六月九日

 翌朝。ハルカと母親は、病院の診察室にいた。


「うん。病状は安定しているね。今日から一週間、家で過ごして大丈夫だよ」


 診察を終え、医師はハルカにそう告げた。


「でも、くれぐれも無理しないようにね。あと、外出中はマスク外さないようにね。また発作が起きないために必要なものだから」

「はい、分かりました」

「どうも先生、ありがとうございました。私のほうでも、ちゃんと気をつけておきますので」


 母親が医師に礼をし、二人は診察室を後にした。

 車に乗り、そのまま帰路に就く。


「……お母さん、あのね。今日の夕方、少しだけ出かけてもいい?」

「はあ? ダメに決まってるでしょ? また発作が出たらどうするの?」


 車を運転している母親が、前を向きながらハルカに返事をした。


「お願い! 大切な用事があるの! “友達と約束”してるの……ほんのちょっとの時間でいいから!」

「……」


 ハルカからのお願いにどう答えるかで、母親は逡巡しゅんじゅんする。

 交差点の赤信号で一時停車し、少し間を置いて母親はこう答えた。


「……分かったわ。ただし、夕飯までには帰ること。これが絶対条件よ」



 ☆



 学校からの帰り道、コトミは一人、上機嫌で下校していた。

 理由は、ジュンイチから”一対一で会いたい”と誘いを受けたからだ。


「ふんふふんふ~ん♪ 木下君、大事な話があるって何だろう! まさか、告白とかっ!? わ~、まだ心の準備ができてないよ~!」


 鼻歌交じりに歩き進み、約束していた時間よりも早く目的地に到着した。

 目的地は、通学路の緑道の途中にある小さなベンチだ。

 ここは、告白の名スポットとして、生徒たちの間で知られている。


「木下君、まだかな?」


 周りを見渡すも、ジュンイチはまだ来ていない。

 だが、代わりに”見覚えのある人物”が、そこにポツンと立っていた。


「……なんで、ここにお前が!? ってか、まだ入院してるはずだろ……?」

「お久しぶりね、赤井さん」


 その人物は、ハルカだった。

 私服姿で、肩からショルダーバッグを提げている。


「今日、退院したの。あ、あと、木下君ならここには来ないわよ? わたしが”呼び出し”を頼んだだけだから」

「……はあ? あんた、何言ってんの?」


 予想外の展開に、コトミの理解は追いついていない。

 そんなコトミをよそに、ハルカは自分のスマホの画面を操作している。


「あなたに見てほしいものがあるの」


 スマホの画面をコトミに見せ、とある動画を再生した。


「……っ!」


 その動画は、一ヶ月前にコトミが黒板消しでハルカを暴行している映像だった。


「……どうして……あの時の映像が……カメラなんて、教室にないはずだろ?」

「あなた、本当に低俗なのね。ずっと、スマホで撮ってたのよ。制服の胸ポケットに入れてね」


 スマホをタップし、ハルカは別の動画を再生した。


「これは『口裂け女』として”あなた”が襲ってきた動画。ちょうど、場所は今いるこの緑道の近くね。あと、この日の昼休み、あなたたち三人が女子トイレで作戦会議してたときの会話も、全部録ってるわ」


 スマホからは、ハルカを襲う前にした作戦会議のやりとりが流れている。

 青ざめた顔で呆然と立ちつくすコトミに、ハルカは優しく微笑んだ。


「この動画、今から全部に送ろうと思うんだけど、どうかしら?」

「……え?」

「木下君、きっと驚くでしょうね。まさか、あなたがここまでやってたとは知らないだろうから。そしたら、もう二度と口も聞いてくれなくなるかも」

「……そんな……」


 コトミはその場にへたり込み、口をぱくぱくさせている。

 まるで、陸に上がった魚のように。


「……お願い……それだけは……それだけはやめて……」

「どうして?」

「あたし……木下君に嫌われるくらいなら……死んだほうがマシ……だから、他のことだったら”何でも”するから……それで許して……ね?」

「そう。本当に”何でも”するって約束できる?」


 こくんと頷きながら、コトミはすがるような目でハルカを見つめている。

 ハルカはにっこりと微笑み、ショルダーバッグからスケッチブックと草刈り鎌を取り出した。

 そして、その”草刈り鎌だけ”をコトミに手渡した。


「じゃ、その鎌で”自分の口”を切って? そしたら、すぐに動画を消すわ」

「……え?」

「だ、か、ら。その鎌で”自分の口角”を切って、と言ってるの。口裂け女みたいに」

「……そんなの……できるわけないじゃん……」

「そ。じゃ、今から木下君に動画送るわね」


 戸惑っているコトミを差し置き、ハルカは素早くスマホをタップする。


「はい、動画添付できたわ。あとは、送信ボタンを押して……」

「わあああああああああああああああああああああ!!」


 コトミは大声で叫び、鎌の刃を自分の口の端にあて、勢いよく引いた。

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