第3話(1)
「では、先に出ます」
翌日の水曜日は、いつも通りの朝だった。
ひと足早くおじさんが家を出て、僕と蓮見先輩だけでの朝食。それが終わるとふたりで協力して食事の後片づけなどの雑事をこなし、そうして登校時間となった。
制服に着替え、制鞄を持って二階から下りてくると、僕よりもさらに早く準備をすませた蓮見先輩がいつも通りソファで本を読んでいた。読むものが尽きる前に約束の本を取りにいかねばと思う。
蓮見先輩がぱたんと本を閉じた。
「じゃあ、行こっか」
「は!?」
僕の口から素っ頓狂な声が飛び出した。
どうやらぜんぜんいつも通りではなかったようだ。
「一緒に行くつもりですか!?」
「な、何よ。悪い?」
僕の驚き方が尋常じゃなかったせいか、蓮見先輩がたじろいでいた。
「いや、いい悪いじゃなくてですね。おかしいでしょう、僕と蓮見先輩が並んで歩いてたら。基本接点ないんですよ」
「そうでもないわよ。何だかんだで学校でもちょこちょこ話してるから。顔を合わせたら話をするくらいの仲なんだろうとは思われてるわね」
「……」
いつの間にそんなことに。……まぁ、確かに学食なんかでばったり会えば話をしているものな。
「大丈夫よ。このへんには
確かに駅や電車の中なら、知り合いに見つかったとしてもばったり会っただけと嘘が通る。家から一緒に出てくるところさえ見られなければ問題ないのだが、
「ドアを開けたら椎葉先輩が立ってたりして」
「あんた、怖いこと言うんじゃないわよ……」
僕の冗談に、蓮見先輩がわりと本気で顔を引き攣らせていた。
あのはしっこい椎葉茜先輩ならやりかねない怖さがある。まぁ、あの人もあれで四人姉弟の長女らしく、意外としっかりものだという話だ。さすがにそんな奇行はしないだろう。
「ほら、行くわよ」
「やっぱり行くんですね」
リビングの出入り口に立つ蓮見先輩に促され、僕も諦めて歩き出した。
廊下を抜けて玄関へ。そこでそれぞれ学校指定の革靴とローファーに履き替える。そうして蓮見先輩がドアレバーに手をかけて――ぴたりと動きを止めた。
「いないわよね?」
「まさか」
謎の緊張が走る。
どうも僕が不用意なことを言ったせいで、彼女の中で椎葉先輩が行動予測不能の生きものになってしまい、しかも、それが僕にまで伝播したようだ。
蓮見先輩が意を決して玄関ドアを開けるが、当然そこには気まぐれを起こした椎葉先輩が出待ちをしているはずもなく。
ほっと安堵して僕らは名谷の駅へ向かって歩き出した。
「何で一緒に行こうと思ったんです?」
道すがら僕は問う。
「い、いいでしょ、そんなの。だいたいあたしたちこれでも姉弟なんだから、短い高校生活の中で一度くらいこういうのがあってもおかしくないでしょうが」
「確かにそうですが、事実と世間の認識に大きなズレが――」
「あー、もう、うるさいうるさいうるさいっ」
僕の発音にかぶせて、蓮見先輩は鬱陶しそうに言う。
「あんたもたいがい往生際が悪いわね。こんなナイスバディのお姉様と並んで歩けるのに、いったい何が不満なわけ?」
「それ、時々言ってますけど、恥ずかしくないですか?」
実際グラビアアイドル顔負けのスタイルなのでまぎれもない事実ではあるが、自分で言うことではないと思う。
「い、いつも勢いで言ってるのよ。冷静に聞かないで」
蓮見先輩は顔を赤くしながら口を尖らせる。
結局、この行動に何の意味があるのかは聞けずじまいだった。
程なくして名谷に着き――僕は周りを見回してみるが、茜台高校を含めた様々な制服の高校生の中に直井恭兵の姿は見つからなかった。いれば蓮見先輩を押しつけてしまうつもりだったのだが。こんなときにかぎって会えないとは、僕と直井、どちらの運の悪さによるものか。
改札を通ってホームに下りる。程なくして電車が滑り込んできた。
この駅の乗降客は多い。大型ショッピングセンターの須磨パティオがあり、ここを始発とする路線バスが多いせいもあるのだろう。一日の利用客は、西神・山手線の駅では三宮に次いで第二位だ。
電車のドアが開き、客が吐き出される。
直後、中から声が聞こえた。
「わ、待って待って。お、降り、降り……ません。わあっ」
