五月七日
新学期が始まってから一か月が過ぎた頃、ハルカの周りでは異変が起こり始めた。
最初は、些細なことだった。
「あれ? 上靴がない……」
朝、登校して下足箱を開けると、ハルカの上靴が無かった。
他にも、机の引き出しに入れていた教科書や文房具が、綺麗さっぱり消えていた。
「あなた達でしょ? 返してくれない?」
ハルカはコトミのところに行き、そう言った。
「ん~? 何のことかなあ~? 何を返せばいいのかな~?」
コトミはニヤニヤしながら、隣に座っているミナとあゆみに目配せをした。
「とぼけないで。上靴と教科書と文房具、見当たらないのだけど」
「はあ、そうなんだ。それで、何であたし達のとこに? 他の奴らかもしれないのに?」
「……こんな低俗なことするの、あなた達三人くらいなものでしょ。さっさと返して」
“低俗”という言葉に、コトミは反応した。
「はああ? 誰が低俗だって? もう
「もう一度言ってあげましょうか。低俗」
「この、クソチビがぁ!!」
コトミは勢い良く立ち上がり、ハルカの胸ぐらを掴んだ。
身長差が十五センチ以上もあるため、掴まれたハルカはつま先立ちになってしまった。
「お前、マジでさ調子乗りすぎなんだって。病人はおとなしく、家で寝てろよ。体育もろくにできない分際で、学校来てんじゃねーよ」
「……っ!」
襟元がきつく締め付けられ、ハルカは上手く呼吸ができない。
手を振り払おうとジタバタするも、コトミの腕力は想像以上に強かった。
「何してるんだ! やめろ!」
教室に入ってくるや否や、ジュンイチがハルカとコトミの間に割って入った。肩には鞄をかけたままだ。
「あ……木下君。こ、これはね……」
コトミは慌てて手を放し、その両手を後ろに隠した。
「ち、違う……城崎さんがあたしに失礼なこと言うから、ちょっとカッとなっちゃって……」
「ごほっ……ごほっ……」
ハルカは地面に
「城崎さん、大丈夫? ちょっと保健室行こうか?」
「……だ、大丈夫。ありがとう……木下君……」
ジュンイチから差し出された手を握り、ハルカはゆっくり体を起こした。
「……赤井さんが、こんなことする人だと思わなかった。見損なったよ」
「……」
コトミは、ジュンイチからの冷たい視線を直視できなかった。
☆
昼休み。コトミはあゆみとミナと三人で、女子トイレにいた。
「くそがっ! 木下君にあんな目で見られたっ! もう絶対嫌われたよ! ありえないんだけどっ!」
コトミは壁を強く殴り、悔しそうに叫んだ。
「思ったんだけどさ、城崎はこういう”回りくどいやり方”は効かなさそうじゃない? 意外とメンタル強いしさ」
スマホをぽちぽち操作しながら、あゆみが言った。
「……はあ? じゃあ、どうすりゃいいの? 何かいいアイデアあるっての?」
息を荒げながら、コトミはあゆみに詰め寄る。
「近い近い近いっ! まあ、落ち着けって。うちにいい案がある」
「え? 何するの?」
横でメイクをしているミナが聞いた。
「あのさ、『口裂け女』って、知ってる?」
あゆみの発言が予想外すぎて、コトミとミナは一瞬固まった。
そして、互いに顔を見合わせた後、話を続けた。
「……え? 口裂け女って、マスク姿の女が鎌持って襲いかかってくるアレのこと?」
「そう、その口裂け女のこと」
二人からのリアクションに、あゆみはこくんと頷いた。
「その口裂け女にさ、城崎を襲わせたらいいじゃん?」
「え?」
「うちらで口裂け女に変装してさ。そんで、痛い目見せたらいいんだよ。もう二度と反抗できなくなるように」
「……でも、そんなのバレたら大事になるじゃん?」
「大丈夫。襲うのは”口裂け女”なんだから。”うちら”じゃないから」
コトミは一瞬言葉に詰まったが、あゆみのアイデアにのることにした。
この一か月間のハルカに対する
「……わかった……じゃあ、口裂け女役は、あたしがやる。あゆみとミナは、援護お願いできる?」
コトミは、あゆみとミナの目をじっと見つめた。
二人は首を縦に振り、彼女に協力することにした。
三人が女子トイレを出ていった後、一番奥の個室トイレのドアがゆっくりと開いた。
☆
放課後。ハルカはいつもの道を一人で帰っていた。
大半の生徒は何かしらの部活動に入っているため、この時間帯に下校する生徒の数はかなり少ない。
学校からハルカの自宅までの通学路には、薄暗い緑道がある。木が生い茂っていて、日中でもあまり光が届かない場所だ。
緑道の中程まで歩くと、背後でガサッと音がした。
すぐさま振り返るも、ハルカの後ろには誰もいない。
「……」
再び歩き出そうと前に向き直った瞬間、目の前に鎌を振りかぶっている女が立っていた。
長い黒髪に真っ赤なコート。
顔は大きな白いマスクで覆われているため、表情がよく見えない。
有無を言わさず、その女はハルカに切りかかってきた。
「……っ!」
ハルカは反射的にカバンを持ち上げ、その刃先から身を守った。
ドスンという衝撃音とともに、鎌の刃が鞄に深く突き刺さる。
鞄で防いだおかげで、間一髪、致命傷からは免れた。
しかし、ハルカよりも一回り体格の大きな女の力は、想像以上に重かった。
そのため、ハルカは体勢を崩し、少しのけぞってしまう。
その隙を逃がすことなく、女はハルカの腹部めがけて右足で前蹴りを放った。
「…っは…」
女の右足が、ハルカの腹部にめり込んだ。
ハルカはその衝撃を受けた後に体をくの字に曲げ、そのまま地面に横わった。
呼吸がうまくできず、お腹の鈍い痛みに苦しんでいる。
「…っはあ…はあ」
間髪入れず、女はしゃがみ込んでハルカの髪を掴み、強制的に顔をあげさせた。
そして、ハルカの口元に鎌の刃先を突き立てた。
それとほぼ同じタイミングで、『ビーッ!』という警報音が鳴り響いた。
鼓膜までビリビリと響くその音に驚き、女は咄嗟に、両手で耳を塞いだ。
「…くっ!」
女が音の発信源を探ると、それはハルカの手の中に握られている”小型の防犯ブザー”だった。
そのブザー音は断続的に鳴り響き、一向に鳴り止む気配がない。
「ちっ…仕方ない…か」
女は小さく舌打ちをした後、むくっと立ち上がり、そのまま緑道の出口まで走っていった。
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