第2話(1)

 その翌日。

 火曜日のことだ。


 昼休み、いつものように刈部景光、辺志切桜とともに昼食を食べた後、僕は飲みものを買いに教室を出た。暑さがいよいよ本格化したころ、蓮見先輩から水分補給用として冷たすぎない温度のお茶が入った水筒を持たされている。あの人はもともとアスリートなので、水分補給の重要性をよく知っているのだ。


 とは言え、それはあくまでも水分補給用。食後はやはりコーヒーなり紅茶なり、時には炭酸飲料を飲みたいという思いはある。


 今日は少し趣向を変えて、学食ではなく校舎と校舎をつなぐ連絡通路の自販機に行ってみることにした。


 だが、すぐに後悔する。……暑い。


 連絡通路はオープンな場所だ。上には渡り廊下があるだけで、あまり屋根としては機能していない。雨が斜めに降れば向こうに着くまでにびしょ濡れになる。しかも、運悪くこの時間、影は通路から離れた場所に落ちていた。


「とっとと買って帰るが吉、か」


 僕は意識的にそう口にする。


 刈部と辺志切さんはついてきてくれなかった。もともと辺志切さんはあまり動き回るタイプではなく、夏になってその傾向はいっそう強くなった。刈部もそれに合わせるようにして、登校前に食後のコーヒーを買ってくるようになった。飲むころにはとっくに温くなっているだろうに。


 さて、何を飲むか、と陽射しに焼かれながら考えていると、すっと横から手が伸びてきてボタンを連打しはじめた。誰だこんな愉快なことをするやつは。


 横を見れば、それは鷹匠雅先輩だった。


「さ、どうぞどうぞ、お金を入れてください。わたしはこれが好きです」

「後輩にたかろうとしないでください」


 なんて先輩だ。


「じゃあ、奢ってください」


 鷹匠先輩がくるりとこちらを向く。……それは言葉がちがうだけで、結局やっていることは同じだ。


「奢ってくれたらとっておきの自撮りの中からお好きな一枚を差し上げます」

「安くないですか!?」

「もちろん真壁クンだからこそ、このお値段でのご奉仕です」


 そう言って鷹匠先輩が意味ありげに微笑むと、彼女のチャームポイントであるタレ気味の目におっとりした雰囲気が合わさって、相変わらず妙な色気があった。


 しかも、この人は気に入った海外の制服を取り寄せては、少々扇情的なセルフィをSNSにアップするという困った趣味があるのだ。その秘密を知っている人からはやめるように言われているが、これも自分の一面だと肯定した上で続けているらしい。


 とりあえず僕は助けを求めるため周りを見る。


 鷹匠先輩がいるということは、瀧浪先輩もいるはずなのだが――ああ、いた。なぜか少し離れたところで、こちらの様子を窺っていた。


「瀧浪先輩!」


 僕は彼女を呼ぶ。


 すると、自分はこちらを見ていたくせに、僕が瀧浪先輩を見つけたことには気がついていなかったようで、彼女は名前を呼ばれて驚いたように体を小さく跳ねさせた。


 こちらにやってくる。


「瀧浪先輩もこっちに買いにきたんですね」

「え、ええ……」


 瀧浪先輩が中心のグループは全員学食組だ。僕も母が亡くなった直後はしばらく学食通いで、いつも遠目にその姿を見ていた。よって彼女が食後に何か飲みものを求めるなら、学食の中の自販機がいちばん近いはずなのだ。


