第2章 お馴染みのイベント

第1話

 放課後の図書室。


 いつものように静かに時間が流れる。


 僕もカウンターの中で簡単な勉強をしていた。今のところ状況は切迫していないが、いよいよ勉強時間が足りなくなってきたら浅羽先生が言うように図書室を閉めさせてもらおう。


 カウンターに近づいてくる人影に気づいた。奏多先輩だ。僕は頭の中で組み立てていた解法を一旦崩し、待つ。


「静流」

「はい、なんでしょう?」


 参考書を伏せながら答える。


 貸出か? 返却か? しかし、図書を持っていないので、そのどちらでもなさそうだ。

 一般に図書館のカウンター業務には貸出や返却、予約などのほかに、参考調査レファレンスがある。参考調査は利用者の知りたい情報が書かれた資料を見つけ出すサービスのことだ。自館になければ他館から取り寄せたり、場合によっては博物館や郷土資料館などを紹介することもある。


 という話は、当然僕自身の知識ではなく、例の講演会の演台に立ったあの人に教えられたものだ。


 それでもそれを実践している自負はあって、以前に椎葉茜先輩に万葉集関係の図書を提供したのがそれにあたるだろうし、その後も時々彼女から弟妹にもわかる本がほしいと頼まれたりもしている。


 さて、今回の奏多先輩は何の用だろう?


 彼女はほとんど僕を頼らない。ただし、ごく稀に特定のものごとについて調べているから手伝えという事項調査でカウンターにくることがある。そういうときはたいていその重厚な内容に図書室中の本をひっくり返すような騒ぎになるのだ。


「今度出かけるわ。ついてきて」

「……」


 図書委員としての業務とまったく関係がなかった。

 何でもこいとばかりに身がまえていただけに唖然としてしまい、僕は思わず言葉を失う。


「えっと、もうすぐテストですが?」


 なぜこのタイミングで出かけようとするのか。


「もっと早く行くつもりだった。だけど、その予定を潰したのはお前だったと記憶しているわ」

「でしたね」


 奏多先輩に責めるような鋭い眼光を向けられ、僕は苦笑しながら答える。


 確かに少し前にそういう話が持ち上がっていた。しかし、そこに蓮見先輩が強引に買いものの予定をねじ込んできて、あえなく流れてしまったのだった。


「とは言えですね――僕、これでもいちおう彼女がいるんですよ」


 七月七日、七夕の笹の前。


 結局、最後の最後で僕が有耶無耶にしてしまったが、あんなものは言葉の上だけの話で、僕と瀧浪泪華はそういう関係にある。


 しかし、僕に彼女がいるからと言って、奏多先輩がいちいち忖度するとは思えない。前にも言ったように、行動変容とは縁遠い人なのだ。


「そうだったわね」


 今度は奏多先輩が納得する番だった。


 そして、踵を返し、再び席に戻っていく。


「あれ?」


 僕は思わずそう口にしていた。


 しまったな。まさかこうも簡単に引き下がるとは思わなかった。僕とて断りたくて理由を探していたわけではなく、むしろ喜んでおともするつもりだったのだが。これは予想外の展開だ。


 また閉室時に声をかけようと思い、僕はひとまず図書委員の業務に戻った。




 そうして閉室時間が近づいてきたころだった。

 いつものように瀧浪泪華がやってきた。


「こんにちは、真壁くん」


 お淑やかな優等生のように挨拶。


 と、そこで僕がさっきまで見ていた参考書に気がついた。


「お勉強?」

「ええ、まぁ」


 図書委員がカウンターの中で勉強などあまり褒められた行為ではないので、僕は曖昧に答える。


 奏多先輩やほかの生徒に見られてもわりと平気なのだが、瀧浪先輩に対してだけこういう反応になるのは、案外不真面目なところを見られたくないと思っているのかもしれない。……以前に盛大にやらかしているから、今さらではあるのだが。


「そうだ。後で少しだけ教えてほしいところがあるのですが」

「あら、嬉しい。頼ってくれるのね。ええ、もちろんいいわよ」


 少し気になるところがあって指南をお願いすれば、瀧浪先輩からは快諾が返ってきた。彼女は教えるのがうまい。それは身をもって知っているので、再び頼らせてもらおうと思う。


「あ」


 と、そこで何かに気づいたように、瀧浪先輩が小さく発音した。


「今日は眼鏡を持ってきていないわ」

「いや、それは必須じゃないです」


 確かに前回、洒落で買った眼鏡をかけていたが、あれは勉強を教えるのに何ら寄与していない。


 不意に瀧浪先輩がカウンター越しに顔を寄せてきた。




「だって、静流、ああいう知的な感じのお姉さんに誘惑されるの好きでしょう?」

「いつ、誰がそんなことを言った?」




 勝手にそんな趣味をつけ足してくれるな。僕も顔を近づけ、真正面から視線を返す。


「まぁ、いいわ。眼鏡がなくても知的な女を演じることはできるもの」

「……」


 なぜそこに拘るのだろうな。そして、彼女なら本当にやりそうで怖い。何せ周りの、美しく聡明であってほしい、お淑やかな女の子であってほしいという期待に応えてできあがったのが今の瀧浪泪華なのだから。周囲の理想を演じることは得意なのだ。……こう書くと、まるで僕が期待しているみたいだな。