しかし、その言葉とは裏腹に転がり出てきたのは、茜台高校の制服を着た小柄な女子生徒。椎葉先輩だった。どうやら降りる客の波に巻き込まれたようだ。
まさか本当にドアを開けたら椎葉先輩がいるとは思わなかった。よろけるようにして出てきたので、僕は咄嗟に受け止める。
「あ、す、すみませんっ」
「大丈夫ですか、椎葉先輩」
「ん? その声は……?」
彼女は人にぶつかってしまったと思ったのだろう。相手の顔も見ず反射的に謝って、僕の声を聞いてからようやく顔見知りだと気づいたようだ。
「図書委員くん!」
「おはようございます、椎葉先輩」
僕の腕の中におさまったまま見上げてくる彼女に、僕は挨拶をする。
「とりあえず乗りませんか?」
「あ、そだね」
大きな荷物は背負わず体の前で持つようお願いするアナウンスが車内に流れる中、
「やー、これは楽でいいね」
椎葉先輩はこちらに背を向けるかたちで、僕の体の前面に貼りつくようにして立っていた。至極ご満悦な様子だ。
「何ですか、この体勢」
「満員電車対策?」
なぜか椎葉先輩は疑問形。
確かに僕の体にすっぽりおさまっているので、混み合った車内でもかなり人との接触は避けられるだろう。僕と接触しっぱなしという大きな問題はあるが。
「図書委員くん、明日も新長田まで戻ってきてよ。毎日一緒に行こうよ」
「いや、改札を出なくても不正乗車のはずですからね、それ」
椎葉先輩も最寄り駅は新長田なのか。僕が真壁の家から通っていたら可能だったかもしれない。そんな無茶なお願いをするくらい彼女にとって満員電車は切実な問題のようだ。毎日苦労しているのだろうな。
「あんた、いつまでくっついてんのよ!? もうそんな状況じゃないでしょうがっ」
今まで苛々した様子でこちらを見ていた蓮見先輩が、がーっと吠える。
彼女の言う通りだ。この時間の名谷は乗る客より降りる客のほうが多いようで、この駅を境に車内の混雑具合は比較的軽くなる。満員電車に揉みくちゃにされた挙げ句、降りる客の波に流されるような事態はまずない。
「もぅ、図書委員くんのことになるとすぐに怒るんだから」
椎葉先輩は口を尖らせる。
「よかったら代わろうか? あ、紫苑ちゃんだったら向かい合わせのほうが――」
「やめてっ」
「やめてくださいっ」
直後、僕と蓮見先輩が同時に叫んでいた。
「え? な、なに、ふたりそろってその反応……?」
わけがわからない椎葉先輩は目をぱちくりさせる。
「いいのよ、あんたは知らなくても」
「そ、そう?」
僕と蓮見先輩には満員電車という場所に忘れたい過去があるのである。
「ほら、もういいでしょう。離れてください」
僕は椎葉先輩を優しく押して、蓮見先輩のほうへ追いやった。
小さくて子どもっぽくてかわいらしくても年上の女性なので、こちらとしてもあまり心臓によろしくない。加えて言えば、蓮見先輩の機嫌が悪そうなのも精神衛生上よろしくなかった。
「それにしても、紫苑ちゃんと図書委員くんが仲よく一緒にいるとはねぇ」
椎葉先輩はにやにやしながら蓮見先輩を見る。
「何を勘繰ってるのか知らないけど、たまたま会っただけだからね」
「へえぇ」
どうも椎葉先輩は信じていない様子。
「たまたまですよ」
今度は僕が横から口をはさむ。
「事前に蓮見先輩がどの電車に乗るか調べておいてからの『たまたま』です」
「え? あ、そうなんだ。やったね、紫苑ちゃん」
椎葉先輩はそう言って蓮見先輩に笑いかけてみせてから、再び僕のほうへ顔を向ける。
「夏休みはね、プールか海に行くといいよ。すっごいから」
「……」
それだけは絶対に避けたいところだ。
「真壁くん、話をややこしくするのはやめてくれるかなー?」
蓮見先輩がにっこり笑いながら言う。これは怖い。
だが、一拍おいてから彼女は深々とため息を吐いたのだった。
「茜にはそろそろ話しとくわ」
「あ、そうしますか」
つまりは僕と彼女の関係を話すということで、蓮見先輩にとって椎葉先輩は、直井同様それをおしえてもいい相手ということだ。まぁ、これ以上いじられるのも鬱陶しいだろうし。
「え? 何のこと?」
「今度話すから」
蓮見先輩は面倒くさそうにそう一蹴した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます