エピローグ
エピローグ
翌週の月曜日。
その日は終業式だった。
炎天下での式を終え、教室に帰って成績表を受け取った。案の定、さんざんな成績である。二学期には取り返さないと。
そうして今、僕は図書室のカウンターの中にいた。
開室中。
本来終業式の日には開けないのだが、先週の金曜日に僕の都合で臨時に閉めているので、その代替日というわけだ。
テストが終わって以降、図書室は夏季特別貸出期間となっている。貸出冊数の上限は二倍となり、返却期限は二学期の始業式の一週間後。つまり普段の二倍の数の図書を、夏休み中ずっと持っていてもいいわけだ。
だから、借りにくる生徒も多かろうと思い、今日は午後三時までの予定で図書室を開けたのだが――、
現在、利用者と呼べる生徒はただひとり、奏多先輩だけだった。
どうやらみんな、とっくに借りてしまっていて、終業式の今日はまっすぐ帰るか友達同士遊びにでも繰り出しているのだろう。それに加えて、開室のアナウンスをしていないのも大きいかもしれない。
「これなら開けなくてもよかったな」
と、しみじみ思う。
何せ今、カウンターの前では利用者と呼べない生徒が約二名、おおよそ図書室で出すボリュームとは思えない声で言い争いをしているのだから。
「夏休みは、行くならやっぱりプールね」
「海よ、海」
プール派は瀧浪先輩、海派は蓮見先輩である。
因みに、僕は行きたくない派だ。
「室内プールなら天気は関係ないから計画が崩れる心配がないわ」
それは一理あるな。ただ、その場合、悪天候でどこにも行けなかった連中でごった返しそうではある。
「それにウォータースライダーで滑った後、ブラが外れたのを口実に静流に抱きつくこともできるわ。ナマで押しつければいくら静流だって――」
「危ないこと考えてんじゃないわよ……」
聞いている蓮見先輩は呆れ気味。それは僕も同じ気持ちだ。それにそんなことをされたら、まぁ、さすがに僕も平常心でいられる自信はない。
そこで瀧浪先輩がはっとした。
「そもそも何で蓮見さんまで一緒に行こうとしてるのよ」
「い、いいでしょ、そんなこと」
言い淀む蓮見先輩。
それを見て瀧浪先輩が目を光らせた。
「さてはすっごい水着でも買ったのかしら?」
「ち、ちがうわよっ。何で瀧浪さんはいつもいつもあたしに露出度が高いものを着せようとするのよ!?」
「それを蓮見先輩が言いますか」
普段家でどんな恰好をしているか、自覚しているはずなのだけどな。
すると、蓮見先輩は「あ?」と僕を睨みつけてきた。……これ以上口ははさまないでおこう。
「あら、別にそんなこと言ってないわよ。ただ、似合うのを買ったのかと思っただけ」
「え? そ、そりゃあ似合わないと思って買ってるわけじゃないけど……」
またも蓮見先輩が言い淀みながら、恥ずかしそうに僕を見た。
いや、なぜこちらを見る? 何か助け舟を出せばいいのか? それとも何か言ってほしいのか? この場合、たいていの男は無力だぞ。
「ねぇ、静流?」
そんな蓮見先輩を無視して、瀧浪先輩が顔を寄せてきた。
「静流はプールよね? ウォータースライダー、一緒に滑れるわよ?」
続けてはっと我に返った蓮見先輩まで詰め寄ってきた。
「海よね!? 人工的な夏より自然の太陽よっ」
「「どっち!?」」
ふたりがそろって顔を寄せてくるもので、僕は体を仰け反らせた。
「瀧浪先輩には前に言ったけど、僕は山派なので」
「あんたね……」
波風立てない答えがお気に召さなかった様子の蓮見先輩。
一方、瀧浪先輩は、
「わたしは山でもいいけど、泳げる川があるといいわね」
「瀧浪さん、どうしても見せたいのね……」
「もちろんよ。家で見せられる蓮見さんとちがって、わたしはこういう機会でもないと見せられないもの」
「やってないわよ、そんなことっ」
がーっ、と蓮見先輩。
