた。

 無宗教である自身に馴染みがあるわけではないが、それらの言葉は学生時代によく聞かされた言葉だ。

 確かに人の生きる道を説く話をする際には、そうしたものが世界中で頻繁に用いられているだろう。

 フロリアンの言葉を聞いたマリアは微笑んでみせた。

「その通り。全てがそうというわけではないけれど、倫理観という概念の根底を辿るとおおよそそれらに行き当たる。」


 続けてマリアは先程フロリアンが答えた問題解決に用いる方法についての話をした。

「もう一つ、君が答えてくれた “根拠の提示” によって答えを導くという方法は合理的解決の仕方だ。明証を積み重ねた末に導かれた事実という答えを元にして、一番手早く問題解決に導く為の判断と行動を選択する事により問題解決しようとする考え方。現実に起きている事象に対してあらゆる角度から明証を重ねた上で、厳然たる事実だと認められる証拠を示していき、それらを羅列していく事で一つの答えを導き出す。いわば、合理的解決方法は科学的アプローチともいえる。特定の結論に向けて一番効率よく成功するであろう過程を感情論をさしはさむことなく選び取る手法。これは善か悪かではなく、事実か否かが基準になる。」

「手から離したものが地面に落ちるのは地球に重力があるからとか、雷は電気であるとかそういう事で良いのかな?」

「その認識で間違いない。ニュートンやフランクリンの他にガリレオ・ガリレイも挙げられるだろう。十七世紀の科学革命を語る上では外す事が出来ない人物だ。ただ、ガリレオは宗教と科学の対立という構図のシンボル的印象もついて回るけれど。彼自身はキリスト教の教えを誰よりも深く理解していたというのにね。」

 マリアはほんの少しだけ寂しそうな表情を見せながらそう言うと、今話した事について自身が考えている事を述べ始めた。

「さて、余談が長くなってしまったが、この二つを併せて用いる事で世界中にあるおおよその問題というのは解決を図る事が出来るだろう。これらはまさに人類が過去から今に至るまで積み上げてきた叡智の結晶だ。だが、先にも言ったが万能ではない。致命的な欠陥がある。それは立場の違いによって善悪の価値基準が異なる事だ。」


 そう言うマリアの表情に先程までの穏やかさは無い。出会ってから今に至るまで見せた事のない真剣な表情と眼差しをしている。彼女はそのまま話を続ける。

「話し合いにおいて重要なのは人々が持つ共通の倫理観だと私は話した。立場の違いを越えて誰もが認める善なる価値基準。それを基にしてお互いが納得できる結論が導き出せるのなら良い。しかし現実はそう単純ではない。ある考え方に対する善悪正邪は、その判断を下す人の立場によって簡単に変わってしまうものだからだ。話し合う以前に共通の倫理観や価値観の共有が出来るとは限らない。難民問題を例に取り上げれば、彼らを受け入れて保護する事は人道的観点から考えれば間違いなく善なる行為だ。国際社会においても世界人権宣言や難民条約によって世界中の国々がその責任を分担して受け持つべきだと明確に規定されているからね。だが、受け入れを行う国も自国経済や運営、自国民の生活保障などの事がある。当然、受け入れを求める難民全ての受け入れを行う事は出来ない。受け入れた後に満足いく施しが出来るだけの余力がない場合は申し出を拒否せざるを得ないだろう。その時点でその国にとっての善の在り方とは自国の存続や安定という方向に向けて舵が切られる事となる。それも自国を守る為という理由における善の在り方の一つだと言える。」


 この事は一番最初に質問された事に繋がる話だ。受け入れを求める人々と受け入れを拒まざるを得ない国の立場の違いによって生じる確執。

「ある行いが善なるものか悪なるものかについては見る人の立ち位置によって簡単に変わるが故に、そこには絶対的に明確な基準というものが存在しない。それらの善悪の定義は意見を述べる人の気分次第でも変わり得る砂上の楼閣とも言えるだろう。自国に関係ない状況の時には受け入れを行わない国は悪だと断じていた国が、いざ自分達が受け入れを行わなければならない立場に立った時には、最初から拒否していた国よりも厳しい拒絶の仕方をした例だってある。」

 フロリアンは静かに彼女の話を聞いた。彼女が最初に自分に問いかけた質問の意図が明らかになるにつれ、自分自身が今までこれらの問題に対していかに無関心であったかという事実まで突きつけられるようだった。