「そうなんですよ。瀧浪さんが今日はこっちがいいなんて言い出して」


 と、鷹匠先輩。


「それなのに真壁クンとばったり会うなんて、やっぱりふたりは通じ合って――」

「そ、そんなのじゃありませんっ」


 瀧浪先輩が慌ててその言葉を否定する。


「じゃあ、真壁クンとは何もないなら、わたしが取っちゃおうかなー? ……この前は浮気相手にどうですかって言って断られたけど、本命ならどうです?」

「はい?」


 僕の戸惑いをよそに、鷹匠先輩は艶っぽい笑みを浮かべながら距離を詰めてくる。


「今なら見えすぎてお蔵入りになった自撮りがついてきますよ?」

「鷹匠先輩」


 僕はかぶせ気味に発音する。


「あ、考えてくれました?」

「そんな写真で釣ろうとしなくても、鷹匠先輩ほどの女性なら腐るほど男が寄ってきますよ」


 直後、鷹匠先輩は目をぱちくりさせて驚いたような顔を見せていたが、やがてやわらかく微笑んだ。


「そんなことを言われたら、わたし真壁クンのこと好きになってしまいそうです」


 そして、少しだけ顔を赤くしてそう言う。


 それからすっと体を寄せてくると、口もとを掌で隠しながら囁いた。


「よかったらわたしの最高の一枚をもらってください。絶対にSNSには出せないやつですよ? なんとずり落ちたブラのところをよく見ると、薄いピンク色の――」

「瀧浪先輩ッ!」


 僕は鷹匠先輩の声をかき消す勢いで叫んだ。この問題発言と問題行動が服着て歩いているような人をどうにかしてくれ。


「はいはい、帰るわよ」

「え? あ、ミ、ミルクティはー!?」

「学食で買います」


 ぴしゃりと言う瀧浪先輩。


「ほら、やっぱり真壁クンと――」

「ちがいます!」


 彼女は鷹匠先輩の腕を掴み、ずんずんときた道を戻っていく。


 そうして最後、校舎の中へ消えていくその瞬間、鷹匠先輩がこちらを振り返って手を振り、投げキスをしたのだった。




          §§§




 そんな昼休みを経て――放課後の図書室。

 今日も瀧浪先輩はいつもの時間になっても姿を見せなかった。


 尤も、昨日は閉室時間ギリギリに現れたので、今日もそうなのかもしれないし、或いは、今日こそは図書室にこないつもりなのかもしれない。


(昨日は普通だったけどな……)


 と、僕は思い返してみる。


 いきなり僕と奏多先輩の昔の話を聞かせろと言い出したときは驚いたが、帰りは僕が黙っていたことを鋭く見抜いたりもしていた。


(それに昼休みも……)


 何か引っかかった。


 いや、本当にそうだったか? 最初はやけに離れていたし、彼女とはほとんど話さなかったように思う。とは言え、それも終始鷹匠先輩が暴走していたからだと見えなくもない。


 加えて、なぜあんな場所の自販機を利用しようと思った? 昼休みには学食に足を運ぶことが多い僕を避けたかったのではないだろうか。


 引っかかるところは多いが、結局は待つよりほかになさそうだ。




 そうして閉室時間になっても彼女は現れなかった。


 つい先ほど午後六時五分前の予鈴が鳴り、閲覧席にいた生徒たちは帰り支度をはじめている。僕もカウンターの中で業務用端末の不要なアプリケーションを順に落としつつ、滑り込みで図書を借りにくる生徒に対応する。


 もう貸出も返却もなさそうなのを見て取ると、僕はカウンターを出て奏多先輩のもとへと向かった。


「瀧浪、こなかったわね」


 意外なことに彼女のほうからそう切り出してきた。


「たまたまじゃないですか?」

「本当にそう思って?」


 奏多先輩は問うてくる。


「……まぁ、正直、気にはなりますね」


 何となくいつもの癖で気にしていない振りをしたが、ちょっと引っかかるタイミングではある。


「奏多先輩はどう思います?」

「失敗したかもしれないと思っている」


 さして考えることなく、奏多先輩はそう言った。


 つまりそれは、彼女もまた瀧浪先輩がこないことを気にしていて、その原因を考えていたということだろうか。


 それはさておき。


「失敗? どういう意味です?」

「今のところ確証はないから、話す段階ではない」

「何ですか、それ」


 まるで推理小説の探偵役。曰く、「まだ証拠がそろっていないから話せない」。ああいうシーンでは「いや、いいから話せよ」と思っている読者も多いことだろう。


「『すべての物質は毒であり、毒でないものはない。容量が毒と薬をわけるのだ』」


 不意に奏多先輩はある一文を引用した。


「パラケルススでしたっけ?」

「そう。私は容量を間違えたのかもしれない」


 ただでさえ説明不足のところに、偉人の言葉を持ってこられてもなと思う。


 逆に奏多先輩が僕に問いかけてきた。


「お前はどう思っているの?」

「僕にわかるわけがないでしょう」


 物理的にこられない理由なら兎も角、これは瀧浪泪華の気持ちの問題だ。


「でしょうね」


 奏多先輩は小さく笑う。


「でも、お前はそれでいい」

「……」


 それはどういう意味だろうか?


「帰るわ」


 奏多先輩は椅子から立ち上がり、制鞄を手に取った。そうして図書室の出入り口へと歩いていく。


 彼女が見えなくなると同時に、いつものようにチャイムが鳴った。

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