第3話(2)

 解決へと向かう問題もあれば、いっこうに解決の兆しが見えない問題もある。


 放課後の図書室。

 気がつけば閉室時間を迎えていて――つい先ほど奏多先輩が出ていって午後六時の本鈴が鳴った。


 今日も瀧浪先輩はこなかった。


 閉室作業はさっぱり進まず、僕は配架図書を抱えたまま窓から見えるグラウンドを眺めていた。


 ようやく暗くなる気配を見せはじめた夏の夕刻の空の下、いくつかの運動部が練習をしている。午後六時には特段の理由がないかぎり、生徒は下校しなければならない。だが、顧問の先生の監督のもとでの練習は、自動的に学校に残る許可が下りているものと扱われるようだ。


「待つしかない、か……」


 無意識にそうつぶやいていた。


 自分で解決できない問題はきらいだと言った直井の気持ちがわかる気がする。手が出せず、待つしかないのはなかなか辛いものだ。




「お前、ここに泊まる気?」




 不意に、声。


 驚いて振り返れば、図書室の出入り口に奏多先輩が立っていた。


「帰ったのでは?」

「お前、時間中ずっと難しい顔をしていたわね」


 僕の問いに答える形式にはなっていなかったが、それが理由なのだろう。


「それから、このところずっと瀧浪を見ていない」

「ですね」


 期末テストの前からだから、もう二週間になるか。図書室以外では何度か会っているので、丸々二週間顔を見ていないわけではないが。


 奏多先輩はどうなのだろう? 教室の近くで見かけたりするのだろうか。


「理由は察しがついてるんでしょう?」

「だいたいはね」


 と、奏多先輩。


 控えめな言い方だ。彼女のことだから正確に状況を把握しているにちがいない。


「私に、もうここにはくるなと言えばいい」

「言うわけないでしょう。図書室は誰か特定の人物を拒む施設ではありませんよ。それにこれは瀧浪先輩の気持ちの問題です。奏多先輩が僕に近づかなければすむ話でもないんですよ」


 そう、これは瀧浪先輩の問題。


「だから、僕は待つしかない」


 解決できるのは彼女しかいない。


「瀧浪先輩は僕に言いました。時間をくれ、と。だから僕は彼女を信じて待つべきなんです。それなのに今すぐ会いたいと思う僕がいる」


 会ったところで瀧浪先輩が困るだけだろう。それがわかっているのに、僕は気持ちが抑えられないのだ。


 明らかに最適ではない解。

 いつから僕はこんなに空気の読めない人間になったのだ?




「お前、ずいぶんと普通の男になったわね」




「は?」


 僕は奏多先輩を見るが、彼女は相変わらず表情に乏しい顔をしていた。


 持っていた制鞄を貸出カウンターの上に置き、僕と向き合う。


「これが普通ですか?」

「普通ね」


 あっさりうなずく奏多先輩。


「人間なんてそんなものよ。自分が思っているのと反対のことを言ったり、不合理な選択をしたり。お前もそう。するなと言われた行動をしたくて仕方がない」

「……普通で悪いですか?」


 僕は思わず不貞腐れたように言い返した。


 普通のレッテルを貼られたことで、僕は奏多先輩の望むものから外れ、呆れられたような気がしたのだ。


「悪いとは言っていない。むしろいい傾向と言える」

「……」

「お前が今まで場を鳥瞰し、最適な行動を選択することができたのは、単に周囲が単純だったからよ。子ども故のシンプルな行動原理、選択肢の少なさ――」


 つまり低次の方程式。


「だけど、これから次第に複雑になっていくわ。個人の矜持や他者との利害関係――そういったものが非効率的で、不合理な行動をとらせる。こと恋愛においては、お前というサンプルがすでにあるわね」


 確かに。僕は今、理屈に合わない行動をとろうとしている。


「ひとつ予言するわ。周りの人間の言動や精神活動が複雑になっていくにつれて、お前は最適な解が出せなくなる」

「僕はどうしたらいいんですか?」

「どうもしなくていい」


 奏多先輩はきっぱりと断言した。




「最適な解が出せないなら、悩んで答えを求めなさい。そうやって出した答えが本当に正しかったか、さらに悩めばいい。時には間違った答えを出して後悔もするわ。でも、その過程で発生した感情はきっと本物よ。疑問などはさむ余地もなくなる」




「……」


 ああ――と、僕は声を上げそうになった。


 奏多先輩は最初からいずれこうなるとわかっていたのだ。だから、僕の『欠落』について大仰なものではないと思っていたし、そのうち治る、近いうちに治ると言っていたのだ。


 彼女はこのときを待っていたのだろう。小癪な僕が周囲の人間の気持ちや動きを読み切れなくなり、図々しくも悩みはじめるこのときを。その鼻っ柱を折るために。


「ありがとうございます」


 僕はお礼の言葉を口にする。


「奏多先輩のことが好きになれたらよかったのにと、つくづく思いますね。そういう気持ちがないのが悔やまれます」

「そう。私にもそんな感情はないけれど、惜しいと思ったこともないわね」


 相変わらずバッサリだった。


 この人は将来、どんな男とつき合うのだろうな。まったく想像がつかない。もういきなり外国の富豪に見初められるほうがよっぽど現実味がある。




「僕にとって奏多先輩はそれ以上の存在です」

「私もよ」




 ずっと僕を見守り続けてくれた人。今も僕に答えをくれた。

 僕はこれから先、奏多先輩に何かを返していこうと思う。




 しばらくの間、僕たちは互いに見つめ合っていたが、前触れもなく奏多先輩がふいと視線を外した。帰るようだ。カウンターの上にあった鞄を手に取る。


「あ、そうだ、奏多先輩。明日は臨時休室にしますので」

「そう。わかったわ」


 あっさりと答え、彼女は図書室を出ていった。

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