第8節 -賑やかな食卓を囲んで-
アンドラーシ通りからフランツ・リスト広場のある方向へと向かう。
先ほどのバレエ観賞について、冒頭の雪の演出が素晴らしかった事や踊りの優美さに魅了された事、音楽と踊り以外にも舞台背景など美術の完成度の高さ、僅かな時間で舞台セッティングの完璧な転換をしていた事など、それぞれの感想を話し合いながら三人は目的地へと歩みを進めていた。
そして国立歌劇場から歩く事およそ5分。目的地へと辿り着いた。
「着いたよ、このレストランだ。」フロリアンが目的地への到着を二人に告げる。
そのレストランは想像よりもとても広かった。ビルの一階に構えられた店舗の周辺を囲むように開放的なテラス席も広がっている。
三人が訪れた時間はランチタイムからは少し外れた時間だったが、店内もテラス席も大勢の客で賑わっていた。
「素敵なお店だね。お客さんが多そうだけど、予約無しで入れるかな?」
マリアの言葉と同じ事を考えていたフロリアンは少し心配になった。人気のレストランである事は分かっていたが、予想していたよりも人の数が多い。
「とりあえず中に入ってみよう。」フロリアンが先陣を切って店内に入り、後に続いてマリアとアザミの二人も店内に入る。
すると三人の入店を見たスタッフが声を掛けてくれた。
「こんにちは。」
「こんにちは。三名ですが、席は空いていますか?」祈るような面持ちでフロリアンが尋ねる。
「はい、奥の席が空いています。こちらへどうぞ。」スタッフは笑顔で応対してくれた。その言葉にフロリアンはほっと胸をなでおろす。
外のテラス席は白色のテーブルと椅子で爽やかにまとまっていたが、店内はブラウンなどを基調としたとても落ち着いた色使いでまとまっており、懐かしさが感じられるレトロな空間演出になっている。
モノクロームでデザインされた花柄の壁が印象的で、天井から吊り下げられた照明による温かなオレンジ色の光が店内を照らしている。
白いクロスが敷かれたテーブルが並び、ゆったりとした座面の椅子とその対面には座り心地の良さそうなソファが設置されている。
テーブルの中央には小さな花立てが置かれており一輪の花が添えられていた。
「とても落ち着いた雰囲気ですね。」店内を見て気に入った様子のアザミが言う。
「そうだね、ゆっくりとランチが楽しめそうだ。」マリアもアザミの感想に同意した。
女性をエスコートした経験が全くないフロリアンにとって、この状況はとても緊張するものだったが二人が楽しそうな表情を浮かべてくれている事に安堵した。
案内された座席に到着するとマリアがフロリアンに先に座るように手でジェスチャーをする。
彼女に促されるがままフロリアンが先に腰掛けると、迷うことなくその隣にマリアは座った。アザミはマリアの向かいの席に腰掛ける。
アザミの横にマリアが座るものだと思っていたフロリアンは驚いた。その様子を見たマリアが笑いながら言う。
「おや?私が隣では不満だったかな?」
「てっきりアザミさんの隣に座ると思ってたから。」
「ふふふ。アザミがね、凄く私達の写真を撮りたそうにしてたからさ。」
それを聞いてフロリアンは納得した。確かにアザミの手にはしっかりとカメラが握られている。
店内を案内してもらう途中にスタッフと一言二言ほど何か話をしていたと思ったが、どうやら写真を撮影しても良いかを尋ねていたらしい。
結果として撮影の許可はもらえたようで、アザミはとても嬉しそうな表情をしているように見えた。
「こちらがメニュー表です。後程ご注文を伺いに参ります。ごゆっくりどうぞ。」
「ありがとう。」メニュー表を手渡されたフロリアンがスタッフに礼を言う。
早速メニュー表を三人で眺める。楽しそうな表情でメニューを選ぶマリアとそれに相槌を打つアザミを見てフロリアンはとても穏やかな気持ちになった。
