第4話(2)

 やはり今日も放課後の図書室に瀧浪先輩は現れなかった。


 そして、夜。

 夕食はおじさんも含めて三人で食べ、食後の後片づけは僕の役目だった。食器は軽く洗ってから食洗器へ。調理器具は機械任せにできないから、自分の手で洗う。


 それが終わって食洗器の稼働音を背中に聞きながらリビングに戻ると、蓮見氏がまた紙の束を見ていた。蓮見先輩はテレビのリモコンを片手に、面白い番組はないかとチャンネルをザッピングしている。


「前から気になっていたんですが、それは何を読んでいるんですか?」

「これか? 論文のコピーだよ」


 そう言っておじさんはローテーブルの上にあった紙束のひとつを僕に差し出してきた。百聞は一見に如かず。実物を見てみろということらしい。


「君がまだ小さいころ、世界的に感染症が流行ったことがあっただろう? あのころに発表された論文に興味があってね」


 ということは、最新の研究を調べているわけではなく、趣味で読んでいるのか。


「ああ、これが文献の複写というやつですか」

「高校生で知っているとは珍しいな」

「いえ、知識だけですよ。見るのは初めてです」


 パラパラとめくってみれば、すべて英語で書かれていた。グラフなどの図表もある。知らない単語が多すぎて欠片も読めないが、蓮見氏の言う通り感染症関係の論文なのだろう。


 大学や市町村の図書館にはILL(Inter-Library Loan)と呼ばれる、図書館同士で所蔵資料の貸し借りをするシステムがあるのだそうだ。ひとつの図書館でありとあらゆる本をそろえることができないのは当然のこと。あれば便利だがあまり利用がない資料なら必要なときに所蔵している図書館に借りればいい、という発想のようだ。


 学術論文も同じ。読みたい論文が掲載された雑誌が利用している図書館になければ、持っているところからそのコピーを送ってもらう。


 しかも、貸し借りは県や自治体、時には国境を越えて可能なので、事実上読めない本や学術論文はないことになる。


 それが図書館ネットワークというものだと聞いている。


「君も大学に行ってちゃんと勉強をするなら、こうやっていろんな論文に目を通すようになるだろうな」

「そうですね」


 それどころか大学を卒業した後も、職業によっては最新の研究について理解するため、日々新しい論文を読まなくてはいけないのかもしれない。


「進みたい学部や大学は決まっているのかね?」

「いえ、まだです」


 僕は論文のコピーをテーブルの上に置きながら答えた。


「そうか。決まったら遠慮なく言ってくれ。経済的なことは気にしなくていい。私学だろうが遠くの大学だろうが、君のやりたいことをさせてやれる力はちゃんとある」


 蓮見氏は自信満々の顔で言う。


「ただ、相談は向いてないな。君くらいの歳には、私はもうとっくに医学バカだったからね。相談なら、そうだな……紫苑、お前が乗ってあげなさい」

「え……?」


 いつの間にかじっとこちらを見ていた蓮見先輩が、自分の名前を呼ばれてはっと我に返った。


「あ、うん、わかった」


 蓮見先輩がそう答えると、おじさんは満足げにうなずいた。


 弟の相談に乗る姉――つくづく彼はこういう絵に描いたような姉弟像が好きなんだなと思う。


「じゃあ、そのときはよろしくお願いします」


 僕も話を合わせてそう言うが、たぶん相談することはない気がする。これは蓮見先輩があてにならないとか頼りないとかではなくて、ひとつしか歳のちがわない彼女にそんな余裕があるのかという問題だ。蓮見先輩が受験勉強を経て、大学に合格すれば経験から何か語れるのかもしれないけれど。


「部屋に戻ります。来週はもうテストなので」

「そうか」


 おじさんはまた満足そうにうなずく。


「あ、あたしも」


 蓮見先輩がどこか慌てたようにソファから立ち上がり――僕たちはふたり連なって二階に上がった。


「やっぱさ――」


 部屋のドアレバーに手をかけたところで、蓮見先輩が切り出してきた。


「男ってひとり暮らししたいものなの?」

「唐突ですね」

「い、いいでしょ」


 蓮見先輩が口を尖らせる。


「そうですね。したいというよりは、いつまでも親もとにいるのは恥ずかしいという思いはありますね。それに僕は――」

「あ?」


 いきなり威嚇するような声を出され、僕は続く言葉を飲み込む。


 僕はこの家の人間ではないから、早くここを出るべき――と言おうとしたのだが、眉根を寄せた蓮見先輩に睨まれ、制されてしまった。どうも彼女はこういうのがきらいらしい。


「まぁ、僕はこの兵庫という土地が好きですから」

「そうなの?」


 蓮見先輩がきょとんとする。今まで一度も言ったことがないのだから、そんな顔にもなるだろう。


「はい。兵庫県ってなにげに日本海と瀬戸内海に接してるから、なくなると本州が分断されるんですよね。兵庫県舐めるなと」

「いや、あんたの好きポイントがわからんわ」


 そして、今度は呆れる。


「それから南京町広場の十二支像にパンダが交じって十三体になってるのも好きですね。理由もくだらないし」

「あー、あれはケッサクよね」


 こっちは同意してくれたようだ。


「そんな感じなので、基本的にはこの兵庫、というか、神戸を中心に進路を考えると思いますね」


 突然何かに目覚めて全国でも数校にしかない珍しい学部を目指すようなことでもないかぎり、神戸周辺にある大学から順に考えていくだろう。


「あ、そうなんだ」


 かすかに胸を撫で下ろす蓮見先輩。


「だったらうちから通えるところがいいんじゃない? 楽だし」

「そうですね」


 僕は苦笑しながら答えた。


 この人もすっかり僕の姉になってしまったな。しかも、やや過保護気味。そんなに僕は外に出すのが心配な弟なのだろうか。


「じゃあ、勉強がありますから」


 改めて僕はドアレバーに手をかけた。


「がんばんなさいよ。神戸にはいい大学がいっぱいあるんだから」

「わかってますよ。でも、僕より先に蓮見先輩だと思いますけどね」

「う……」


 忘れていたのか見ない振りをしていたのか、突きつけられた事実に彼女は小さく呻き声を発した。そのまま自分の部屋に消えていく。


 さて、僕も勉強だ。週が明けたら期末テストが待っている。


 瀧浪先輩のことも考えないといけないが、まずは目の前のことに集中しよう。

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