第4話

「ただいま戻りました」


 蓮見邸のリビングへと這入る。


 結局、瀧浪先輩と一緒に学校を出たものの、どこかに寄ることもなく真っ直ぐ帰ってきた。


 彼女は特に不満を口にしなかったが、これでいいとは思わないくらいの常識はあるつもりだ。定期テストが終わったら少し真面目に考えよう。とは言っても、すぐに夏休みになるが。


「おかえり」


 キッチンから蓮見先輩の声がした。夕食の準備中らしい。


 やわらかそうな素材のロングパンツに、ゆったりとしたTシャツというスタイル。起伏のある体のラインがわずかも見えないその姿を見て、今日はおじさんが帰ってくるんだなと思った。


 でも、当然と言えば当然で、昨日は当直だった。いくら人手不足とは言え、二日続けて帰れないほどブラックではない。……尤も、日勤の後に夜勤に入って、そのまま次の日の日勤と続けば、それだけでも十分にブラックと言えるが。


 その蓮見氏の姿はない。自室の扉の向こうにも気配を感じないから、まだ帰宅していないようだ。


「もうできるから、着替えたらすぐに下りてきなさい」

「あれ、おじさんは? 今日は帰ってくるんじゃないんですか?」


 まるでふたりで食べるような言い方に、僕は首を傾げる。病院とは僕が思っていた以上にブラックな労働環境だったのだろうか。


 だが、改めて蓮見先輩を見ても、やはりおじさんが帰ってくるときのような服装だ。


「もちろん、帰ってくるわよ。でも、ちょっと遅くなりそうだから先に食べてろってさ。さっき連絡があったわ」

「ああ、そうでしたか」


 それなら納得だ。


「ていうか、あんた、あたしを見てお父さんが帰ってくるこないを判断するんじゃないわよ」


 蓮見先輩は口の端を吊り上げながら言う。半分怒って半分笑っている。こちらの意図はわかっているはずなので、いい度胸だと言わんばかりの表情になっていた。


「いや、まぁ、それがいちばん早いので」


 帰ってきて蓮見先輩の服を見れば瞬時にわかる。


「まったく……」


 蓮見先輩は呆れたようにため息を吐いた。


「あの人さ、すぐあたしの服に文句を言ってくるのよね。口うるさいったらないわ。だから、いないときくらい好きにさせてもらうわよ」


 どうやら本人にとっては切実な問題らしい。


 蓮見先輩はどうも厚着が苦手なようで、服は一枚でも少ないほうがいい、肌を覆う面積もできるだけ小さいほうがいいらしい。スタイルがいいのだから、おじさんの言うことを聞くだけではなく、僕の目も気にしてほしいところだ。


「僕も時々言ってるはずですけどね」

「あんたの口うるささはスルーできるのよ」


 しかし、軽く一蹴されてしまった。


「ひどい話だ」

「うるさいわね。これ以上文句を言うなら追い出すわよ」

「おっと」


 追い出されてはかなわぬと、僕は蓮見先輩に背中を向けて逃げ出す。

 そうして二階へ上がろうとしたときだった。


「し、静流っ」


 異母姉の僕を呼ぶ声。


「はい?」


 僕が階段の途中で足を止めて振り返れば、彼女はその下まできていた。僕を見上げ、自信なさそうに言葉を紡ぐ。


「さっきの、冗談だから。お、追い出すとか本気にしないでよ」

「わかってますよ、それくらい」


 改まって何を言い出すのかと思えば、そんなことか。蓮見先輩としては冗談で言ったつもりだが、言った後で僕が気にしていたらどうしようと思ったのだろう。一度言葉で失敗しているから、よけい敏感になっているのかもしれない。


 思わず笑ってしまいそうになったが、僕は鼻で小さく笑うだけにとどめた。


「着替えてきます」


 あまり蓮見先輩を見ていても居心地が悪いだろうと思い、僕は再び背を向けて階段を上りはじめた。


 実際、この家を追い出されるとなったら、今の僕は何を思うだろう?


 少し前まではそもそも僕がこの家にいること自体が健全な家族の形態ではないと考えていた。仮に追い出されたとしても、それが当たり前だと思っただろう。でも、今はこの家にも、蓮見先輩やおじさんとの生活にも慣れてきた。


 できればこの家を出るときは自らの決断で、ふたりに笑顔で見送られるようなかたちでありたいものだ。




          §§§




 蓮見先輩に言われた通り、僕は部屋で手早く着替え、二階の洗面台で手を洗ってから下りてきた。


 ダイニングテーブルに広がっていたのは、冷しゃぶをメインにした夏らしい夕食。


「「いただきます」」


 いつものように、別にタイミングを合わせようとしたわけでもないのに声をそろえて言い、僕らは食べはじめる。


「そうだ、蓮見先輩。聞いてもいいですか?」

「ん、なに?」


 少しばかりおしえてもらいたいことがあって問えば、蓮見先輩は先ほどの失敗を引き摺った様子もなく返事をした。尤も、そもそも失敗でも何でもないので、気にする必要は欠片もないのだが。