「絶対に相容れる事がないと分かり切っている場合において、話し合いというものは意味を為さない。自分の言う意見こそが善なる正義だと信じ、その考えのみに溺れて善神勝利一元論のような暴虐を押し付けるだけのものになってしまう。ここまで来ると、もはや話し合いとは言えない。罵り合いという方が相応しいだろう。」


 次にマリアは話し合いによる解決が難しいのであれば合理的手段による解決を導く事が出来るか否かという点について話す。

「話し合いで解決できないならば合理的手段による解決は出来ないのかといえばこれも難しい。困った事に、合理的根拠となる事実を列挙すればするほど浮かび上がるのは互いの立場の正当性というものだからだ。食糧、衛生、医療、教育、就労といったものを享受する事が出来ない人々と、それらを与える事が出来ない国家という事実が浮き彫りになればなるほど、お互いの主張する善性というものを強化する結果にしかならない。その後に待つのは決まって感情論のぶつけ合いになる。そしてそれらが飛躍していった結果として訪れるのが存在そのものを失くしてしまえば問題は解決するという合理的解決手段。つまり戦争や虐殺といった行為だ。近い話として第二次世界大戦の時に用いられた核爆弾攻撃も、行き過ぎた科学と合理主義がもたらした間違った解決方法の最たる一例になるだろう。それは今の時代だからこそ言える見解ではあるけれどね。」


 長い沈黙が訪れる。フロリアンは何も言えずにいた。

 今まで、問題の本質というものに無関心であった自分は世界が共に話し合う事でいつか解決するだろうという淡い認識を抱いていたが間違いであった。

 おそらく、世界は今後も有効な解決策を見出す事は出来ない。マリアは、今この地で行われている特別総会においても何ら有効な解決策を示す事が出来ない事を暗にほのめかしている。


 フロリアンが話の内容を頭の中で考えていると、マリアが再び質問を投げかけて来た。

「最後にもう一度君に質問をしよう。今度は単純な二択だ。先程の会話も含めて考えてみてほしい。フロリアン、君は彼らという存在がこの世界にとって善なるものだと思う?それとも悪なるものだと思う?」

 答えられない。答えられるはずがない。その質問の仕方はあまりに残酷だ。

 フロリアンはただ俯くしかなかった。その答えは立場によって変わってしまう。

 いや、彼らという存在が悪である事は決して有り得ない。しかし、 “この世界にとって” 善であるとも言えない。


 フロリアンが答えに窮し黙っていると、マリアは小さな声で呟いた。

「難民の問題というのは数学のように公式を当てはめれば解決するという問題ではない。話し合いと事実の提示だけで解決する問題では無いんだ。」


 彼女のいう言葉はとても重たかった。

 世界が抱えている問題というものについて、今まで自分が見ようとすらしてこなかった現実というものを突き付けられたようだった。

 自分の知らない世界を見たいと言いながらも、知りたくないものを知ろうとしていなかった。

 問題を認識していながら、自分には関係の無い事だからと心の中で無意識に見て見ぬふりをしようとしていた事を思い知らされたような気がした。


 一通り話し終えた彼女の横顔はどこか寂しそうでもあり、わずかではあるが怒りを湛えているようでもあった。

 ずっと彼女の笑顔だけを見てきたフロリアンにとって今の彼女の表情と言葉は胸に重たくのしかかった。


 しばらくの間を空けてマリアは再びフロリアンの方へ向き問い掛けをした。

「もう一度聞こう。フロリアン。君は彼らの事をどう思う?彼らは善か、悪か。合理か、非合理か。今の世界にとってどういう存在だと思う?彼らは誰からも愛される事なく、誰にも必要とされないような存在なのだろうか。」

 その言葉を聞いたとき、フロリアンはマリアの求める答えの在り方を察した。しかし、自分の考えによる意見を述べるのであればそれを答えとして言う事は出来なかった。

 彼女に対して嘘を吐く事になるからだ。

「分からない。でも、人が人として生きる為の営みそのものに優劣も善悪も付ける事は出来ないと思う。彼らはただ生きる為にそこに集まった。より良い明日があるかもしれないと思ってここに来た。それを僕の価値観や物差しだけで善悪正邪の判断や、どういう存在かの判断をするなんて傲慢な事はやっぱり出来ないよ。」

