第3章 すべての物質は毒である

第1話(1)

 週明けの月曜日、放課後の図書室。


 その日、瀧浪泪華はなかなか姿を現さなかった。


 土曜日には僕と奏多先輩を尾行するという決定的に不審な行動をとったものの、奏多先輩がとっとと帰ってしまった後は蓮見先輩とともに僕と合流し、普通に南京町をぶらぶらしていた。変わった様子はなかったように思う。


 そして、日曜をはさんで今日――月曜日。


 このタイミングでいつもならやってくる時間になっても現れないのは、少し気になるところではある。とは言え、彼女はほぼ毎日この図書室に顔を出すが、逆に言えば言葉通り毎日ではない。その毎日ではない日が今日だっただけのこと。そう処理できないこともない。


 そのまま時間が過ぎていき、やがて午後六時五分前の予鈴が鳴った。勉強に集中していた生徒たちが、もうこんな時間かと各々帰り支度をはじめる。


「真壁先輩、お疲れ様でーす」


 そう僕に声をかけてカウンターの前を通り過ぎようとしたのは、いつぞや瀧浪先輩にまんまと騙された新入生だった。


「お疲れ」

「あ、そう言えば、今日は瀧浪先輩きませんでしたね」


 だが、出入り口に向かおうとしていたその足が止まった。


「そりゃあテスト前だからね。家で勉強してるんだろ」

「俺、瀧浪先輩は真壁先輩目当てでここにきてると思ってるんですよね」


 まるで自分だけが知っている秘密を話すかのように、貸出カウンター越しにそんなことを言う。彼の向こうではほかの生徒たちがバラバラと帰りつつあった。


「だといいけどね。……そんなわけないだろ。早く帰れよ、新入生」

「うぃーっす」


 僕が追い払うように言えば、調子だけはよさそうな返事をし、体を出入り口のほうへと向けた。だが、次の一歩が出ない。


 いったいどうしたのかと思えば――彼の視線の先に瀧浪先輩がいた。


 彼は体を斜めにして僕に顔を寄せると、


「ほらほらー」

「かーえーれ」


 僕がやや低い声でそう言うと、彼は慌てて逃げるように出入り口へと向かう。


「瀧浪先輩、さようなら」

「ええ、さようなら」


 瀧浪先輩に挨拶をしてすれ違い、廊下へと消えていった。


 代わりに瀧浪先輩がカウンターにやってくる。


「こんにちは、真壁くん」


 いつもと変わらぬ嫋やかな微笑。


「壬生さんはきてる?」

「……」


 僕はすぐに返事ができなかった。


 最初は「見たらわかるだろ」とか「あの人がこない日はないよ」とか、咄嗟に言おうと思ったのだ。だが、ほとんどの生徒が帰ってしまって、それこそ奏多先輩が閲覧席にいることは一目瞭然だ。にも拘らず、一度カウンターにきて僕に尋ねるという工程をはさんだことに、何か意味があるような気がした。


 振り返ってみれば、瀧浪先輩から奏多先輩に話しかけたことはほとんどなかったように思う。もしかしたらこれが初めてかもしれない。こうしてワンクッションおいたのは、その緊張の表れ。或いは、心の準備といったところか。


「……あっちに」

「ありがとう」


 僕がわずかなタイムラグの後に答えれば、彼女は礼を言って閲覧席へと体を向けた。奏多先輩のほうへと歩いていく。僕もカウンターを出て後を追った。


「こんにちは、壬生さん」

「何か用?」


 脇に立って挨拶から入る瀧浪先輩と、帰り支度をする手を止めて彼女を見上げる奏多先輩。


「土曜日、あなたと静流のことを見てたわ」

「そのようね」


 奏多先輩は薄く笑う。


「あれが普段のあなたたち?」

「平均値ね。尤も、それを大きく外れた記憶はないわ」


 奏多先輩の言う通りだ。僕が高校に上がってからはだいたいあんなもの。目的があって出かけるからついてこいと奏多先輩が言い、僕が喜んでとばかりにおともをする。いわゆるデートのような色っぽいものになった例はないし、反対に何かのきっかけでケンカになったこともない。


