五月八日

 次の日の朝。クラスでは噂が広まっていた。


「ねえ、聞いた? 昨日、この辺で不審者が出たらしいよ?」

「聞いた聞いた。誰か、うちの生徒が刃物で切りつけられたんでしょ?」

「……なんか、口裂け女とかだったら、マジ怖いんだけど…」


 クラス中の女子たちが、青ざめた表情のまま話をしている。


「口裂け女とかさ、ワンパンかませば余裕っしょ!」

「なんなら、俺が守ってやろうか?」


 反対に、男子たちは怖がることなく、女子を茶化している。

 その光景を、コトミはにんまりとしながら眺めていた。



 ☆



 昼休み。ハルカは自分の席で絵を描いていた。

 しかし、その右手には包帯が巻かれており、ペンを握る度に、痛みで顔をしかめている。

 昨日、転倒した際に右手を痛めてしまったようだ。


「おやおやおや~? その右手、どうしたのかな? 怪我でもしたのかな?」


 ハルカが顔を上げると、そこにはコトミとあゆみ、ミナの三人が立っていた。


「……ちょっと、転んでしまっただけよ」

「そうなんだねー、それはご愁傷しゅうしょうさま。あたしはてっきり、あんたが口裂け女にでも襲われたのかと心配しちゃったよ」


 コトミはにんまりと笑いながら、ハルカにそう言った。

 あゆみとミナも、顔に笑みを浮かべている。


「……それで、何か用なのかしら? わたしは絵を描きたいのだけれど」

「まあ、そう言うなって。こっちは”お友達”を心配してあげてるんだからさ」

「はあ……わたしは、あなたと友達になった覚えはないけれどね」


 ハルカの言葉を聞き、コトミは彼女のスケッチブックをガバっと奪い取った。

 そして、ぐちゃぐちゃに破り捨てた。


「あんたさあ、自分の立場分かってないの? もう、あんたには反抗する権利なんてないの。黙ってあたしの言うこと聞いてればいいの。さもないと、もっと痛い目見るよ?」

「……そう。それじゃまるで、あなたが既に”痛い目を見せた”という口ぶりね」

「さあ……そんなこと言ったっけ? とにかく、これ以上反抗的な態度を取るんなら、もっと痛い目見るからね? 覚悟しとけよ?」


 コトミはそう言い放ち、ハルカをキッと睨みつけた。



 ☆



 事件が起こったのは、放課後のことだった。

 ハルカは日直のため、ジュンイチと二人で教室に残っていた。


「じゃあ、おれはこのノートを職員室まで持って行くから、黒板の掃除頼んでもいい?」

「ええ、分かったわ。ちゃんと綺麗に掃除しておくわね」

「よろしく~」


 三十冊も積み重ねられたノートの束を両手で抱え、ジュンイチは教室を後にした。

 ハルカは一人で教室に残り、黒板を綺麗に消している。

 そのタイミングを見計らったかのように、コトミ達三人組が教室に入ってきた。


「ふう~、日直の仕事は大変ですな~……って、大変なのは木下君だけか。こんなブスと組まされてるんだから」

「それな」

「ウケる~」


 コトミに続き、あゆみとミナもハルカをあざ笑った。

 ハルカはそれらを意に介さず、黙々と黒板の掃除をしている。


「ふう~ん、無視する気? 分かった。あたしも黒板の掃除、手伝ってあげるね」


 ズカズカとコトミはハルカの元まで大股で歩き、黒板消しを二つ手にした。


「あゆみ、ミナ。こいつを後ろから抑えて。あと、マスク外して」

「あ~い」


 ハルカが抵抗する間もなく、あゆみとミナは彼女を羽交い締めにし、彼女のマスクを外した。

 そして、ハルカの顔の真ん前で、コトミは黒板消しを叩いた。

 チョークの粉が、勢いよく空中を舞う。


「……っごほ…っげほ!」


 ハルカは咳き込み、体をくの字に曲げる。