 フロリアンは彼女の目を見て言った。マリアも目を逸らす事無くフロリアンの言葉を聞く。

 難民問題は受け入れを行う国と、受け入れを求める当人達の間で善悪の基準がまるで逆になる。

 そのどちらが正しくてどちらが間違っているかの判断は自分には出来ない。

 彼らに手を差し伸べる行為は道徳的に考えれば善なる行いであるが、受け入れる側の経済的負担などの観点から見ればおおよそ選択すべきではない非合理な行いであると言えよう。

 全てが良い方向に向くようにした上で解決する事はこれ以上なく難しい。


「僕は何も知らない。彼らの事情も、彼らの考えも。だからどちらかであると言い切る事は出来ない。ただ出来るのは、彼らにとっての明日が今日よりも少しでも良い未来になる事を願うだけだ。」

「では、彼らのより良い未来の為に世界各国それぞれの国々は彼らを受け入れて助けるべきだと思うかい?」フロリアンの答えに対してマリアがさらに質問を続ける。

「それも僕には分からない。なぜなら、僕には世界中の国々それぞれが抱える事情もまた分からないのだから。」

「そうだね。結局のところ君はどちらの立場にも立つことが出来ない。では、分からないからという理由で傍観者に徹すると?いつか誰かが解決してくれるだろうと見て見ぬふりをするのかい?」

 フロリアンは何も言い返すことが出来なかった。この問題には現状答えというものが存在しない。いわゆる悪魔の証明に等しい。


 少しの間を置いてマリアが深呼吸をする。そして先ほどの真剣な表情から穏やかな表情に戻りフロリアンへ言葉を掛ける。

「すまない、君にとても意地悪な事を言ってしまったね。気を悪くさせてしまったなら申し訳なく思う。今日知り合ったばかりの君に突き付けるような話ではなかった。君と話しているとどうしても期待してしまってね。私では気付く事が出来ない答えを返してくれるのではないかと。又は、私の考えている事を理解してくれるのではないかと、ね。」

「大丈夫。ありがとう、マリー。僕はどうやら知らない事が多いだけではなく、知ろうとしない事も多かったみたいだ。たった今、君に気付かされたよ。君が求める答えを伝える事が出来たとは思えないけど…」

「フロリアン、君は先入観に囚われずに物事の本質を見極めようとすることが出来る人だね。他者の言葉を聞き、それを受け入れた上で自らの考えを成す。その考え方は大事にしてほしい。私達は最初から間違えようとして行動を起こすことはない。でも、結果的に誤った選択をしてしまう事は多々ある。そういった場合は行動を起こす前の考え方そのものが既に間違っていた可能性が高い。自分だけの正義という先入観に囚われて、正しい判断が出来なくなった時に過ちというものが起きる。善か悪かの立場に拘っていては見えない事も多い。」

