第9節 -嘘と本音の狭間に-
デザートを食べ終え、しばらく食後のコーヒーを楽しみながら談笑した後、三人はそろそろ店を出る事にした。
スタッフを呼びフロリアンが会計を済ませ店を後にする。
「ごちそうさま、フロリアン。とても美味しかった。」
「ごちそうさまです。」マリアとアザミが礼を伝える。
「楽しんでもらえて良かったよ。」フロリアンが二人に心からの本音を伝えた。マリアはその言葉に可愛らしい笑顔を返した。
そして、マリアは一呼吸置いた後、フロリアンにこれからの事について話し始めた。
「さて、フロリアン。今朝は今日一日私達に付き合って欲しいと言ったけれど、今から向かう場所については一緒に来るかどうかよく考えて決めて欲しい。」
表情こそ穏やかではあるが、その言葉にはどことなく力が入っているように感じられた。
「私とアザミはこれからアシュトホロム村というところに向かう。ここからずっと南にあるセルビアとの国境付近にある小さな村だよ。車で高速道路を二時間ほど走らせた場所にある。」
「実は大学の課外活動で世界の難民問題について研究していて、今はレポートを書いているんです。今朝、ここに訪れた理由はクリスマスバカンスだと申し上げましたが、半分はその研究の為でもあります。」
マリアの言葉を補足するようにアザミが言った。
「社会科学部の自由研究でね。私はテーマを難民問題に絞って研究しているんだよ。ハンガリーとセルビアの国境は昔からオーストリアやドイツへ向かう難民達の通り道になっていて、アシュトホロムやリュスケといった国境検問所が敷かれる村や町は過去に大勢の難民達が大挙して押し寄せて大きなニュースになった事もある。その出来事を文献やネットで調べるのもいいけれど、実際にこの目で現地を見てみたいんだ。」
マリアがさらにこの地を訪れた目的の詳細を話してくれた。さらに話を続ける。
「それで、ニュースを見ていたら知っているかもしれないけれど、この国の国境付近では今とある事件が起きている。」
その言葉を聞いてフロリアンは今朝見たニュースの内容を思い出した。
難民狩りと呼ばれる事件の事だ。国境付近で起きた殺人事件。この一ヶ月ほど世間を騒がせている事件だと報道されていた。
「私達が向かう場所は事件現場とされている場所からは離れているけれど、もしかすると今はいつもより少し危険かもしれない。それでも研究の為に私達はこれからそこに向かう。君は一緒に行くかい?」
フロリアンは考えた。特に予定を決めているわけではない。
この後のことについては正直何も考えてなかった。元々観光メインで過ごすつもりだった為、その時に思いついた場所へ気の赴くままに行こうと思っていたからだ。
彼女たちの誘いについてフロリアンは気になる事を素直に話した。
「マリー。ひとつ尋ねたい。僕達は今朝出会ったばかりだ。ここまでとても楽しい時間を過ごさせてもらってる事にも感謝している。そして今、次の予定に僕を誘ってくれることは凄く嬉しいけど、学術研究の為の予定なら僕がいたら邪魔じゃないかな。どうして僕にそこまでしてくれるんだい?」
「君が自分の知らない世界を見たいと言ったからだよ。」マリアはフロリアンの質問に間髪入れずに答えを返してきた。
「ぶつかったお詫びに朝食をごちそうした後、実はすぐお別れしようと思っていたんだけどね。カフェで君の話を聞いている内に気が変わった。君がたった今、正直に疑問に思う事を私に言ってくれたように、私も考えている事を正直に言おう。私はね、これから向かう場所について君に一緒に来て欲しいと思っている。だから歌劇場に向かう前のあの時 “今日一日” と言ったのさ。」
その言葉を聞いてフロリアンはマリアの言葉や行動に対して、アザミが節々で意外そうな様子を見せていた理由が何となくではあるが分かったような気がした。
ここに来た理由を二人に尋ねた時、マリアは観光だと言ったが、直後に “個人的な用事がある” という言葉を追加した。
朝食の直後に別れるつもりの相手に対してであれば、わざわざそうした事まで言う必要はない。むしろ初対面の相手に対しては余計な詮索を招かない為にも言わない方が賢明だ。
実際その後にマリアは言葉を濁したわけだが、敢えて言わなくても済む内容を口に出した事に対してアザミは驚いていたのではないだろうか。
さらにその後、丸一日付き合って欲しいとマリアが言い出した事もアザミには予想外だったのかもしれない。マリア自身が初対面の相手に対して自ら声を掛けるという事は滅多にないと彼女は言っていた。
マリアは自分に一緒に来て欲しいと言っているが、アザミはどう思っているのだろう。そう思いながらふと視線をアザミの方へ向ける。
するとそれに気付いたアザミは穏やかな口調で言った。