「そう」


 瀧浪先輩は納得する。


「あなたたちの今の関係はわかったわ」


 閲覧席では奏多先輩を除いた最後の生徒が帰ろうとしていた。三人集まっている僕たちを、いったい何ごとかといった表情で見ている。確かにただごとには見えないだろう。僕は軽く手を上げて応えた。「何でもない」と「お疲れさん」の両方の意味でのジェスチャーだ。特にカウンターに用件がある様子もなく帰っていったその生徒を見送った後、僕は再びふたりの先輩に向き直った。


「じゃあ、今度は昔のことをおしえて」

「昔のこと?」


 唐突な要求に奏多先輩が首を傾げる。


「ええ、そうよ。昔のことが知りたいの。あなたたちがどう出会って、毎日をどう過ごしていたのか」

「それは、どうして?」


 再度問うた。


 だが、それは質問というにはどこか挑戦的な響きをもっていた。おそらく奏多先輩はその文章通り問い返しているのではない。理由を言葉にして言ってみろと、瀧浪先輩を試しているのだ。


 瀧浪先輩は一瞬躊躇った後、




「わたしは誰よりも静流の近くにいたいの」




 そうはっきりと口にした。


 先の土曜、奏多先輩は言った。『瀧浪は私が怖いのよ』と――。自分が知らない僕がいて、それを知っている奏多先輩がいることに不安を感じているのだとも言っていた。その言葉が真実を言い当てているなら、瀧浪先輩は過去の奏多先輩にこそ脅威を感じていることになる。


「別に話してもいいけど、そろそろ図書室が閉まる時間ね」


 そう言ってから、奏多先輩はこちらを見た。


「静流――」


 と、僕の名前を呼ぶが、しかし、それだけだった。


 これは何の間だろうかと思った次の瞬間、午後六時を告げるチャイムが鳴った。どうやら声と鐘の音が重なるから一旦話すのをやめたらしい。どうして時計も見ていないのに、秒単位の動きができるのだろうか。


 やがてチャイムが鳴り終わる。


「少しくらい閉めるのが遅くなっても大丈夫なの?」


 それは言外に話してもいいかを聞いていた。


 もちろん、問題はない。むしろもっと早くに話すべきだったのかもしれないが、そうするには僕の『欠落』についても触れざるを得ず、躊躇われたのだ。しかし、その部分ももう明らかになっている。今さら足踏みする理由はない。


「いいですよ。言い訳は考えておきます。何かあったら口裏を合わせてください」

「図書委員の許可が下りたわね」


 奏多先輩は一度立ち上がると、片手で椅子を瀧浪先輩へと向けてから再び腰を下ろした。背もたれに体をあずけ、腕と足を組む。その体勢で瀧浪先輩を見上げた。


 以前に制服の短いスカートでそういうことをしないでくれとお願いしたのだけどな。そう思いながら細くて長い足と短く詰めたスカートの裾との境界線あたりを見ていると、横に立つ瀧浪先輩に肘で小突かれてしまった。女性とは男のこういう行動に鋭いもののようだ。