と、そこでチャイムが鳴った。壁掛け時計を見れば、時間は十二時二十分。普段なら四時間目の授業が終わり、昼休みがはじまる時間だ。この時間のチャイムを図書室で聞くのはなかなか新鮮だ。
「あ、ほら、昼ですから。続きは学食でやりましょう」
僕も昼休みだ。今日図書室を開けることは今朝まで言わなかったせいで、弁当の用意がない。昼食をとるなら学食だ。
そして、そこには部活動の休憩時間に食事をしにきた生徒もいるだろうから、さっきのような会話はできない。むしろ逆に静かになるにちがいない。
「本当ね。もうこんな時間」
「少し準備してから出ますので、先に廊下で待っててください」
「ん。わかった」
そうしてふたりは図書室を出ていった。
僕は毎度お馴染み『ただいま席を外しています。すぐに戻ります』の札を取り出した。たぶんすぐには戻らない。が、カウンターには金目のものはないし、そもそも利用する生徒もいない。午後一時には戻ってくる感じで食事をさせてもらうことにする。
僕は札をカウンターの上に置くと、奏多先輩のところに向かった。
「奏多先輩、少し食事に行ってきます」
声をかけると、いつものようにノートにシャープペンシルを走らせていた彼女が顔を上げた。眼光が鋭い。
「それはいいけど、お前、今日はさすがにうるさすぎるわ」
「う……」
奏多先輩は普段あまり周囲の雑音は気にしない。その彼女にここまで言わせてしまったのだから、さすがに反省せねばならない。そりゃあ眼光も鋭くなる。
「あのふたりも奏多先輩しかいないから遠慮しなくていいと思ってるみたいで」
「まったく」
奏多先輩はため息をひとつ。
しかし、先ほどよりは表情がやわらかい。案外そういう見方をされるのもまんざらではないのかもしれない。
「ところで、奏多先輩も一緒に行きます?」
「プールに?」
「ちがいますよっ」
僕は蓮見先輩ばりに慌てて否定した。
「食事ですよ、食事」
もうふたりと一緒に行くことが既定路線になりかけているところに、何で奏多先輩まで抱え込まねばならないのか。
「そうね。私はあのふたりほど見ていて楽しくないものね」
「いや、そういう問題じゃないですから」
確かに蓮見先輩や瀧浪先輩ほどに恵まれたスタイルはしていないが、奏多先輩は奏多先輩で背が高くてすらりとしているので、けっこうなモデル体型なのだ。おそらく海やプールに行けば、いくらでも人目を惹くだろう。
「私はいいわ。お前たちだけで行ってくればいい」
食事の話に戻ったようだ。食べないらしい。
ここでちゃんと食べないからうんぬんかんぬんと言えば、おそらく僕は命を落とすことになるだろう。自分で言うのはいいが、人には言われたくないのだ。
「じゃあ、そうさせてもらいます」
「ええ、ゆっくりしてきなさい」
奏多先輩はやわらかく笑った。
やはり美しい人だと思う。いつもこんなふうに微笑んでいればいいのに。
だけど、今はそれ以上に彼女が誰かに似ている気がして、少し懐かしさを覚えた。
§§§
午後三時だった。
イレギュラーな開室の、イレギュラーな閉室時間。
チャイムは鳴らないが今日はこれで閉室することにする。この図書室とも二学期までしばしのお別れだ。
蓮見先輩は食事の後一度ここに戻ってきたが、荷物を持ってすぐに帰っていった。奏多先輩も先ほど退室した。
今ここにいるのは瀧浪先輩だけ。
一緒に帰ろうと思って残ってもらったのだ。もちろん、彼女もこの時間まで快く待ってくれた。
「じゃあ、これを戻してくる」
只今閉室作業中。
僕はカウンターに瀧浪先輩を残し、配架図書を抱えて書架へと向かった。
予め図書を順番通りに並べておいたので、書架に戻しつつどんどん奥へと進んでいくことになる。そして、英米文学のところで最後の一冊を挿し込み、僕の手の中から本が消えた。
「さて、と――」
僕は意識的にそう発音し、書架を見回した。
「おっと、『星を継ぐもの』発見」
J・P・ホーガンの著書で、有名なSFミステリだ。