 マリアの言葉はとても優しく、慈愛を感じられるような温もりがあった。

 それと同時に彼女の話を聞き終わったフロリアンは、常々思ってきた疑問が再度自分の中に湧き上がるのを感じていた。


 この少女は一体何者だろう。


 大学の社会科学部での研究の為にこの地を訪れたと言っていたが、今の話を聞く限りでは個人の研究という領域を逸脱しているような印象がある。

 まるで、この問題について自分が解決しなければならない立場にあるような物言いであった。

 もしかすると見た目という先入観に囚われて、この少女の本質というものが見えていないのではないか。そう思わずにはいられない。

 彼女の目に映る世界というものはどういうものなのだろうか。


 その時、二人の会話を隣でただずっと静かに聞いていたアザミが何かに気が付いたそぶりを見せた。その仕草に気付いたマリアがすぐに反応を示した。

「どうしたんだい?アザミ。」

「いえ、今何か動いたような気がしまして。」アザミの視線の方へマリアとフロリアンも目を向ける。

 少し離れた暗闇の向こう側から何かが近付いてくる。


 小さな生き物の姿のようだ。

 そして、三人が警戒しながら見つめる視線の先に姿を現したののは白い毛並みの小さな子犬の姿であった。とても人懐こい表情で尻尾を振りながら三人に近付いてくる。

「野良犬?いや、違うな。飼い主とはぐれた迷子か。こんなところで?」

 一瞬、野生の犬と思われたその子犬の首には特徴的なオレンジ色の首輪がしっかりと嵌められていた。

 それを確認したマリアは地面にかがむと近付いてきた子犬にそっと手を差し伸べて首周りを撫で始めた。子犬は気持ちよさそうな顔をしている。

「やはり人慣れしているね。間違いなく誰かの飼い犬だろうけれど…」

 フロリアンも地面にかがみ後ろ脚の付け根付近を優しく撫でた。

「犬が好きなのかい?」その様子を見たマリアが微笑みながら言った。

「犬もだけど、動物はみんな好きだよ。」マリアの問いにフロリアンが答える。

 二人が並んで子犬を撫でていると少し離れた位置からシャッターを切る音が聞こえた。アザミだ。

「こんな暗がりで撮れるのかい?」

「最新のテクノロジーを搭載した私のカメラはどんな環境でも最高の瞬間を逃しません。」

「そうかい?どこからどう見ても旧式のデジタルカメラにしか見えないけれど。その売り文句は何かの宣伝を思い出すようだ。あまり突っ込むと話が長くなりそうな予感がするからやめておこう。」そう言うとマリアはアザミを見て見ぬふりをした。

 撫でられている子犬はとても穏やかな表情をしている。完全に二人に気を許しているようだ。

「しかし困ったな。飼い主を探してあげたいけれど、この暗がりでは難しそうだ。」

 マリアが周りを見渡してみるが飼い主らしき人影は見えない。

 その時、子犬は突然何かに気付いたように唐突に後ろを振り返ると別の方向に向かって勢いよく駆け出して行ってしまった。

 あまりに突然の反応だったので驚いたマリアは後ろののけぞった。

「危ない!」

 フロリアンはとっさにマリアの背中に手を回して倒れないように受け止めた。

「あ、ありがとう。」マリアが礼をすぐに言い立ち上がる。

「今度は転ぶ前に助けられたよ。」フロリアンは笑いながら返事をした。

 少し離れた位置ではアザミが手を口に当てて驚いた様子を浮かべている。

「…さて、かなり冷え込んできたことだし今日は戻ろうか。明日は午後からリュスケに行ってみよう。」

 照れ隠しをするようにそう言うとマリアは車の方へ歩き始めた。アザミとフロリアンも続く。

 三人が車へ歩いて向かう途中、マリアは唇を噛み締めて悔しそうにしているアザミの様子に気が付いた。

「ところで、アザミはなぜそんなに悔しそうにしているんだい?」

「またも最高の瞬間を逃してしまいました。」マリアの問い掛けに残念そうな様子で答える。

「君の言う最新のテクノロジーは大したこと無かったようだね。」笑いながらマリアが言う。

「フロリアン、もう一度マリーと先程と同じ姿勢をして頂けませんか?」

「そういうのは偶然に起きるからこそ価値があるのではないかい?次があれば逃さない事だね。二度ある事はなんとやらと言うだろう?」粘るアザミを冗談で嘲笑うようにマリアが返事をした。

 マリアとアザミのやり取りを聞きながらフロリアンも笑う。

 三人はそのまま談笑しながら車へと向かった。


                  *


 同じ公園内。近くの木陰では男が身を潜めていた。

 くだらないものを見たと男は思った。目の前で戯れを見せつけられたとあって気分は穏やかではない。自分には与えられなかったものを持つ者が心底憎い。

 自分よがりの偉そうな講釈を垂れていた事も気に障った。

 長身の女がこちらの気配を感じ取ったような動作を見せた時はさすがに驚いたが何のことは無かった。

 偶然現れたあの犬には感謝する必要がありそうだ。


「次はリュスケか。」

 男はただ一言呟く。先程の女が言い残していった次の目的地だ。

 ここから東に向かい、モラハロムより更に先に進むとリュスケという町に辿り着く。

 アシュトホロムと同じく国境検問所が設置されている場所で、付近には移民・難民拘留センターが存在している。

 現在地からは車で移動すれば三十分もかからない距離である。


 金持ちで世間知らずのお嬢様とひ弱そうな男。狙うには絶好の相手かもしれない。

 どうせ次の獲物も決まってはいない。実際に来るかどうかはさておき、ギャンブルのつもりで待ち伏せしてみるのも悪くないだろう。

 ここからの移動手段もその辺りの車を奪えば済む事だ。難しい事では無い。

 そう考えた男は三人がその場を立ち去るのを待ってリュスケへと移動する事にした。

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