「座れば?」

「いいえ、このままでいいわ」

「そう」


 短いやり取り。奏多先輩は「まぁ、いいわ。どうせたいして長くなる話でもない」と、誰に聞かせるわけでもなくつぶやいた。


「出会った経緯は忘れたわ。それくらいありきたりの出会いよ。この先の話にも影響はない」


 奏多先輩はそんな出だしで話しはじめた。


「その当時すでに私は周りから避けられていたわ。そして、私と会った静流は怯えるという最も一般的な行動を選択した」


 そう。それが正しいと思ったから。でも、奏多先輩は言った。「そんなに怯えなくていい。いや、怯える振りをしなくていいと言うべきね」と。


「静流の特技と欠けているものは聞いていて?」

「ええ。特技は自分を含めた周りを俯瞰で見ることができて、最適な行動ができること。わたしも同じことができるわ」


 故に瀧浪先輩は僕を指して『同類』と呼ぶ。


「でも、それに長けすぎたせいで、自分の感情に自信がもてない」

「そうね。静流は『欠落』なんて呼んでいるけど、私に言わせればそんなに大仰なものではないわ。近いうちに治る」

 ふたりとも身近な人間とは言え、他人に自分を分析されるというのはなかなか奇妙な感覚だ。

「兎に角、静流はその特技のせいで誰と接するにしてもそつがなくて、気持ちが悪かったわ」


 ひどい言われようである。


 だけど、普通は誰も気にしない。何せ僕は最適な行動をとっている。それが自然なのだから違和感はないはずなのだ。先の例であれば、初対面の壬生奏多を前にして平然としているほうが不自然だろう。


「だから私は静流をそばにおくようにした」

「なぜ?」


 今度は瀧浪先輩が首を傾げる。


「心配だったからよ。静流は場を鳥瞰しているようで、肝心なときに自分を計算に入れない癖がある」

「そうね」


 心当たりがある瀧浪先輩が神妙にうなずいた。


 直井が人目も気にせず僕を睨みつけたときと、僕の存在が瀧浪泪華のイメージダウンの原因になりかけたときだろう。僕としてはどちらもその時点での最適解をとったつもりだ。特に前者は今でもまちがいはなかったと思っている。


「言ってみれば、保護観察みたいなものよ。静流がバカなことをしでかさないようにね」


 そんなつもりで僕を近くに置いていたとは初耳だ。


「静流と出会って私が卒業するまでの二年間は、だいたい一緒にいたわ。家もさほど離れていなかったから、朝は私を迎えにきて一緒に学校へ行って、帰りは待ち伏せされて一緒に帰って。そこまでしろとは言わなかったはずなのだけど」


 奏多先輩は苦笑する。


「休日も一緒に過ごすことが多かったわ。あの時期にかぎって言えば、私は親よりも静流と一緒にいる時間のほうが長かった。私がこんな人間だから、親とうまくいっていないというのもあるけど。その代わり静流のお母様にはよくしてもらったわね」


 不意に亡くなった母が話題に上り、わずかに空気が重くなった。


 奏多先輩が自分で言ったように、彼女と彼女の両親との関係は良好には見えなかった。僕も数えるほどしかその姿を目にしておらず、娘の交遊関係には無関心な人たちだったようだ。そのせいか休みの日はうちにくることが多く、母は奏多先輩にも普通に接していた。


「こんなところかしらね。静流、補足はある?」

「いいえ、特には」


 問われて僕はそう答える。


「なら以上よ。瀧浪、参考になって?」

「……」


 だが、瀧浪先輩からは返事がない。


 その姿は戸惑っているようにも、躊躇っているようにも見えた。


「質問があれば聞くわ」


 奏多先輩もその雰囲気を感じ取ったのか、そう促す。


 瀧浪先輩が閉じていた口を開いた。かすかに「あ……」の発音。だが、すぐにまた閉じてしまった。


「いいえ、けっこうよ」


 言いながら首を横に振る。


「そう。じゃあ、私は帰るわ」


 奏多先輩はそれ以上追及しない。機会は与えたのだから、後は自己責任だと言わんばかり。彼女はすっと立ち上がると制鞄を掴み、瀧浪先輩と僕の横を抜けて図書室を出ていった。


 僕はその姿が見えなくなるまで見送る。ふと横を見れば、瀧浪先輩も同じように図書室の出入り口を見つめていた。


「わたしも帰るわ」


 やがて瀧浪先輩が口を開く。


「待ってくれ。僕も一緒に」

「そう。じゃあ、廊下で待ってるわ」


 そう言って微笑むと、彼女は廊下へと出ていった。

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