SFミステリはこの『星を継ぐもの』と、アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』が代表作だと言えるが、個人的には『星を継ぐもの』のほうが好みだ。『鋼鉄都市』は社会主義国家の延長のような世界観で書かれていて、どうも暗い。一方、『星を継ぐもの』では出張感覚で月に行くので、夢があっていい。もちろん、どちらも名作であるのは間違いないが。
ちょうどいいと思い、僕は『星を継ぐもの』を手に取った。階段状の踏み台に座り、ページをめくりはじめる。――そう、いつかの瀧浪先輩のように。
すでに読んだ作品なので、好きなシーンを辿るように読み返していく。
そうやって時間を潰していると、やがて人の気配がした。
「ちょっと静流、何をやってるの?」
あまりにも帰りが遅いので瀧浪先輩が様子を見にきたのだ。
「呆れた。あなた、人を待たせておいて呑気に本を――」
「遅いよ」
僕はぱたんと本を閉じ、ひと言。
それで瀧浪先輩はすべてを察したようだ。僕が彼女を待っていたことも、これがかつて彼女がやったことのトレースであることも。
そして、何か話があるからこそ、僕がこんな行動に出たことも。
瀧浪先輩は黙って僕の言葉を待つ。
「瀧浪先輩、好きです。僕の彼女になってください」
その彼女に向かって、僕は真っ直ぐに気持ちをぶつけた。
瀧浪先輩はかすかに目を丸くした。
「かたちだけならもうそうだとはわかってるんだ。でも、この前は最後の最後で僕がはぐらかしたから。ちゃんと言葉にしておきたかった」
案外、前回は彼女から言われてしまったことを気にしているのかもしれないとも思う。
「だから、できれば返事も言葉でほしい」
「静流……」
瀧浪先輩がようやく声を発した。
そして、普段から姿勢がいいのに、さらに背筋を伸ばすと、
「ええ、答えはもちろん『はい』よ」
と、はっきり返してくれた。
「よかった。ありがとう」
僕はほっと胸を撫で下ろす。
これで何かが変わるわけではなく、単なる儀式だ。それでも言葉にできてよかったと思う。
僕たちは少しの間、静かに微笑みを交わしていたが、どうやら瀧浪先輩が急に恥ずかしくなってきたようだ。
「ほ、ほら、早く片づけて帰りましょ」
慌てたように踵を返した。
「あ、そうだ。瀧浪先輩」
僕はその背中に呼びかける。
「なに?」
そうして振り向いた彼女の唇に、僕は自分の唇を重ねた。
瞬き数回ほどの時間。
それで顔を離した。
「え? あ……」
瀧浪先輩は信じられないといった顔のまま、指で自分の唇に触れる。
「ファーストキスは図書室がいいって言ってなかったっけ?」
「も、もぅ……」
困ったように口を尖らせた。
「あなたって意外と走り出したらとまらないのね」
「そりゃあこれくらいじゃないと瀧浪泪華にはついていけないだろうしね」
だからこれは覚悟の表れ。
或いは、先制攻撃。
「そう。わかったわ。じゃあ、これからいやというほど振り回してあげるわ。後悔してももう遅いんだから」
しかし、瀧浪先輩は堂々とそう宣言するのだった。
まるで宣戦布告。
開戦の合図。
これが開戦の合図なら、先ほど僕がしたことは何だったのだろう?
どうやらあれくらいは彼女にとって先制攻撃でも何でもなかったようだ。
やはり真壁静流は恋愛に向いていないと、僕は思った。
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ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
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シリーズ最終巻となります。
どうぞよろしくお願いいたします。
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