 しかし、羽交い締めされているため、全く身動きがとれない。


「おや~? どうしたのかな? あたしは”黒板消しの掃除”をしてるだけなんだけどね~?」


 コトミはそう言って、更に黒板消しを叩く。

 黒板消しは先程よりも大きな音を立て、チョークの粉が飛散した。


「……っ……ごっ……ほっ……!」


 ハルカは激しく咳をし、ぜえぜえと肩で息をする。

 咳のし過ぎで、横隔膜おうかくまくに鈍い痛みが走った。


「あんたみたいな病弱ブスがさあ~、木下君とベタベタしてるとさあ~、超不愉快なんだよね。マジでキモいし、殺したくなるんだけど」


 コトミは手を止め、そう言った。


「あたしね、一年も前から木下君のこと狙ってるわけ。でもさ、あんたまだ学校来始めて一ヶ月くらいっしょ? そんなパッと出で、横からしゃしゃり出てこられたらさ、誰だってイラつくよ。そう思わない? 泥棒猫さん」

「……っ……はあ……わたしはただ……普通に学校生活を送りたいだけ……なのに……っ……ほっ……」


 ハルカは咳き込みながらも、コトミに反論をした。


「……っていうか……こんなことして、木下君が……あなたに振り向いてくれるとでも……思ってるの? 本当にあなた……低俗なのね……ごほっ……」


 ハルカの言葉を聞き終わるや否や、コトミは黒板消しを彼女の顔面に強く押し付けた。


「ん~? 何言ってるのか、聞こえないなあ~? 邪魔者を排除していけば、いつかは木下君はあたしを選ぶの。あたしと木下君は、運命の赤い糸で結ばれてるんだからっ!」


 手に力を込め、コトミは黒板消しをぐりぐりとハルカの顔にねじこむ。


「……っ! ……っ!!」


 黒板消しで顔をおおわれたハルカは呼吸ができなくなり、手足をバタバタと激しく動かした。

 チョークの粉を深く吸い込み、その粉塵ふんじんが気道に入ってしまったからだ。

 それから少しして、ハルカが急に動かなくなった。

 全身がだらんと脱力し、咳き込む音も鳴り止んだ。


「……ちょ……これ、やりすぎじゃない……?」


 最初に口を開いたのは、ミナだった。


「コトミ、話が違うじゃん! ちょっと”お仕置きするだけ”って言ってたじゃん!」

「うるせーっ! こいつが調子乗って、あたしを挑発するからだよ! 自業自得だよっ!」


 コトミは黒板消しを放り投げ、ミナをまくし立てた。


「……とりま、どうする? 先生、呼ぶ?」


 あゆみとミナは、羽交い締めしていた手を緩め、ハルカを仰向けに寝かせた。


「で、でも……あたし達がしたってバレたら、木下君に嫌われちゃう! それだけは絶対に嫌!」

「……じゃあ、どうするの?」


 三人は互いに顔を見合わせ、一つの結論を出した。


「……このまま、置いていこう」



 ☆



 その日の夕方、ハルカの自宅に担任教師から電話があり、ハルカが教室で一人倒れていたことが告げられた。

 ハルカはすぐさま救急搬送されたものの、意識不明の重体ということだ。

 ハルカの母親は青ざめた顔で電話を切るや否や、搬送先の病院に駆けつけた。

 何が原因でこんな事態になったのかは未だ分かっていないが、ハルカの上半身にはチョークの粉がびっしりとついており、この粉塵が喘息の発作を引き起こした可能性が高いと医師は説明した。



 ☆



 翌日、教師が生徒たちに事情を聞くも、誰一人として”知らない”の一点張りだった。

 そんな中、ジュンイチはコトミ達三人の仕業だと思い、彼女たちを問い詰めるも、証拠がないため押し問答にしかならなかった。

 そして、一ヶ月が過ぎた。

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