「学校の帰りに女の子と寄り道するならどこがいいですかね?」

「は?」


 その反応は朝とよく似ていた。お前は何を言っているんだと険しい顔で、虫でも見るような目だ。


「それをあたしに聞く?」


 なぜかキレ気味。


「いや、だって、蓮見先輩もどこかに寄って帰ることくらいあるでしょう?」

「え? そりゃあ、あるけどさ……」


 と、そこで彼女ははっとして、


「べっ、別に男とじゃないからっ」

「言われなくてもわかってますよ」


 友達同士でも参考になるし、その中に男も入っていれば僕が想定している状況に近くなるだろう。


「わかってるってどういうことよ。あたしだって男と一緒にどこかに行くかもしれないじゃない」

「それはそうですけど、今のところそういう話を聞いたことがないので」


 蓮見紫苑は校内でも有名人だ。僕が入学して間もなく、その名前は耳に入ってきた。いくつか噂も流れてきたが、彼氏だの誰かとつき合っているだのという話は聞いたことがない。もちろん、蓮見先輩が周りにひた隠しにして男と交際している可能性もあるだろうけど。


「ていうか、ちょっと落ち着きましょうよ。何でそんなに情緒不安定なんですか」

「そ、そうね……」


 蓮見先輩はそう言うと、冷静になるためか、少しの間食事を進めた。


「で、女の子とどっかに寄るって、瀧浪さんと?」

「まぁ、そうなりますね」


 別の女の子を想定できるほど僕はモテる男ではない。むしろひとりいるのが幸運で、それが瀧浪泪華であるのが奇跡ですらある。


「でもさ、夏休みにはデートもするんでしょうが。だったら、今むりして学校帰りにどこかに行かなくてもよくない?」

「そうなんですけどね。だからって、じゃあ今はただ仲よく一緒に帰ってるだけでいいのかって気もするんですよ」


 小中学生じゃあるまいし。高校生らしい振る舞いってものがあるだろう。


「へぇ、それなりに考えてるじゃない。感心感心」


 そうしてまた黙って食事をする。


「……」

「……」


 僕も黙って食べた。


 いや、さっきの問いへの回答は?


「えっと……」

「決めた」


 僕が改めて尋ねようとしたタイミングで、蓮見先輩も口を開いた。


「海かプールか知らないけど、あんたたちが遊びにいくときはあたしも一緒に行くわ」

「はぁ!?」


 いきなり飛び出した仰天発言に、僕は盛大に驚いてしまった。


「何でそんな結論になるんですか!? 冗談じゃない!」


 瀧浪先輩ひとりでも火力が高いのに、グラビアアイドル顔負けのスタイルをした蓮見先輩までついてくるとか、オーバーキルがすぎるだろ。人に向かって戦車の大砲をぶっ放すつもりか。


「あー、うるさいうるさいうるさいっ」


 しかし、蓮見先輩は実に鬱陶しそうに掌を振る。


「静流、瀧浪さんとはできれば行きたくないって言ってたじゃない。だったら、あたしも一緒に行ってあげるわよ」

「だから、それがわからないって言ってるんです!」

「あたしがいれば瀧浪さんばっか見なくてすむでしょうが」


 まるでそれが至極当たり前の理屈であるかのように蓮見先輩は言う。


「いや、そういう問題じゃなくてですね」


 例えるなら太陽がふたつあるようなものだ。直視したら危険なものがふたつあったところで、リスクは分散されるどころか倍増する。


 これはまずいな。何かの拍子に瀧浪先輩と結託されたら、後は押し込まれる未来しか見えない。何としてもここで喰い止めなければ。


「おお、ずいぶんと楽しそうじゃないか」


 と、そこに現れたのは蓮見氏だった。どうやら話がエキサイトしていて、玄関ドアの開く音が聞こえなかったようだ。


「あ、おかえり」

「おかえりなさい」


 蓮見先輩と僕が挨拶で応える。


「思ったより早かったわね。言ってくれたら待ってたのに」

「結果的にそうなっただけだよ」


 蓮見先輩に連絡をした時点ではもっと遅くなる予定だったようだ。


「すぐにお父さんのも用意するわ」

「いや、いい。私のことは後でかまわないから、まずはゆっくり食べなさい」


 おじさんは椅子から立ち上がりかけた蓮見先輩に向かってやわらかくそう言うと、リビングを横切って自室のほうへと消えていった。昨日の朝から働き詰めだっただろうに、それでも笑顔なのは僕と蓮見先輩が賑やかに食事をしていたのが嬉しかったからにちがいない。


 僕と蓮見先輩は顔を見合わせた。


「じゃあ、先に食べてしまおうか」

「そうですね」


 そうして僕たちは食事を再開する。


 やがておじさんが部屋から出てきてリビングで新聞の夕刊を読みはじめると、蓮見先輩は少しだけ食べる手を速めたのだった。

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