「貴方の思うように決めて下さって大丈夫です。わたくし達と一緒に来られるのであれば歓迎いたします。」
マリアはそれまでとは違った真剣な表情でフロリアンを見つめる。
フロリアンは考えた末に二人に付いて行く事にした。依然としてマリアが自分にそれだけの興味を向けた理由についてわからない部分はあったが、知らない世界を見たいという気持ちに従うならばこの申し出を断る理由はどこにも見当たらなかった。
そしてもうひとつ。やはりどうしても彼女の事が気にかかる。これは朝食の時にも思った事だが、この少女と話していると自分の事をどこまでも見抜かれているような不思議な気持ちになってくる。
それがなぜかという事を知りたい訳でもないのだが、純粋に彼女ともっとたくさんの話をしてみたいと考えていた。願わくば、その結末として自らが探し求める答えが見つかる事も祈って。
「分かった。マリー。一緒に行こう。」マリアにそう言った後にアザミにも言葉をかける。
「アザミさん、宜しくお願いします。」
「えぇ、喜んで。」
ベールで覆われていて表情の変化は分からないが、アザミの口元が緩むのが見て取れた。その隣ではマリアも再び笑顔を浮かべている。
「ありがとう、フロリアン。」マリアはフロリアンへ礼を言った。続けて今朝の会話について補足をするように言う。
「それと、朝食の時は特に隠していたわけでは無いんだ。ただ、初対面の人と食事中に話す話題としてはその…とても重たい話になってしまうからね。」
朝食の時に言葉を濁したのはどうやら自分への気遣いだったらしい。やはりこの少女は自分の心を見透かしているのではないかとフロリアンは思った。そして彼女の目を見て言った。
「気にしてないよ。引き続き宜しく、マリー。」
これで次の行き先は決まった。しかし、先程は車で向かうと言っていたが肝心の車はどうするつもりなのだろう。レンタカーでも借りるのだろうか。
フロリアンが疑問に思った矢先にアザミがその答えを言った。
「それでは現地へ参りますが、まずはわたくし達が宿泊しているホテルまで戻りましょう。そこに車を預けてありますので。」
次の目的地へ向かう為にまずは車を取りに向かうようだ。
「ここからだと20分近く歩く事になりますね。タクシーを呼びますのでしばしお待ちを。」
言い終わるより前にアザミは手際よく自動運転タクシー配車アプリを立ち上げて手配を始めた。そして配車の手配を終えて間もなくタクシーがやってくる。
過去に比べて交通網が格段に発達した現代において、世界中から観光客を多く迎えるような都市ではタクシーなどの公共交通機関は自動運転が標準化されており、近場の簡単な目的地への移動については手軽に無人タクシーで向かう事が出来るようになっている。
当然、世界各国から大勢の観光客が訪れているブダペストでもそうした自動運転のタクシーは標準化されており、手元のスマートデバイスの専用アプリから誰でも手軽に利用する事が可能だ。
料金の支払いはデバイスに登録されたクレジットカード決済で行われる為、顧客はデバイスから配車手配を行い、現在地に来たタクシーに乗り込み目的地へ移動して降車するまでの間に特別煩雑な事をする必要は何もない。
この制度の実現によって現地まで訪れた観光客が悪質なタクシーに不必要に過大な料金を徴収されるという事件も無く、反対にタクシーの運転手が暴力事件に巻き込まれるという事も無くなった。
「とりあえずタクシーでホテルまで戻って、そこから目的地に到着するまでは全てアザミに任せよう。二時間と言ったけど、思うよりも早く着くはずだよ。」手配されたタクシーに乗り込む前にマリアはフロリアンにウィンクをしながら言った。
何もかもアザミに任せておけば大丈夫だという彼女の絶対的な信頼の表れが感じ取れる。
歌劇場でのチケットの手配の時もそうだったが、確かにアザミの一連の動作には一切の無駄というものがない。何かにつけて恐ろしいほどに手際が良かった。
三人が車内に乗り込むと、タクシーはマリア達が宿泊しているホテルへと向かって走り始めた。
約5分ほどタクシーで走った先に二人が宿泊しているホテルはあった。到着したのはセーチェーニ鎖橋を正面に臨む五つ星ホテルだ。
降車してすぐにアザミがフロリアンとマリアに車を用意する旨を伝える。
「すぐに車を回しますのでお二人はここでお待ちくださいませ。」そう告げるとアザミは敷地内の駐車場へと向かっていった。
アザミが駐車場へと向かい、戻ってくるのを待っている間にマリアはフロリアンへと話し掛けた。
「君なら付いてきてくれると思ったよ。」
「正直、僕ももっと君と話したいと思った。それ以上は言葉にすると難しいな。とても不思議な感覚だ。」