今までの旅においても誰かと一緒に食事をする機会は多くあったが、そういう時は決まって誰かの家に招待されてごちそうになった時である。
それ以外は基本的に一人で食事をしており、こうして誰かと一緒にレストランに入ってメニューを選んだり食事を楽しむという事はほとんど無かった。
故にこの賑やかさや温かさのようなものがとても尊いものだと感じられたのだ。
「フロリアンは何を頼むんだい?」
「フォアグラのテリーヌが美味しそうだね。」マリアの言葉に返事をする。こうした何気ないやり取りがとても心地よい。
「フォアグラはソテーやグリルもあるよ。悩むね。グヤーシュはぜひ頼みたいけど。」
「では私はプルクルトを頼みます。」
「いいね。プルクルトの牛肉は灰色牛かな?凄く興味があるのだけれど、マンガリッツァ豚も食べてみたい。あともちろんデザートも選ばないとね!」
次々とメニューを挙げて悩むマリアと対照的に即断するアザミの様子を見て思わず笑みがこぼれる。
フロリアンはこの何でもない日常的な光景と会話の心地よさを心から楽しんだ。
* * *
午後1時半過ぎ。ブダペストの十二区にある国際会議場に向けてレオナルドとフランクリンはホテルから出発していた。二人の宿泊するホテルから会議場までは車で約十分の距離にある。
午後2時より会場入りが始まり、審議前の事前準備などが行われる予定になっている。特別総会は午後4時より開始される予定だ。
静まり返る送迎の車中でレオナルドは静かに目を閉じる。
準備は出来た。懸念する事は無い。自信をもって総会に臨めばそれで良い。あとは自分自身の心持ち次第である。雑念を払うように、意識を呼吸にだけ向ける。
閉じた目を再び開いたとき、レオナルドは世界特殊事象研究機構という巨大な国際機関を束ねる総監としての目をしていた。
隣ではフランクリンが視線を真っすぐに向けて座っている。猛禽類の如き鋭いその眼光はレオナルドと同じく、機構における将官としての責務を果たす際の目つきであった。
エルジェーベト橋を過ぎて車はヘジャッヤ通りを走っていく。
もう間もなく会場に到着する。二人がこの地を訪れた最大の目的を果たす時間が刻一刻と迫る。
レオナルドは高鳴る鼓動を意識的に落ち着かせながら、これから始まろうとしている総会のみに改めて意識を向けた。
* * *
フロリアン達は注文を終えて料理が運ばれてくるのを待っているところだった。
アザミはパスタと灰色牛のプルクルト、マリアはフォアグラのソテーとグヤーシュを、フロリアンはフォアグラのグリル焼きと同じくグヤーシュを注文していた。
さらに三人で取り分けられるように特製ドレッシングの野菜サラダを一つ、マリアはデザートにミックスベリーソースとバニラアイスが添えられたチョコレートケーキを頼んだ。
三人が料理の到着を心待ちにしていると、早速注文の品がぞくぞくと運ばれてきた。
朝食のときと同じように目を輝かせながら料理を見つめるマリア。そのマリアを一切無駄のない動きでカメラに収めるアザミ。二人の様子を見て楽しむフロリアン。
周囲から見たら何でもない日常における普通の光景だが、フロリアンは旅の最後に訪れたこの地で体験しているこの時間をとてもかけがえないものだと感じていた。
料理を運んでくれたスタッフにお礼を言い、三人は早速料理を食べ始める。
「うーん、美味しいね。」グヤーシュを一口食べたマリアがうっとりした表情を浮かべながら言う。
「肉がとても柔らかい。」マリアの言葉に同意しながらフロリアンも素直な感想を言う。
アザミも料理を楽しみながら食べている様子だ。
喜んでもらえて良かった。フロリアンは内心で安堵すると同時に、何か肩の荷が下りたような気がした。
そしてその後も他愛のない話を交えながら三人はランチを楽しんだ。
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