「今日は正面じゃなくて隣に座るわ。よくできましたのご褒美もいいけど、やる気がない子をその気にさせる先生っていうのもいいかもしれないわね」

「……教える気がないならそう言ってくれ」


 やる気が問われているのはむしろそちらではないだろうか。


「でも、真壁くん、本当に大丈夫なの? 毎日六時まで図書室を開けて、勉強時間が取れてないんじゃない?」


 瀧浪先輩は顔を離し、今度は面倒見のいい上級生のように心配してくる。


「大丈夫ですよ、今のところはね。それにこうして成績優秀な上級生をつかまえて、わからないところを教えてもらおうとしているわけで」


 そう答えたところで、閲覧席にいた奏多先輩が立ち上がるのが見えた。こちらにくるようだ。そうやって目で追ってしまったせいで、瀧浪先輩も僕が何に気を取られたのかと振り返る。


 その結果、ふたりで奏多先輩を迎えるようなかたちになった。


「瀧浪、悪いのだけど、今週末静流を借りるわ」

「え……?」


 挨拶もなくいきなり切り出してきた奏多先輩に、瀧浪先輩は小さく驚く。


 まさか先ほどあっさり引き下がったのは、こうして出直してきて瀧浪先輩の了解を得るためだったとは思わなかった。きっとこれでも気を遣ったのだろう。そこまで他人の事情に無頓着ではないようだ。


 さて、瀧浪先輩はどう出るだろうか。


 僕は奏多先輩と一緒に出かけるのは吝かではない。これといって特別なことではなく、昔からごく普通にやっていることだ。ただし、瀧浪先輩に抵抗があるならやめておくべきだと思っている。今の僕は彼女の気持ちを最大限尊重しなければならない立場にあるのだから。


「それって――」

「目的は服を買いにいくこと」


 尋ねかけた瀧浪先輩の言葉を先回りするように、奏多先輩は告げる。まるで軍人が作戦概要を説明するかのようだ。


「ふ、服……?」


 瀧浪先輩が助けを求めるように僕を見た。


 服を買いにいくために出かける――素直に聞けば何も問題のない話の流れなのだが、彼女の頭の中ではうまくつながらなかったようだ。それも壬生奏多という浮き世離れした存在のせいか。


「奏多先輩は昔から僕に服を選ばせるんだ。そういうのは苦手らしくてね」

「そ、そうなの……?」


 瀧浪先輩は不思議そうに奏多先輩を見る。


「私は自分を飾ることに興味がない」


 返ってきたのは、どこか言い訳めいた奏多先輩の言葉。何となく珍しいものを見た気分だ。


「でも、映画鑑賞の日に見かけたけど、すごく似合ってたわ」

「あれも僕が選ばされたものなんだ。朝から電話がかかってきてね。面倒だからお前が決めろって。買う服どころか、その日着る服すら選べないんだ」


 あの日は私服可の校外学習だった。無論、それは奏多先輩とて例外ではない。結局当日は会うことがなかったし、わざわざ連絡を取ってまで合流する理由もなかったので姿を見ることはなかったが、きっと僕が指示した通りのコーディネイトで家を出たにちがいない。


「まぁ、本人なりにがんばって選ぼうとしたんだろうけどね。結局決められず、最後は僕に丸投げしたわけだ」

「お前……」

「おっと」


 調子よく話していると、横から温度の低い声が聞こえてきた。……しまった。奏多先輩の反応が面白かったせいで、少ししゃべりすぎたか。


「……」


 瀧浪先輩は、僕と奏多先輩とを交互に見る。笑うわけでもなく、怒るわけでもなく。何やら考えているようだった。


 奏多先輩も黙っている。質問は投げかけた。次はそっちが答える番だとばかりに、ただ待つのみ。


「瀧浪先輩がいやなら断るよ」


 僕がそう告げれば、彼女は首を横に振った。


「ううん、大丈夫。気にせず行ってきて」

「わかった」


 僕はうなずく。


「悪いわね、瀧浪」


 そして、奏多先輩はそう言ってから席に戻っていった。


 またも珍しいものを見たような気がして、僕は奏多先輩の動きをじっと目で追ってしまった。それは瀧浪先輩も同じだったようで――結果、僕たちはふたりしてカウンターを離れていく彼女を黙って見送ったのだった。別に奏多先輩が謝罪や感謝の言葉を口にしたことがないわけではないのだが。


「悪いね」


 今度は僕が言う。


「奏多先輩は人の事情を斟酌しないから。自分の理屈で生きてるっていうかさ」

「そう? ちゃんと断りにきたじゃない」


 確かに。そこはちょっと予想外だった。


「それだけ静流に甘えてるってことかしらね」


 瀧浪先輩は小さく笑う。


「それに意外だったわ。服が選べないなんて。壬生さん、何でもスマートにこなしそうなのに」

「単に面倒になってるだけだと思うけどね」


 きっとその気になればそれくらいやるのだろう。本当にできないのなら大問題だ。奏多先輩ならよほどのミスチョイスをしないかぎり何を着ても似合うだろう。だけど、僕がいるせいでむりをしなくていい状態が続いているのだ。そういう意味では確かに甘えているのかもしれない。


「それにしても――」


 と、瀧浪先輩は改めて僕を見る。


「やっぱり自覚が出てきたみたいね。わたしがいやなら行かないなんて」

「そりゃあね」


 もうこの期に及んで何のことだなんて聞くのはやめておいた。

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