「それは嬉しいね。私も同感だ。君と話しているととても楽しいから。」フロリアンの返事にマリアは笑顔で答える。フロリアンも笑顔を返すと話を続けた。
「でも行き先については予想外だったよ。てっきり午後からも別の観光地を回るのかと思っていたから。」
「行き先については、そう。どうしても現地に行ってみたいんだ。先程も言ったけれど、実際にこの目で見て、肌で感じる事とただ情報を眺めているだけでは全く違うからね。」
お互いが素直に言葉を紡ぐ。フロリアンはこの機会に不思議に思っていた事を改めて聞いてみる事にした。
「そういえば、アザミさんはマリーが初対面の人に自分から声を掛ける事は珍しいと言っていたけど、あの時どうして僕を食事に誘ったんだい?」
「アザミはそんなことを言っていたのかい?まぁ、本当の事ではあるんだけどね。誘った理由は言っただろう?行き先も同じだったし、ぶつかったお詫びをしたかったからだって。」
「それは僕の不注意も原因だった。誘いの言葉には甘えさせてもらったけど、決してマリーだけが悪いわけでは無かったから不思議に思ったんだ。それに、ぶつかった事で怪我をさせてしまったんじゃないかとか、君のそのドレスを汚してしまったんじゃないかと思っていたから。」
「それなら、 “私がそうしたいと思ったから” という答えではダメかな?」マリアがゆったりとした口調で言う。
さらにマリアは蠱惑的な表情を浮かべてフロリアンに少し顔を近付けると、耳元で囁くような声で続けた。
「それとも君は何か別の答えを期待しているのかい?私が求めたら、汚してしまったドレスのお詫びに君は何をしてくれるのかな?」
マリアが見せる表情と甘く囁く言葉にフロリアンは言葉が詰まってしまった。劇場の時と同じだ。
マリアはおそらく冗談で言って、自分の反応を見て楽しんでいるに違いない。
「からかうのは止めて欲しい。」困ってしまったフロリアンはとっさに顔を逸らして言った。
「あははは、ごめんごめん。今後は慎もう。でも君は自分の意思に従って賢明な判断をしたと思っているよ。ただ口を開けて待っていても、蜂蜜が降って来たりはしないからね。」
フロリアンにはその言葉が指し示す意図はよく理解できなかった。フロリアンが戸惑う様子を見てマリアはさらに微笑んだ。
こうして二人で話をしていると駐車場から黒い車が現れた。
「あぁ、来たね。では、現地に向かおうか。」
マリアの言葉でフロリアンはその視線の先にある車をまじまじと見て心底驚いた。
目の前に現れた黒い車は、その辺りの事に詳しくない自分でもどういった車種なのか分かる。
神殿をモチーフにしたと言われるフロントグリル。その上に輝くギリシャ神話に名高い勝利の女神ニーケーをモチーフにしたと言われる特徴的な金のエンブレム。
幻影の名を冠したその車は、高級車の中においても間違いなく最上級ランクに位置するものだ。何をどう考えても一般的な家庭が所有できるような車ではない。
二人の宿泊するホテルの前に来た時も内心圧倒されたが、今はそれとは比較にならない衝撃を受けていた。
彼女達は大学の研究でこの地を訪れたと話してくれたが、本当にただの大学生とその同伴なのだろうか。
その車が二人の前で停車すると中からアザミが降りてきた。彼女は後部座席のコーチドアを開くと二人へ乗車するように促す。
「お待たせしました。どうぞ。」
あまりの衝撃に立ち尽くすフロリアンの手をマリアが引く。
「さぁ、行こう。少し目立つけど、そこは我慢してほしい。乗り心地は素晴らしいから。素敵なドライブになる事は私が保証しよう。」
少し?そう言いたい気持ちをぐっと堪える。これは現実なのだろうか。
目の前で繰り広げられている光景を疑いたい気分である。今現在、周囲から注がれている視線も痛い程伝わってくる。なかなかお目にかかる事が出来ない車種とあってスマートデバイスで写真撮影している者までいる。
「フロリアン?」
マリアの呼び掛けでようやく意識が引き戻された。
「あ、あぁごめん。」
アザミとマリアに促されるまま、フロリアンはへっぴり腰になりながら後部座席へ乗り込む。そしてフロリアンの隣にマリアが座る。
アザミは後部座席のコーチドアを自動閉ボタンで閉めると運転席へと戻った。
「それでは、参りましょうか。」
「よ、宜しくお願いします。」アザミの言葉にぎこちなくフロリアンが返事をする。
「そう緊張しなくても大丈夫だよ。ほら、リラックスして。堂々と乗っていたら良い。」
「ありがとう。マリー。」
マリアの言葉に礼を言う。精一杯の笑顔で返事したつもりだが正直顔は引き攣ったままだ。そして車は目的地へと向けてゆっくりと発進した。
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